奈落の森の王子
リリエルは、幼子の小さな体を片腕で抱え上げると、そのまま宙を舞った。
彼女の漆黒のマントが闇と溶け合い、瞬く間にその姿は霧の奥へと消えていく。
——向かう先は、「奈落の城」。
奈落の森の最も深き場所にそびえ立つ、黒き要塞。
「奈落の玉座」とも呼ばれ、無数の悪魔たちが棲まう恐怖の城だった。
高くそびえ立つ黒曜石の塔、冷たい霧に包まれた石畳、無数の赤い瞳が闇の中で蠢いている。城の扉はまるで巨大な魔獣の口のように裂け、近づく者を今にも喰らおうとしていた。
ここは、人間の理が及ばぬ世界。
生半可な存在では、一歩踏み入れるだけで命を失う。
そんな場所に、たった五歳の人間の子供が連れてこられた。
城の中に入ると、すぐに異様な気配が満ちた。
リリエルの帰還を察知した悪魔たちが、影から姿を現し始めたのだ。
闇に溶ける黒い影、紫色の炎を纏った獣、牙を剥いた異形の者たち。
彼らは、皆がリリエルの配下であり、奈落の城に仕える悪魔たちだった。
だが、彼らの視線はすぐにリリエルの腕の中にいる存在へと向けられた。
人間の子供——王族の生き残り。
途端に、空気がざわめき始めた。
「……ニンゲン? ここに連れてくるとは、どういうことだ?」
「これは、喰っていいのか? リリエル様が、珍しく獲物を持ち帰ったぞ」
「クク……美味そうな魂の匂いがする」
悪魔たちの目が飢えに満ちた赤い光を放つ。
この城に住まう悪魔は、全てが人間を喰らう存在。
魂を糧とし、欲望のままに狩る存在たち。
彼らにとって、今目の前にある幼子は、ただの獲物だった。
「フン……喰らっていいんだよな?」
そう言って、一体の悪魔が鋭い爪を光らせながら近づいた。
青黒い体、蛇のような瞳を持つ悪魔。
リリエルは、それを無言で見つめていた。
次の瞬間——悪魔の体が、真っ二つに裂かれた。
何が起こったのか、悪魔たちには分からなかった。
一瞬前まで王子へと手を伸ばしていた悪魔は、次の瞬間には裂け、血の霧となって消えていた。
音もなく、悲鳴すら許されずに。
リリエルは、いつの間にか手を振った形すら見せていなかった。
「……誰が、この子を喰っていいと言った?」
その声は、静かで、冷たく、そして絶対的だった。
「ヒッ……!」
悪魔たちの間に、恐怖が走る。
リリエルが「制裁」を加えるのは珍しいことではなかった。
彼女は気まぐれで冷酷な魔王。従わぬ者には、死以外の結末はない。
しかし——
何故人間を庇った?
悪魔たちはざわめき始める。
「……どういうことだ?」
「まさか、リリエル様が人間を守るとは……?」
「魂を喰らう我々の主が、なぜ……?」
ざわざわとした声が交錯する。
誰もが理解できなかった。
リリエルは、彼らのような悪魔にとって絶対の存在。
彼女は「災厄の魔王」と呼ばれ、幾千の人間の魂を貪ってきた。
それなのに——
たかが人間の子供ひとりのために、仲間を殺した?
何を考えている?
「……待てよ、まさか」
一体の悪魔が、何かに気づいたように口を開く。
「これは……新たな契約者なのでは?」
その言葉に、悪魔たちのざわめきは一層大きくなった。
「馬鹿を言うな! リリエル様が人間ごときと契約するものか!」
「なら、何だ? あの子を喰わず、守る理由があるとでも?」
「……いや、もしかすると……」
悪魔たちは、リリエルの真意を探ろうとしながらも、誰も彼女に直接問おうとはしなかった。
それほどまでに、彼女は恐れられていた。
魔王の意図を疑うことすら、許されぬのだ。
そんな中、リリエルはふと笑みを浮かべた。
「……お前たちに命じる」
悪魔たちは、息を飲む。
リリエルは、ゆっくりと城の中心へと進みながら言った。
「この子は、私が育てる」
その言葉が落ちた瞬間、城の空気が凍りついた。
「……は?」
低く呆然とした声が漏れる。
「育てる……? 何を……?」
「……いやいや、待て。それは……そういう意味か?」
「そんなことがあり得るのか?」
「魔王が、人間を育てる?」
悪魔たちは顔を見合わせた。
理解不能。
前代未聞。
想像すらできない異常事態。
この城に生きる者たちにとって、「育てる」という行為そのものが無縁のものだった。
悪魔は本能のままに生き、喰らい、力を増し、滅びる。
親子などいない。家族という概念すらない。
それなのに、リリエルが「育てる」と言った。
まるで、人間のように——。
「……つまり、それは」
沈黙の中、悪魔のひとりが震える声で尋ねた。
リリエルは、蒼碧の瞳の幼子をちらりと見やると、再び微笑んだ。
「お前たちは、彼に仕えろ。」
その瞬間、悪魔たちは完全に沈黙した。
魔王の命令が下った。
それは、この城の、そして奈落の森の運命を変える宣告だった。