【 ウルリカ ―孤独な雨音― / 2 】
右手を薙いだ瞬間、少女の右腕に雨が集まり徐々に形を成していく。
そのまま腕全体に何かを形成しながら少女はスノゥに向けて猛進。
叩きつけるように右腕を振り下ろすと、巨大で透き通った蛇のような物がスノゥに襲い掛かった。
――“鞭”だ。
横っ跳びで一撃を回避すると、空き地にあったコンテナがその一閃で両断されるのが見えた。加圧した水を噴出して切る、ウォーターカッターのようなモノかとスノゥは判断。人間とて、あんなもので斬られたらひとたまりもないだろう。
少女の手の動きに合わせ、水の鞭は一種の生き物のようにスノゥへと肉薄していく。微かな動作で大きく軌道を変えられるというのが鞭の強みだ。少女が軽く手首のスナップを利かせるだけで、その軌道は大きく動く。少女の小刻みな手癖、その瑣末な動きでさえ鞭全体がフィートバック。何処かの冒険家が窮地を脱する時や、拷問やらそういうプレイやらのお遊びのモノとは一線を画す――本格的な武器だ。
「――はッ!」
右手首を捻るように動かすと、鞭の軌道が低く修正されスノゥの足元を狙い始める。機動力を削ぐ戦法か、もしくは斬るだけでなく捕縛することも可能、なのかもしれない。意思を持つ生き物のような、しかし時に不規則に揺れる鞭の動きを、スノゥは経験と勘とを頼りに回避し続ける。そろそろ、抱えている買い物袋が本格的に邪魔だ。置かせてくれる暇は――、
「おとッ」
意識が反れた所為で不意を突かれ、スノゥは咄嗟に何もかもをかなぐり捨てて大きく飛び退く。水の鞭の一閃が紙袋に直撃し、中身も込みでバラバラになる。マリーに頼まれていた缶詰や調味料と、あと生理用品と、スノゥがこっそり集めてる食玩。諸々が砕け散り、あるいは引き裂かれ、汚れた水たまりの中へとダイブしていく。
あちゃー、と緊張感を欠如したスノゥのぼやき。
あとで怒られて、また買いに行かされるのはスノゥだ。
「何で、当たらない……ッ!」
苛立っているのか、焦っているのか、両方か。
少女の整った顔がみるみる青ざめていく。
水の鞭を一度手繰り寄せ、今度は空いている左手を伸ばして指先を開く。
雨粒を操る動き。
手持ち無沙汰になったスノゥは、しかし、おかげで目の前の戦闘に専念できるようになった――と思う。
少女の周囲の雨粒が再びゆっくりと集まり、今度は一回り小さな槍をいくつか形成していく。五、六、七、八本目で止まり、左手を薙いだ瞬間連続して飛び出す。大きさにして一メートル程度、威力は先ほどのものほど強力ではないらしく、回避した地面の抉れ方も小さい。
三本目を避けた瞬間、スノゥは姿勢を低く駈け出す。
真正面から襲い掛かる槍の軌道は、愚直なまでに真っ直ぐなものだった。
だから、スノゥがほんの少し身をよじったり、軽くサイドステップするだけで容易く避けられる。
六つ目、七つ目、残る八本目も直上に跳んで回避し、少女との彼我の距離を一気に上空から詰める。
顔面蒼白の少女が、そんなスノゥの挙動に――薄らと微笑を浮かべた。
「……ッ!」
鞭を形成していた右手が不意に持ち上がった瞬間、水の鞭が手の内で爆ぜ、同時に他と同じ水の槍に形を変える。彼女の切り札、とでも言うべきか。
青い矛先が、中空のスノゥへと向けられる。
逃げ場など無く、逃げる術などもなく。
弩砲のように撃ち出された青い槍を見、スノゥは――咄嗟に、右手を腰元の鞘へと伸ばし、逆手に柄を握る。
瞬間、青い槍は、スノゥを貫くよりも前に矛先から真っ二つに両断されていた。
「うぁ……ぁッ!?」
少女の前に着地したスノゥの右手には、全長およそ六十センチほどの剣が握られていた。
一見すると、おとぎ話の中で騎士が手にするような小ぶりのバゼラードなのだが、その刃は不自然に白く、そして、揺らめいている。
まるで、陽炎のように。
「……【焔雪 ―ホムラユキ― 】の、スノゥ。やっぱり、“異名”は、伊達じゃ……ない……」
「“異名”を知ってるのに、アタシを殺そうとしたの? ……【叢雨 ―ムラサメ― 】の魔女さん?」
「な……!? 何で、私の、“異名”を…………ひぅッ!?」
スノゥの白刃が少女の頭上を薙ぎ払う。
ギリギリのところで回避した少女だったが、その一撃で完全に腰が抜けかけたらしく、尻餅をついた拍子に、汚水の水たまりでゴシック衣装を台無しにしてしまう。
追撃は、なかった。
汚れるのも厭わず、少女は這いずるようにしてスノゥから距離を取ろうとする。ほとんど、逃げているようなものだったが、戦意はまだ微量ではあるが残っているらしく、怯えきった表情を浮かべてなお、スノゥへと視線を向けている。
足が震え、汚れたゴシックドレスやポーチやら、怯えきった双眸。
美しさなど欠片も存在しない、もはや敗者の格好。
実質、最初から勝敗は決まっているようなものだった。
何せ、スノゥはこの『灰の街』で名を知らぬ者はいない――現代における、最強の“魔女”なのだから。
「うッ、ひ、ッ……ぁあ、ああああああ!!」
悲鳴のような叫び声を張り上げ、少女は両手を構え水弾の一斉掃射をスノゥへと浴びせかける。
暴風雨のような横殴りの雨粒は、人体を滅茶苦茶にする程度の威力は有している。コンクリートだろうと何だろうと、何もかもを破壊し得る少女の――最後の手段。
普通の人間なら痛みを認識する前に蜂の巣になるその怒涛の猛威を、スノゥは気だるげに、睨める。
逆手に握っていたバゼラードをくるりと回し順手に持ち替える。
右手に烈火のイメージを浮かべ、そして魔力を込めながら、上段から一気に振り下ろす。
じゅっ、と小さな音がした後、少女の目の前で熱風が渦を巻き、嵐のような水弾は一瞬で全て霧散する。
「あ……ぁ……」
「……終わりだね」
攻守が完全に切り替わった瞬間。
バゼラードを握ったスノゥは、ゆっくりと踏み出す。
その一歩は、少女にとって死神が歩み寄る一歩と同等。
命が奪われると悟った人間の反応というものは、いかにも人間らしく、シンプルかつ、シンプルに。
ずる、ずる、とドレスの裾が地面を擦って生じる音。
スノゥが一歩踏めば、少女は震える足をがむしゃらに動かしてスノゥから逃れようとする。
感情の色の薄い瞳で、スノゥは少女を見下ろす。
絢爛豪華なドレスは、既に光が失せている。
壁際に背中が当たり、少女の逃げ場は完全に無くなる。
「…………だ、め、だっ……た…………やっぱり、私なんか、じゃ…………」
ふと、少女の身体の震えがゆっくりと収まっていくのを見て、スノゥは足を止める。
少女が、ゆっくりと顔を上げた。
白い頬は泥に汚れて、壊れて捨てられたゴシック人形のような歪な美しさが滲んでいる。
恐怖に蒼白く染まった唇が、スノゥへと言葉を紡ぎ出す。
「…………もう、いい……です…………殺して、ください」
「…………」
強い雨音の中で、はっきりと聞こえた少女の声。
少女は、泣いていた。
いや、正確に言えば、泣き続けていた。
スノゥと対峙したあの時から、今に至るまで、少女は泣きながらスノゥと戦っていた。
殺して、と懇願する少女。
その瞳は、最初から何もかもを諦めた色をしていた。
「もう……もう…………疲、れ……まし…………た………………」
少女の声は、やがて雨音の中へゆっくりと溶ける。
その瞳がゆっくりと力を失っていく。
ロングベストの内に隠れていた鞘にバゼラードを収め、スノゥは――。
進捗状況は良好。
前作と同じように、全力で楽しみながら書いてます。
それでもペースが遅いのはまぁ……性分故;
次回更新は9月30日。
気がつけば、あっという間に神無月。
では、待て次回。