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水の鍵

タイトルイラスト:相内 充希さま

挿絵(By みてみん)


 地平の彼方まで続く砂漠に、黄昏時が訪れようとしている。灼熱の暑さの余韻が長く残っている大気に、ぼんやりと黄金色のヴェールがかかっていた。なだらかな砂丘の頂上に、力ない風が吹いてさらさらと砂が落ちていく。

 砂丘の谷間にひとり倒れ伏している男の指に、砂がかかった。

 まだ熱を持っている砂を節くれ立った指で掴んで、ゆっくりと身体を起こす。そして、手を地面についたまま男は自分の前にいるものをぐっと睨みつけた。



 そこにいたのは墨よりも真っ黒な、狼のような獣だった。艶のない毛並み、痩せた顎。男を捉えるその瞳が危険な本能の光を宿している。男の周りでは数匹の獣が、獲物に襲いかかる前のように体を低く沈めていた。

 まだ、自分と獣の間に距離はある。しかし、自分の前の獣を倒すのに弓矢では襲いかかってくる他の獣から身を守ることはできないだろう。走って斬り込めばどうにかなるだろうか。最近、嫌でも年齢の軋みを感じる自分の身体がこの飢えて残忍な獣の群れに敵うとは思えなかった。


 しかし、やるしかない。


 男は少し離れた所に投げ出されていた短刀へ手を伸ばして鞘を払う。鋭い切っ先に反応したのか、さらに獣が緊張した。感触を確かめるように固い木の柄を握る。



 男は叫んで砂を蹴った。

 走りだすと同時に顔を歪めながら、男は自分の正面にいた獣へ走り、その勢いと共に短刀を振り翳す。獣が飛び退いた。空に斬り下ろした短刀をもう一度振り上げようとしたところに、右から別の獣が襲いかかってきた。その獣へそのまま刃先を振り向ける。獣は高い掠れた声を上げた。


 また別の獣が来る。身体を捻ってそちらを向こうとした男の動きが、一瞬鈍った。その一瞬をついて獣が跳躍する。荒い息づかいと牙が間近に迫ってきたかと思うと、獣が男の短刀にがちりと音を立てて噛みついた。刀がすごい力で手からもぎ取られ、遠くに振り飛ばされる。

 それに気を取られていた男がはっとして振り向いた時、後ろから飛びかかってくる獣から逃げるには遅すぎた。





 何かが風を切る。

 今まさに、男へ牙を剥かんとしていた獣の体が砂に転がる。その背中には朱色の矢が突き刺さっていた。男が驚く間もなく、続けざまに獣に向かって矢が飛ぶ。鮮やかなほど正確に獣を射ぬいていく矢の早さに、男はほとんど棒立ちのまま動けなかった。



 飛んでくる矢が止んでから、ようやく男は砂丘の頂を仰いだ。黄金色から薄い桃色へと変わってきた夕暮れの光が、砂丘に立っているひとりの人間の姿を淡く照らしていた。

 大人の背丈ではない。すらりと伸びて褐色に日焼けした手足にも華奢さを感じた。

 構えていた半弓を下ろした少女が目を細めて谷を見下ろす。男と目が合うと、少し生意気そうな笑みを浮かべた。砂丘を滑り降りるようにして男の方へ走ってくる。

「大丈夫?」

「あ、ああ…」

 つかえながらも男は声を出す。

「嘘。さっきみたいに無理して走ったりするのやめた方がいいよ」

 少女は表情を変えずにずばりと指摘した。遠くからでも動きがぎこちないのは分かったのだろう。左足に重心をかけた時感じた鈍い痛みがまだ尾を引いていた。男は大きく息をつく。張り詰めていた気持ちが緩むとその場にへたり込みそうになった。

「…その通りだな。もっとも、さっきは余裕が無かったから無理にでも動くしかなかった。…助かった、礼を言う」

 黙ってまたにやりと笑った少女は、近くで見るとアーモンド型のくっきりとした目をしていた。くしゃくしゃと縮れた、短い黒髪を掻き上げる。

「《虚ろの者》に立ち向かおうとするのもやめた方がいいよ」

「《虚ろの者》?今のあれが」

「…おじさん、この辺あまり通ったことないの」

「まあ、そうだな。話に聞いたことはあったが、そうか…」

「なんか期待が外れたみたいな言い方だね」

「そんなことはない」

 男は離れた所に落ちていた短刀を拾い上げる。刃先から砂の粒が落ちた。

「だけど、噂というものには尾ひれがつくからな。確かにこいつらは厄介だったが、噂ではもっとこう、まるで未知の化け物のような言われようだったな。それに、矢や刀を受けても簡単に死なないものだとも聞いていた」

「ふうん…」

 でも、と少女は言った。

「どう言われているかは知らないけど、普通の生き物じゃないっていうのは本当だよ」

 少女は動かなくなった獣の一頭を弓で指し示す。

 しかし、しばらくじっと見ていても何の変化も無い。怪訝に思った男が口を開こうとしたその時、なんとなくおかしなことに気がついた。



 始めはとても微妙な変化だった。自分の目が霞んでいるような気がした男は、二、三度瞬きして目を擦った。しかし、異変は次第にはっきりと起こっていた。

 黒々とした体の輪郭がぼやけてきている。毛並みの様子も、狼のような体つきもぼやけて、一個の黒い塊のように見えてきた。そして、ぶわりと塊が大きく広がったかと思うと、跡形もなく一瞬のうちに霧散した。それと同時に他の獣の体も、音もなく一斉に霧散した。

 男はしばらく声も出せず、まるで初めから何もいなかったかのような地面を見つめていた。今起きたことを何と表現していいのか分からなかった。


 少女は周りを見渡して、地面に落ちていた革の袋を取り上げる。さっき男が短刀で斬りかかっていった時に、男の正面にいた獣が消えた場所だった。

「《虚ろの者》は数体の群れで行動する。で、一度標的を決めたらたとえ仲間が殺されてもその標的を狙い続ける。だから厄介なんだよ」

 男は革の袋を受け取って中身を確かめる。中の物が無事だと分かると安心したようだった。

「荷物ぐらい持って行かせればいいのに」

「食糧ならまだ諦めもついたさ。けど、これはどうしても持って行かれたくなかったんだよ」

「価値のあるもの?」

「少なくとも、俺にとってはな」

 風が吹く。

 もう日は暮れていた。





 足を庇ってぎこちない歩きしか出来なかったので、そう遠くない所に自分が乗ってきた馬を見つけた時には、男はほっとした。少女の馬もそこにいた。たまたま通りかかった所に、どう見ても野生のものではない馬がいるのを見て、もしかしたらと思ったのだと少女は言った。

 少女の案内に従って馬を少し進めると、住居の跡地のようなものがあった。すでに家は無く、立ち枯れた木や崩れかかった土壁だけがある。その様子で、ここから人が去っていったのがもうずっと昔のことだということが分かった。とにかく、何も無い場所で野宿をするのよりはましだろう。


 火を起こして、丸くて平たいパンや胡椒をきかせた干し肉、干し葡萄など、お互いに持っている食糧を分け合って食べた。好奇心からか、ファルと名乗った少女は男に色んなことを聞きたがった。

「おじさんってこの辺の人じゃないんでしょ、どこから来たの?」

「俺はサグイ。ここからずっと東の町から来た。葡萄の栽培が盛んな町でな、小さい町だがのんびりした所だよ。《虚ろの者》についても、遠くから旅をしてきた者から話を聞くぐらいだった」

「なんでこんな危険な場所を旅してるの?」

「むしろそれはこっちが聞きたいことだよ」

「うーん」ファルは唸った。「私の場合は色々だよ。遺跡を調査してくれとかどうしても早く別の町に手紙を届ける必要があるとか、そういうことを頼まれて砂漠を行き来する事が多いな」

 この少女が一人で砂漠を旅しているのか、とサグイは眉をひそめる。

「《虚ろの者》に襲われたりしないのか?」

「私こう見えて運が強いんだよ」

 サグイは呆れたような顔をする。が、ふと考えこむような様子を見せると言った。

「実は、俺が旅をしているのは、ここから西のノルーガという町が《虚ろの者》に襲われて廃れたという話を聞いたからだ。…知っているか?」

「…ノルーガへ行くの?」

「やはり、もう町は無いんだな」

 少し躊躇った後、ファルは頷く。

「《虚ろの者》はオアシスを狙って町を襲うことがあるの。そうやって無くなった町が、この辺りにはたくさんある。…だから、今ノルーガに行くのは止めた方がいいよ。まだ《虚ろの者》がいるはず」

 サグイはそれほど驚きも落胆もしなかった。おもむろに革の袋から木の小箱を取り出すと、ファルに差し出した。

「俺がさっき、守りたいと言ったものはこれだ」

 サグイはファルに箱を開けてみろと促す。ファルが小箱の掛け金を外して蓋を開けると、小さな蒼いガラス玉を連ねた首飾りが布に包まれて入っていた。そっと手に乗せたり、炎の光に翳してみたりしながら、ファルはそれを眺めて呟く。

「…きれい」

「その首飾りの真ん中に透明なガラス玉があるだろう」

 これ?とファルはガラス玉のひとつをつまむ。それだけが硬貨大ぐらいの大きさだ。その中は空洞になっているんだ、と教えてからサグイは、意味ありげな笑みを見せた。

「そのガラス玉の中に、水が入っているように見えるか?」

 ファルは思わず「へ?」と頓狂な声を上げていた。変なこと聞くなあと思いながらガラス玉を覗き込んでみる。しかし、中には何も入っていないようにしか見えない。

「…分からない。水なんか無いように見えるけど」

「そうか。俺にも水なんか入っていないように見える」

 いよいよ困惑したファルの心を読み取ったように、サグイは微笑んだ。

「でも、その中には水が入っているらしいんだ。限られた人だけにそれが見えるらしい。これはな、」





 《水の鍵》っていうんだ、とサグイは言った。



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