9. 補足: 原子が見つかる前の話
最後に、原子が見つかる前に完成されていた熱力学についてお話しします。
(1) エントロピー
19世紀の物理学者、クラウジウスによって以下の原理が示されました。
『熱は高温から低温に移動して、その逆はない』
そしてエントロピーを以下のように定義しました。
ΔS≧ΔQ/T (1)
です。Sはエントロピーで、ΔSはエントロピーの変化、ΔSは変化に伴い移動する熱です。エネルギー変化ΔEと圧力による仕事PΔVと以下の関係があります。
ΔQ=ΔE+PΔV (2)
です。つまり、ある系に熱を加えるか引き出すかすると、その系のエネルギーはΔEだけ変化します。その系にかかる圧力Pに抗って体積が増えると、エネルギーPΔVだけを受けとります。PΔVについて簡単に説明します。力学では、質点に力Fが働いて距離Δx移動すると質点にエネルギーFΔxが与えられます。Pは面積あたりの力、圧力です。面積Sが圧力に抗う力はP・Sです。面がΔxだけ移動すると、エネルギーはP・S・Δxだけ増えます。S・Δxは体積増加分ΔVなので、PΔVだけエネルギーが増えます。
孤立系には熱の出入りがないので、
ΔS≧0 (3)
です。前と同様に、孤立系を二つの系1、2に分けます。すると、
ΔS=ΔS1+ΔS2≧0 (4)
です。1と2を合わせた系は孤立系なので、系1に与えられた熱ΔQは、系2が失った熱に等しいです。よって、以下が得られます。
ΔS1= ΔQ/T1 (5)
ΔS2=-ΔQ/T2 (6)
ΔS=(1/T1-1/T2)・ΔQ≧0 (7)
T1>T2なら、(1/T1-1/T2)<0で、ΔQ<0となります。つまり、温度の高い系から低い系に熱は移動します。T1<T2なら、(1/T1-1/T2)>0で、ΔQ>0となります。やはり、温度の高い系から低い系に熱は移動します。エントロピーの変化は、クラウジウスの原理に従って、必ず増加します。T1=T2で、ΔS=0となり、熱平衡となります。
この議論は、4. 二つの系のエントロピーの式(5)(6)と同じです(4. 二つの系のエントロピーでは体積変化を考えていませんが、本質的に同じことを言っています)。熱の移動を温度で割ったエントロピーと、エネルギーを原子に分ける場合の数の対数で定義したエントロピーは同じものになります。
*クラウジウスと同時期にトムソン(のちのケルビン卿)も、同じエントロピーを定義しました。トムソンの原理は以下です。
『一つの熱源から熱を受け取り,そのすべてを仕事に変換することは不可能である』
一見すると、クラウジウスの原理とことなって見えますが、同じ結論を得ます。
(2) 熱力学の第一、第二法則
さて、クラウジウスの原理の「後」に、熱はエネルギーであることが、ジュールの実験によって示されました。ちなみに、古代ギリシアでは、熱は熱素という元素が担っていると考えられていたことを考えると、熱力学の歩みに長い歴史を感じます。
熱も含めてエネルギーは保存します。熱力学では、これを熱力学第一法則と呼びます。また、クラウジウスの原理によると、エネルギーは保存するだけでなく、移動する方向があることが分かりました。定式化すると、エントロピーは必ず増大する方向に変化して、最大で熱平衡となります。これを熱力学第二法則といいます。
この法則は、第二種永久機関がありえないことを示します。第二種永久機関とは、例えば、以下のようなものです。海の水は、太陽の光で暖かくなります。つまり、海の水にはエネルギーがあります。海は広いので、無尽蔵にエネルギーがありそうです。そこで、海の水からエネルギーをもらって、船の半永久的(海水のエネルギーがすっからかんにならないかぎり)な動力にできないか、ということになります。しかし、熱力学第二法則によると、船の温度が海水より高いと熱エネルギーはもらえません。なので、第二種永久機関はありません。
*第一種永久機関は、エネルギーが減らずにいくらでも使い続けることを期待した機関で、これは、熱力学第一法則のエネルギー保存則から否定されます。
(3) カルノーサイクル
クラウジウス以前に、カルノーという人が考えた熱機関です。蒸気機関に与えるエネルギーQinのうち、どのくらいの割合が出力エネルギーWとして取り出せるかを考えました。
カルノーサイクルは、1. 等温膨張、2. 断熱膨張、3. 等温圧縮、4. 断熱圧縮の4つの過程でもとに戻るサイクルです。
1. 等温膨張
高温な物質と接触して、蒸気が膨張します。膨張するので蒸気の温度は下がる方向ですが、高温の物質から熱ΔQinが補充されて温度が保たれます。
2. 4. 断熱圧縮、膨張
断熱されているので、エネルギー変化はありません。
3. 等温圧縮
低温の物質と接触して、蒸気が圧縮されます。圧縮なので温度は上がる方向ですが、低温の物質に熱ΔQoutが排出されて温度が保たれます。
蒸気機関の動力をΔWとすると、以下が成り立ちます。
ΔQin=ΔQout+ΔW (8)
熱効率ηは、以下です。
η=ΔW/ΔQin
=(ΔQin-ΔQout)/ΔQin
=1-ΔQout/ΔQin (9)
断熱過程では、熱の出入りはないので、式(1)より、エントロピーは変化しません。等温過程では熱の出入りがあるので、エントロピーは変化します。1サイクルでのエントロピー変化ΔSは、以下となります。
ΔS=ΔQin/T1-ΔQout/T2 (10)
ここで、T1は高温の、T2は低温の物質の温度です。カルノーサイクルが熱平衡を保ったまま運行されたとすると、ΔS=0なので、以下となります。
ΔQin/T1=ΔQout/T2 (11)
ΔQout/ΔQin=T2/T1 (12)
となります。従って、熱効率ηは、式(9)より以下のように熱源の温度だけで決まります。
η=1-T2/T1 (13)
つまり、熱の理想的な効率は、蒸気の種類や運行法ではなく、サイクルの二つの温度で決まります。
通常の教科書では、これを理想気体の状態方程式から導きます。カルノーもそうしました。しかし、エントロピー増大則、つまり熱力学第二法則を知っている私たちは、気体か何かどころか液体や固体を想定せずに、式(13)を導くことができました。
(4) 熱力学の「歴史」
このシリーズの最後に、主なトピックの発見順番を振り返ります。
最初に検討されたのは、カルノーサイクルです。カルノーは、まだ熱とエネルギーが等価であることが知られる前に、検討されました。当初のカルノーの望みは熱力学の構築ではなく、蒸気機関の効率の限界でした。カルノーサイクルは、全ての過程が熱平衡下で行われるという必要がありました。熱平衡になるためには時間がかかります。1サイクルに何時間もかかったら、いくら効率が良くても遅すぎます。カルノーの成果は当時は注目されませんでした。彼の熱機関は現実的でありませんでした。
カルノーの熱に対する洞察は鋭いものがありました。蒸気機関を膨張させると温度が下がります。しかし、高温の熱源に接触させるとき、熱源から蒸気機関に熱が移動して温度が保たれる、すなわち、等温過程ができることに気づきました。さらに低温の熱源を用意すると、高温の熱源から低温の熱源に熱が移動することで動力を得られると考えましたが、低温の熱源に奪われる熱があるので、完全には熱を動力にできないことに気づきました。カルノーは、この時点で、熱がエネルギーか熱素かを決めかねながら、以上を証明しました(うすうすとは熱とエネルギーの等価を感じていたかもしれません)。カルノーの考え方は、クラウジウス、トムソン、ジュールに影響を与えました。カルノーサイクルは、のちの彼らの理論を使うと当たり前です。しかし歴史的にはカルノーサイクルが、のちの彼らの熱力学の構築に大きな影響を与えたのです。
カルノーは、熱力学第二法則を理論化しませんでしたが、クラウジウスに先んじて熱は高温から低温に流れることを主張していました。また、トムソンに先んじて、高温から低温に流れる全ての熱を動力にはできず、式(13)で制限されることを示しました。クラウジウスやトムソンが、カルノーサイクルから、エントロピーの着想を得たのです。私がこの稿を補足追加したのはカルノーを尊敬しているからです。
そして、クラウジウスやトムソンが、熱の移動の原理を考えました。彼らもまた、熱とエネルギーの等価はまだ不明なまま。この話の冒頭の『』の原理です。クラウジウスやトムソンは、エントロピー増大則を提唱して、式(13)のカルノーサイクルの効率が、蒸気機関に限らず一般に成り立つことを示しました。そして、熱力学の理論的な土台をつくりました。
その後、ジュールにより熱とエネルギーの等価が示されたことで、熱とより多くの物理量の間の関係が明らかになりました。つまり、古典力学や電磁気学など物理現象のエネルギーの仕組みのわかっている学問は、熱力学の対象になりました。さらに、熱力学は統計力学を生み出し、更に、量子力学までも生まれました。
ギブスやヘルムホルツは、自由エネルギーという考え方に拡張して、熱力学の変数を変換する手法(エネルギーを温度に、体積を圧力に、など)を確立して、応用範囲を広げました。今や、生命現象までもが、熱力学と化学の対象です。
このシリーズの最初に紹介したボルツマンは、熱力学の完成後に、原子レベルで、熱力学を解く方法、統計力学を構築しました。
私の熱力学のシリーズは、ボルツマンによるエントロピーの定義から始まり、最後に、カルノーサイクルに終わるという、歴史的に逆の順番をとりました。最初に種明かしをした方がわかりやすいときがあるからです。エントロピー増大の法則、つまり熱力学第二法則を理解してしまえば、第一法則と合わせて、あとは応用問題になり、手っ取り早いのです。カルノーサイクルでさえも応用問題になります。
しかし、歴史的にはカルノーの洞察が先にあり、これをもとにクラウジウスとトムソンが熱力学第二法則を定式化しました。ジュールが熱とエネルギーの等価を示して、熱力学が他の物理学と親和しました。カルノー、クラウジウス、トムソンが熱とエネルギーの等価が自明でないままに、エントロピー増大則を着想したので、なおさら、歴史的順番では分かりにくいかもしれません。熱力学の教科書を読むときに何を前提として、何を結果とみなして書かれているかを見失うとわからなくなりやすいように思います。
とはいえ、カルノーサイクルから始める通常の熱力学の習得の仕方は重要です。先人が何に迷い、どのように解決してみせたかを知るのは、壮大な追体験で楽しいのです。
以上で、全10回の熱力学のシリーズを終了します。ありがとうございました。
かえって、まどろっこしい思いをさせたかもしれません。ご容赦ください。