エロスの持つ芸術性とはなにか~遠くの打ち上げ花火に寄せて考察する~
初エッセイです。よろしくおねがいしますm(_ _)m
エロスは芸術となりうるか?
この問いには肯定派もいれば否定派もいるだろう。
私は肯定派である。
しかし、なぜ?と問われると明確な答えが出せなかった。
一体、なぜ。
絵画や彫刻、あるいは詩や文章に表されるエロスは芸術として受け入れられやすく、その一方で、写真や動画といったものが卑猥・低俗であると受け止められやすいのか。
例えばN○Kの某美術番組では、ヌード絵画を澄ました声で「官能のゆらめきが……」などと高尚に紹介する。
しかし、N○Kにヌード写真や動画を高尚に紹介する番組は(私の知る限りでは)ない。
この違いは、何なのだろう。
人は(私は)、エロスの中のどの側面を芸術として崇めているのだろうか。
考えているうち、それは『闇』であり『揺らぎ』ではないかと思うようになった。
ティツィアーノ画『ウルビーノのビーナス』の蠱惑的な肢体と輝く肌の背後に描かれているように感じる、見えない『闇』
その闇は静寂ではなく、何かが存在し蠢く闇である。
ベルニーニの彫刻『聖テレサ(テレジア)の法悦』に表現された至高のアヘ顔(めちゃくちゃにエロいのに清らかなまでに無邪気である)が観客の心に呼び起こす『揺らぎ』
この揺らぎは心地良さではない。むしろ、不安に近い。
彼女の表情に囚われている者の足元に地面はないのである。
このままこの場に居れば、浮いていくのか沈んでいくのか……それもわからぬままにただ、留まり続けるしかない。
それが『揺らぎ』である。
『闇』『揺らぎ』……拙い説明ではあるが、少しは感覚的なところがお分かりいただけただろうか。
では、その正体とは。
それが少しだけ分かった、と思ったのが、先日打ち上げ花火を遠くから見た時のこと。
近づけば派手で華やかな打ち上げ花火も、手のひら半分ほどのサイズで展開されるに至っては「恐らくキレイなのだろう」と想像して楽しむしかない。
しかしそれでも、私はじゅうぶんに盛り上がり、飽くことなくその花火を見続けた。
なぜだろう。
その理由を考えれば、このようなことに思い当たった。
―――確かに観たかったのは花火の方であるが、より心惹かれているのは、その前後の『闇』、その間の『揺らぎ』ではないのか―――
花火が始まる前の『闇』にあるのは「光を見たい」と願う、人の欲である。
花火の開く間に感じる『揺らぎ』は
「花火の美しさに溺れてしまいたい」と願う、人の欲である。
終わった後の『闇』にあるのは「光をもっと見たい」と願う、人の欲である。
芸術的エロスの持つ『闇』『揺らぎ』といったもの。それも、同じではないだろうか。
つまり、エロスを芸術となす、その本質は『欲望』なのだ。
『欲望』というと古代より否定され忌み嫌われがちなものである。
だが心理学を少々かじったものなら誰でも知っているだろう。
人間性の本質は『欲望(欲求)』からできているのだ。
『欲望』とはそもそもが、生命の持つ力、その顕現なのである。
だからこそ、『欲望』は美しい。
人は、それに心惹かれざるを得ない。
しかし一方で、『欲望』の成就・充足は下らないものだ。
それは社会的にはしばしば人の和を乱し人を傷付ける行為であり(だからこそ否定されがちなのだろう)、芸術的には表現する価値のほとんどない予定調和なのである。
すなわち『欲望』が芸術的価値を持つのは、それが成就・充足されない間だけなのだ。
これをエロスに当てはめるなら、さらにわかりやすい。
絵画や彫刻、あるいは純文学に表現されるようなエロスを前にして、人は己の欲望を見る。
それは美しく、心惹かれると同時に不安をかき立てる。
目の前のものに、いかに囚われても、その欲望は成就されることも充足されることもない。
ただただ、極限にまでかき立てられながら叶うことのない欲望、欲求。
これが芸術として存在するエロスの正体であり、それを美として認められるか否か、が肯定派・否定派の別れ道だと思うのだが、どうだろうか。
だから軽エロは芸術なのです。
と主張したくて書きました(笑)
いかがでしたでしょうか。
ご意見・ご感想いただければ嬉しいです。
ちなみに思想的な師匠は『堕落論』坂口安吾先生です。といえば納得する方も多いのではないかと。