王子と悪魔たち
リリエルの命令が下り、悪魔たちは一応は王子を襲うことをやめた。
しかし、それは決して納得したわけではなかった。
「お前たちは、彼に仕えろ。」
魔王の言葉に逆らうことは死を意味する。
だが、それでも悪魔たちはざわめきを抑えられなかった。
「本当に、契約を結んだのか?」
その疑問が、城の中に波紋を広げていた。
「リリエル様が、たかが人間の子供を契約者にするなどあり得るのか?」
「しかし、そうでなければ、この子を喰わずに守る理由がない……」
「いや、ただの気まぐれだろう。リリエル様は昔から、時折理解不能な行動を取る」
「それにしたって……。普通なら、喰うだろ?」
悪魔たちは二つの派閥に分かれていた。
一方は、「リリエル様はこの人間の子供を契約者にした」と考える者たち。
もう一方は、「そんなことはあり得ない。ただの気まぐれだ」と否定する者たち。
どちらも確信が持てず、口論は次第に激しくなっていった。
「契約を結んだのなら、今後この子は魔力を得て、リリエル様の加護を受けることになる!」
「そんなわけがない! あの方が、自分より弱い存在と契約すると思うか? このガキがどれだけ強くなると言うんだ?」
「でも、もしそうなら、我々はこの子を主と呼ばねばならないのか?」
「はぁ? 冗談じゃない! 人間ごときに跪くなど、俺はごめんだ!」
言い争いは続き、ついには互いに睨み合い、魔力がぶつかり合うほどの小競り合いが始まろうとしていた。
しかし、その場にいた悪魔たちは皆、気付いていなかった。
上位の存在が、この議論を静かに聞いていたことを——。
リリエルには、四人の「四天王」と呼ばれる直轄の配下がいる。
彼らは、数多の悪魔の中でも頂点に立つ存在であり、それぞれが独自の強大な力を持ち、リリエルに絶対の忠誠を誓っている。
第一席《魔獣の災厄》バルゼウス
→ 巨大な魔狼の姿を持つ戦闘狂。肉体強化と獣の勘に優れ、戦場では無双の強さを誇る。
リリエルに命を救われた過去を持ち、彼女を「唯一無二の女王」として崇める。
忠誠心が厚く、敵対する者には無慈悲。
第二席《深淵の炎》ヴァーシャ
→ 黒炎を纏う美しき魔女。強大な炎魔法を操り、奈落の森の「守護者」としての役割を担う。
リリエルに心酔し、彼女を「最高の絶対者」と信じている。感情の起伏が激しく、敵には容赦しない。
第三席《千の影》グラトス
→ 影のように動く暗殺者の悪魔。敵を仕留めるのに最適な力を持ち、どんな標的も逃がさない。
リリエルを「唯一、自分を理解してくれる存在」と信じ、彼女の言葉には一切逆らわない。
物静かで冷酷。
第四席《嘲笑う死》ネヴィロス
→ 骸骨のような仮面を被った異形の悪魔。死霊術と呪詛を操り、相手を精神的に追い詰めるのが得意。
リリエルへの忠誠は厚いが、その方法は他の三人とは違い、あくまで「自分なりの敬愛」を示す。
皮肉屋で他の悪魔をからかうのが好き。
彼ら四天王は、全員がリリエルを深く慕っている。
彼女こそが、奈落の森を支配する絶対者であり、唯一彼らを導く存在であると信じているのだ。
その四天王の一人が、悪魔たちの言い争いを聞きながら、ゆっくりと動き出した。
「……くだらん」
低く唸るような声が響いた。
その瞬間、悪魔たちのざわめきが一瞬で消える。
皆が、その声の主を見た。
そこに立っていたのは、第一席《魔獣の災厄》バルゼウスだった。
巨大な狼の頭部を持ち、鋭い赤い瞳が光る。
体は漆黒の毛で覆われており、全身から発せられる魔力は圧倒的だった。
「バ、バルゼウス様……?」
彼は、リリエルへの忠誠心が最も強い四天王の筆頭。
そのバルゼウスが、じっと王子を見つめていた。
「……リリエル様のご決定に異を唱えるつもりはない」
彼は冷静に言う。
「だが——こいつが本当にそれに値するのか、試す必要がある。」
悪魔たちの間に、緊張が走る。
「試す……?」
バルゼウスは、ゆっくりと王子に歩み寄る。
圧倒的な殺気が放たれた。
その瞬間、城の空気が一変する。
「おいおい……まさか、本気で殺す気か?」
「いや、バルゼウス様がやることに、手加減なんてないだろう……」
彼の足音が響くたび、空間そのものが震える。
リリエルの命令があった以上、直接手を出すつもりはない。
しかし、それでも「試す」ことは許されるはずだ。
——このガキが、ただの「気まぐれ」なのか、それとも「何か特別なもの」なのか。
見極めねばならない。
彼はゆっくりと拳を握りしめた。
「お前に、この城で生きる資格があるかどうか——見極めさせてもらうぞ」
彼の巨大な腕が、王子に向かって振り下ろされる——。
——ドン!!
轟音が響き、空気が裂ける。
地面が揺れ、衝撃波が城の広間を駆け抜けた。
悪魔たちは身構え、粉塵が舞う中で結果を見定めようとした。
——殺したか?
そう思った瞬間、異様な静寂が広間を包んだ。
「……な、に……?」
誰よりも驚いていたのは、バルゼウス自身だった。
彼の拳は、確かに振り下ろされた。
相手が人間の子供であろうと、手加減するつもりはなかった。
むしろ、力加減を誤り、殺してしまうはずだった。
だというのに——
その小さな体には、一片の傷もなかった。
王子レオネルは、何の防御もせずに、ただその場に立っている。
まるで何事もなかったかのように。
彼の黄金色の髪が微かに揺れる。
その蒼碧の瞳は、微塵の恐怖も見せずにバルゼウスを見上げていた。
そして——
「わぁぁ……! すごい! かっこいいお犬さん!」
王子の口から出たのは、無邪気な歓声だった。
広間にいた全ての悪魔が、言葉を失った。
「……かっこいい……お犬さん?」
「……お、犬……?」
「あのバルゼウス様を、“お犬さん”……?」
一同が呆然とする中、バルゼウスの拳はまだ宙にあった。
殺すつもりだった。
そのつもりで拳を振り下ろした。
それなのに——
なぜ、この子供は無傷なのか?
なぜ、まったく恐れていないのか?
バルゼウスの思考が、一瞬停止する。
(……何だ、これは?)
バルゼウスは内心で、信じられないほどの困惑を覚えていた。
本当に殺すところだった。
人間の子供など、悪魔の一撃を受ければ即死するに決まっている。
実際、過去にリリエルが捕らえた人間どもを試したことは何度もあった。
だが、まともに耐えられた者など、一人もいなかった。
だから、この子も例外ではないはずだった。
それなのに——
(……何が起きた?)
確かに当たったはずなのに、なぜ傷ひとつない?
バルゼウスは、無意識のうちに王子の体を見つめる。
この子供には、特別な魔法障壁のようなものが張られているわけではない。
リリエルの加護が働いた様子もない。
ならば、どうして?
(……俺の力が、通じなかった?)
そんな馬鹿な。
あり得ない。
だが、事実として目の前に立っている。
その上——
(このガキ……俺に対して、まったく敵意を持っていない……?)
バルゼウスは、戦場を何度も渡り歩いてきた。
どんな敵でも、どれほど強かろうと、彼に敵意を向ける者はすぐに分かる。
だが、この幼子からは——
一切の敵意が感じられない。
それどころか、ただ純粋に目を輝かせて、自分を見つめている。
「……すごい……! ねぇ、お犬さん!」
「もっと遊んで!」
バルゼウスの心臓が、一瞬止まる。
(——遊んで?)
殺すつもりだった相手に、そんなことを言われるとは思わなかった。
悪魔たちは、さらに混乱を深めている。
「お、お犬さん……?」
「いや……どういうことだ……?」
「バルゼウス様の攻撃が……当たらなかったのか?」
「いや、当たったはずだ! なのに無傷……!?」
悪魔たちの間で、騒然とした空気が広がる。
だが、その中心にいる王子レオネルは、ただ純粋な眼差しでバルゼウスを見つめていた。
それは、「恐れ」でも「畏怖」でもない。
ただ、目の前の存在を心から格好いいと思っただけ。
この森に生きる者たちは、誰もが死と暴力の中で育ってきた。
だからこそ、こんな「無垢な反応」を返されたのは、バルゼウスにとっても生まれて初めての経験だった。
(……なんだ、このガキ……)
バルゼウスは、無意識に拳を下ろしていた。
この子供は、いったい何者なのか?
何故、リリエル様はこの子を選んだのか?
その疑問が、彼の中でますます膨らんでいく。