短編 キッチン
一人暮らしは気が楽だ。周囲が口を揃えて言うので試しにと借りてみたが、非常に疲れる。洗い物や洗濯はもちろん、布団を敷くのだって自分でやらなければならない。母が料理を作って起こしてくれたのが懐かしい。しかし、いずれは独り立ちしなくてはならない。そのための練習なのだと自分に言い聞かせる。
ベッドから飛び起き、その勢いのままに着替える。もう一度ベッドに戻りたい誘惑を振り払い、洗面台で顔を洗う。ふと、首筋に棘が刺さっているような痛みを感じたが、きっと寝違えたのだろう。さっとタオルで顔を拭うとキッチンへと向かう。
普段使っていない料理本の中から朝食メニューの詰まった一冊を取り出す。冷蔵庫の中に卵があったことを思い出しながら、ページをめくる。簡単……フレンチトースト。作り方は至ってシンプルで、確かに5分もあれば出来そうだ。計量カップとボウル、皿を用意しつつフライパンを置いた。
BGMが欲しくなったのでテレビの電源を入れた。朝のニュース番組もそろそろ終わるのか、芸能ニュースのコメントを若手芸人に求めているようだ。いつも見ているので、この後は今日の占いが来るはずだ。
冷蔵庫から牛乳とバター、卵を取り出して手早く調理する。フライパンを熱しながら溶いた卵液へと食パンを浸す。占いが始まったので、もう20分ぐらいで家を出ないとバスに乗り遅れてしまう。
もう反面を卵液に浸しながらテレビを眺めていると、開き方の甘かったページが前へと戻ろうとしたのだろう、パタンといい音を立てて閉じてしまった。
「12位は乙女座のアナタ。今日はいろいろな不運に見舞われそう、お気の毒です。ラッキーカラーは黄色ですがうなじに注意!」 秒数をフルに使い切ったキャスターは、画面を衝撃的な事故現場へと切り替えた。
フレンチトーストは焼くまで黄色だとして、こんがり焼いたら何色なのだろう。そして何秒くらい焼けばいいのかを全然把握していなかった。
「んーと、ん?」
本が開かない。つるつると滑ってしまって一向に開かない。接着剤でくっつけられたかのように、1ページも開けなくなっている。まじまじと自分の人差し指と親指を観察するも、しっかり指紋が浮き出ている。なにより、母のように指ペロするような歳でもない。
「んー???」
フライパンの中身を慌ててひっくり返す。残念ながらラッキーカラーは通り過ぎていた。
友人と通い始めた英会話教室にはなんとか間に合ったが、朝の不思議な一件はなんだったのだろうか。確かに久しぶりに料理本を開いてみたが、焼き始めるまでは全然ページをめくることが出来た。何故なのかと悩みつつも、友人の隣へと腰を下ろす。
講義が始まり、いつもの先生が英語で元気に挨拶をしている。生徒側もそれぞれ英語で返すのがルールだった。やや怪しい口調で返すと、真横の友人がくすりと笑う。そんなに日本語っぽい英語ではないと思うのだが、そう聞こえたのなら仕方ない。
テキストを前回分の続きから読み、簡単な英文を日本語訳してみましょうという課題を出された。読むのは何となく出来るが、書けと言われたり読み上げろというのはまだまだ苦手だ。挙手制ではなく指名制での回答なので、当てられない事を祈りつつ出来るだけ体を小さくする。
今日の講義の大半は有名な童話の日本語訳のみだった。恐らく次回は逆のパターン、感想を英語で書いてみましょうと来るのだろう。文法もなにもあったもんじゃないこの学力では例の高笑いをされてしまうに違いない。
友人が参考書をもう一冊買いたいというので、近くの本屋を訪れることにした。夏の陽射しはこれからも強くなるようで、7月にしてこの蒸し暑さは。自分史上過去最高の不快指数だった。早くクーラーの効いた建物内に逃げ込みたい。
本専用の冷蔵庫と呼びたいぐらい空調の効いた本屋は、まさに天国だった。友人と参考書コーナーへと赴き、特に興味のないドイツ語の本をぺらりと捲ろうとした。しかし、めくれない。何度やってもめくれない。友人に見せてみると、何の抵抗も感じること無くスッと開いている。一度気合いを入れ直し、友人から本を受け取る。また、めくれない。巧くページをめくることが出来ないのだ。
不思議な現象を目の当たりにしつつも、友人は自分の分だけさっと会計し店の外へと出ようとしていた。悪戦苦闘していて気が付かなかったのは悪いが、一声かけてもバチは当たらないんじゃないか。急いで本棚へと本を戻した。
暑い。しかし帰りのバスまで時間がある。住宅街を通るこのルートは駅へと向かう本数が多く、駅から下る本数が少ない。少なくとも夕方を過ぎるまでは変わることがない。暑すぎるので、軽く涼みながら待たないかと提案する。友人もそれには賛成のようであった。
喫茶店のメニューが開けない。置いてある雑誌もだった。インテリアの一部となっている昔の電話帳すらも開くことが出来なかった。もしかしたら、一生本を読めないのかも知れない。
奇行を繰り返す私を大笑いしながら見ている友人。私は諦めてメロンソーダをすすることにした。
帰りのバスの運賃を支払う時だった。交通系ICカードの残高が足りず、ペラペラとお札をめくりながら千円札を取り出し、挿入口へと吸い込ませる。無事に支払いが完了し、バスを降りた。指紋が無くなっている訳でもなく、油分が足りない訳でもなさそうだ。そのまま自宅へと戻り、汗を軽く流した。
その後も料理本やら図鑑やら、あらゆる本と格闘した。しかし、全敗だった。ネットで検索をしても「加齢」「洗剤を変える」など参考にならない情報しか出てこない。気がつくと夕暮れになっていたが、まだ胃の中でフレンチトーストとメロンソーダが笑っているようで、食べる気にならない。ベッドへと埋もれ込み、意識をカットした。
翌朝。やはり料理本はめくれない。恐らくその他の本もだろう。テレビを点け、今日の占いを聞く。目玉焼きとトーストを咀嚼しながら眺めていると、今日も運勢はワーストのようだ。
「12位は乙女座のアナタ。今日もいろいろな不運に見舞われそう、お気の毒です。ラッキーカラーは黒ですがかかとに注意!」
黒、髪も最近は染めてないし黒いよな。ラッキーかどうかは過ごしてみれば分かるだろう。はぁ。
家を出る。気分が重いと足も重たく感じてしまう。
7月:文月・キッチン・項 を使った短編。うなじって平仮名の方が読みやすい。小説のページがなかなか捲れない時に思いついたので、イライラ感と焦りが伝われば。