世界から消えてしまった魔女へ
タイトルイラスト:相内 充希さま
小さな白い花が咲き乱れている野原に、母が一人立っている。
涼やかな風が野原を軽やかに駆け抜けていく。
遅れて、母の全身を覆う黒のローブがふんわりと膨らみ、すぼむ。
腰まである黒髪、すらりとした体躯ながらもまろやかな腰の曲線、うつむきがちな横顔でも十二分に伝わる容貌の美しさ――。
そう、私の母は美しい人だった。
私は母以上に美しい人を未だに知らない。
喜びに頬が熱を持ち始め、だがそれよりも先に喉の奥が熱くなる。
なぜなら、私は母に会いたかったのだ。
母に会いたいと、それ一つをずっと願ってきたのだ。
「母さんっ……!」
駆けだそうとした足は、もつれて一歩も進まない。
焦る私とは対照的に、母は音のない笑みを浮かべている。エメラルドグリーンの瞳は正確に私の深淵に触れてくる。そう、母の前では私は何一つ隠し立てできなくなるのだ。そのことを突如思い出す。この狂おしいほどの渇望も、動揺も……何もかもきっと母には見抜かれていることだろう。
なのに母はその華奢な背をためらいなく私に向けた。
母の黒髪が大きな円弧を描いて空に舞う。
その完璧な軌跡に、悲しみにとらわれかけていた私の心は一瞬、宙に浮いた。
――気づけば、母の姿は消えていた。
誇らしげに咲く野の花と、満たされることのなかった渇望だけを残して、母はまたしても私の前から消えてしまった。
ああ――母に会いたい。
あなたに会いたい。
この世界から消えてしまったあなたに――。
*
「あなたって……誰のこと?」
声に導かれ瞳をゆっくりと開ける。
「おじさん、旅の人?」
首をかしげ、ほんの少し唇をひらいたままで、少女というにはまだ幼い君があどけない瞳を私に向けている。
どうやら私はこの教会にたどり着くや眠ってしまっていたらしい。
君という存在をあますところなく眺め、心が張り詰めると同時に緩んだ。
やはりというべきか、君はそういう矛盾をかるがると超過できる唯一無二の幼子だった。
ステンドグラスから差し込む光が君の横顔を彩っている。
カラフルな色彩の中に柔らかな褐色を混ぜた夕暮れ時特有の色が、君に与えられている環境を説明するかのように、君を煌々と照らしている。こけた頬の窪み、汚れた肌、荒れた唇、櫛の通っていない痛んだ髪……。
周囲に無尽蔵に舞う埃が、光を受けてきらきらと輝いている。
「おじさん、泣いてたの?」
この年頃にしては骨ばった手で、君が私の頬につたう涙をぬぐった。
君のエメラルドグリーンの瞳が心配そうに私を見つめている。
――心が、震える。
「ね。どうして泣いてたの?」
「夢を見たんだ。母の夢を」
母を失ってから――十六歳の誕生日を迎えたあの日から二十年近くがたってしまった。
「母って、ママのことよね」
あたし、ママがいないからよく分からないけど。そう前置きをしながら君が舌足らずな声でつづけた。
「ママって世界で一番素敵な人のことなんでしょ? 夢で見て泣いちゃうなんて、おじさんのママはよっぽど素敵なママだったのね」
「そうだよ。とても素敵な人だった」
「おじさんのママはもういないの?」
「そう、だね」
あれほど素晴らしい人だったのに――母は死んでしまった。
しかし母がいなくなってもこの世界は規則正しく動いている。そのことがひどく悔しい。太陽は昇れば沈むし、月は膨らめば欠ける。晴れが続けば雨が降るし、花は咲けば散る。時は止まることなく流れ――母がこの世にいた証は年を追うごとに消えていく。
ただ、私の中では時は止まっていた。
母を乞う気持ちは色あせることはなく、母を求めてさまよう日々は今日までつづいている。
「美しく、気高く、聡明な人だったんだ」
「へええ」
「彼女こそ叡智の冠をいただくにふさわしい至上の魔女だったんだ」
「ええっ。あなたのママは魔女だったの?」
君は驚き、それから照れくさそうに、おずおずと言った。
「だったら……あたしも素敵な人になれるかな?」
あたし、忌み子なの。
そう言った刹那、君の目線がやや下がった。
「あたし、魔女の血が流れているんだって。それでここに捨てられてたの」
「そう……だったんだね」
「でもね! あたし、明日になったらここを出ていくの。こんなあたしのことを引き取ってくれるっていう優しいおばさんがいるのよ。あたし、本当の娘のようにいい子になるって決めてるんだ」
無邪気に両手をあげてみせる君に、私ができることは何もない。
「あれ? おじさん、また泣いてるのね」
生前の母から、私は様々なことを教わった。
フォークの使い方にボール遊びの仕方、文字の読み方に書き方。学問全般。家事全般。
それに呪文の詠唱、精霊や妖魔の召喚――魔術全般。
愛と憎悪。
痛みと絶望。
美しさは枷としかならないこと。
人は業によって紡がれる運命の輪の中で生きているということ。
「泣かないで、おじさん。おじさんが泣くとあたしも悲しくなっちゃう」
私と共に涙を流してくれた人は――母と、そして君だけだ。
◇◇◇
私の――俺の十六歳の誕生日は絶望から始まった。
階下から異様な気配がして、目が覚めた。
もう一度目をつむれば我が家の異変がつぶさに『視え』た。
屋外には王家直轄の騎士の証である薔薇の紋章――その薔薇を刻んだ銀の鎧をまとう騎士が多数集結し、我が家をぐるりと取り囲んでいた。かたや屋内、階下にも数人の騎士が『視え』た。リビングは無法地帯のごとく荒らされていた。
だがそこにいるべき存在は『視え』なかった。
「母さんっ!」
瞬間移動をしてしまえば早いものを、パニックになりかけている時ほど生身の体が心のままに動いてしまうのは、当時の私――俺の癖だった。
階段を急いで駆け下りると、玄関の手前、屈強な騎士達の足元に影のように黒い存在があり、それは黒のローブを羽織った母だった。
たかが騎士の足元に、高名な魔女である母が膝を屈していたのである。
「母さんっ?!」
俺の叫びに、母が頭を持ち上げかけた。
だが次の瞬間――剣を収めた鞘が母の細い首に無慈悲に押し当てられた。
反動で母の頭がより一層下がった。
気高く、賢く、顎を少し上げてみせるのが癖だった母――その母の美しい顔が床に乱暴に押しつけられた瞬間、俺の胸中で怒りが爆発的に膨れ上がった。
「お前たち、母さんに何をしているんだ! 離せっ!」
だが騎士は鞘をどかそうとはしなかった。剣技に通じている人間ならではの隙のなさは、ただの人間相手であれば臆して何もできない類のものだ。
だが俺は違った。母ほどではないが仕込まれた魔術の数は並の人間のものではなかったからだ。それゆえ、唇を動かすことなく、口の中で秘密裏に呪文を詠唱し始めた。
――その時。
「オスカーだな」
大柄な騎士の背後から、藍色のローブを着た初老の男が音もなく現れた。
「フランチェスカの息子、オスカー。私は王宮付きの魔術師、カイエルだ」
カイエル――その名を知らない魔術師はもぐりだ。カイエルは国内一の腕の立つ術者として国内にその名を知らしめていた。確かに母は名の知れた魔女だったが、カイエルはそれ以上の実力者であった。
「王家の名の下に魔術を使うことを禁ずる」
命じ慣れた人間しか持ちえない重々しい声、風格、術を使っているわけでもないのにひたひたと伝わってくる魔術師としての才覚、圧倒的存在感――。
母が捕らえられた理由が瞬時に察せられた。
この男と闘って勝てる見込みは――俺にも皆無だ。
術を使われたわけでもないのに体が硬直する。
ぐっと息をのみ、唇を結ぶ。
だが、すぐに。
「そんなことは知るかっ! 母さんを離せ……!」
血の昇った頭で食ってかかっていた。
「お前の母は罪を犯した」
「そんなこと信じられるわけがないだろう! 母さんはこの国のために誠心誠意仕えてきた! それはずっとそばにいた俺が一番よく知っているっ……!」
母はいわゆる良い魔女だった。
「確かに。黒烏の魔女・フランチェスカ。この女は我が国のために多大な貢献をしてきた」
「だったら……!」
「だが王家の人間に傷を負わせた者は死刑と定められている」
「そんなはずはないっ!」
「いいや。姫がこの森に住む術者に傷をつけられたとおっしゃっているのだ。そしてこの女もそれを認めている」
「なんだって……?」
「刑罰の重さは黒烏の魔女とて変えられはしない」
ひたとカイエルの重たげな双眸に見つめられた。
「逆らえば死よりも重い罪を与えられるであろう。子供も例外ではない」
言葉の意味を咀嚼した瞬間、喉がひゅっと鳴った。
この男を前にして最後まで抵抗できる術者は世界に何人もいないだろう。高度な術者ほどよりエグい懲罰が可能なことは、ある程度の術者であれば誰もが知っている。
「連れてゆけ」
カイエルの命に従い、騎士が母を無理やり立たせた。よろめきながらも立ち上がった母は、呪文をとなえることができないよう猿ぐつわをされていた。両手も背後で縛り上げられ、空中に指で魔法陣を描くこともできなくなっていた。目も――あれほど美しいエメラルドグリーンの瞳も布に覆われてしまっていた。
だが去り際、母は小さな笑みを浮かべていた。
心配しなくてもいいの――そう言う母の声が聴こえたような気がした。
以前から決めていたことがあった。
十六歳の誕生日、目が覚めたら一番に母に伝えよう、そう思っていたことがあった。
今まで育ててくれてありがとう。
血のつながらない俺を育ててくれてありがとう。
あなたに慈しまれ、導かれ――そうして今の俺がいる。
あなたがいなければ、俺は俺になることはなかった。
誕生日の贈り物はいらない。
あなたがそばにいてくれさえすれば何もいらない。
ただ……もしもゆるしてもらえるのであれば、俺はあなたを抱きしめたい。
昔あなたにしてもらった抱擁とは別の意味であなたを抱きしめたい。




