動揺する悪魔たち
バルゼウスの拳が振り下ろされた瞬間、誰もがこの幼い王子の死を確信していた。
しかし——
結果は誰の予想とも違っていた。
王子レオネルは、無傷だった。
その事実に、悪魔たちは静寂し、ただ驚愕するしかなかった。
「……おい、嘘だろ……?」
「見間違いか? 本当にバルゼウス様の拳が当たったのか?」
「いや、確実に当たっていた……! でも、どうして生きている……?」
「まさか……リリエル様がこいつを守ったのか?」
「いや、そんな気配はなかったぞ……?」
悪魔たちはざわめきながらも、答えの出ない疑問に頭を抱えていた。
“バルゼウスの攻撃を、人間の子供が無傷で耐えた”
それは、常識ではあり得ないことだった。
だが、それ以上に衝撃だったのは——
当の本人が、それをまったく気にしていないこと。
「ねぇねぇ! お犬さん! すごいね! もっとやって!」
レオネルは無邪気にバルゼウスの腕を引っ張りながら、楽しそうに跳ね回っていた。
「……お、お犬さん?」
悪魔たちは混乱のあまり、完全に思考が停止した。
「いや……何だ、この状況……?」
「あのバルゼウス様が、『お犬さん』呼ばわりされている……?」
「つ、強大なる魔獣の災厄が……ただの犬扱い……?」
普段ならば、バルゼウスの名を軽んじた者は一瞬でその首を刎ねられている。
だが、当のバルゼウス本人は、まったく怒っていなかった。
いや、それどころか、彼は今、これまで感じたことのない“奇妙な動揺”に包まれていた。
(……何だ、これは?)
バルゼウスは、レオネルを見下ろしながら、混乱を隠せなかった。
「お犬さん」
そう呼ばれることは、些細なことだ。
問題は、この子供が自分をまったく恐れていないという事実だった。
この城の中で、バルゼウスを前にして怯えない者など、リリエル様を除けば皆無だった。
彼の存在は「圧倒的な恐怖」の象徴であり、強者であろうと彼の前では震え上がるのが常だった。
それなのに——
この子は、ただの一度も怯まず、むしろ親しげに接している。
それどころか、嬉しそうに跳ね回り、「遊んで」と言い出している。
(俺は、こいつを殺すつもりだった……)
それなのに、彼は何も気にしていない。
(……まるで、何も怖くないみたいに……)
まるで、最初から自分が傷つくはずがないとでも思っているように——。
バルゼウスは、無意識に拳を握った。
もしこの子が「何か」を持っているとしたら?
リリエル様が、ただの気まぐれでこの子を選んだわけではないとしたら?
それを確かめるために、もう一度——
「……お犬さん?」
その思考を遮るように、レオネルがバルゼウスの鼻先をツンツンと指で突いた。
その瞬間——
四天王最強の戦士が、完全に思考を吹き飛ばされた。
(……な、なんだこいつ……!?)
(俺の鼻を……ツンツンだと……!?)
これまで千年近く生き、幾多の戦場を駆け抜け、死と殺戮の中で生きてきたバルゼウスは、初めての経験に直面していた。
「ふわふわしてる! すごいね、お犬さん!」
レオネルはバルゼウスの黒い毛を撫でながら、楽しそうに笑った。
バルゼウスの口が、無意識に開いた。
「…………俺は……お犬さんではない…………」
ようやく絞り出した言葉だった。
しかし、レオネルはそんなことなど気にも留めず、バルゼウスの尻尾をフリフリと持ち上げる。
「わぁぁ! しっぽがすごく大きい! かっこいい!」
バルゼウスの理性が、崩れかける。
この異常な光景を見ていた悪魔たちは、別の意味で震え上がっていた。
「……こ、これは……どういう状況だ……?」
「俺たちの知ってるバルゼウス様はどこに行った……?」
「あの恐怖の象徴が……“お犬さん”にされている……」
「く、狂ってる……」
まるで奈落の城そのものが、何かおかしな空間に変貌したようだった。
これまで彼らの主だった四天王の一人が、たった一人の人間の子供によって翻弄されている。
「……あ、あり得ん……」
「な、何かの魔法か? いや、これは違う……」
「つまり……?」
「バルゼウス様が、この人間に負けたということ……なのか?」
震える声で誰かが呟いた。
その瞬間、全員の視線が再び王子へと向けられる。
だが——
王子はそんなことなど、まったく気にしていなかった。
「ねぇ、お犬さん! お散歩しよう!」
バルゼウスの肩が、僅かに震えた。
(……もう、どうしたらいい……?)
その問いの答えを、彼は持っていなかった。