【 アニュエス ―バイオレンス・ライトニング― / 3 】
重々しい雲の割にその脚は存外速く、気が付けば夜の帳の上から圧し掛かり灰の街を暗色に染め上げていた。
やがて、何処からか湿ったような匂いが漂い路地を歩くアニュエスの鼻をつついてくる。
「……雨、マジで降るな」
もはや語るべくもない空には目もくれず、明りのない細い路地を肩を怒らせ進んでいく。
楽な仕事、だからとて、簡単に報酬が手に入るからアニュエスも喜色満面というわけではないらしい。表情はピリピリと殺気を帯び、知り合いが彼女の姿を見つけて声を掛けかけようとしたが、思わず伸ばしかけた手を引っ込めてしまう。見るからに不機嫌な彼女にわざわざ絡む勇気の持ち主はこの辺にはいない。
不機嫌な原因は、今回の仕事の標的。
そのターゲットが単純に気に食わない。
アニュエスは“金持ち”という存在を物心ついたときから毛嫌いしていた。
「…………」
自分に無いものに焦がれるのは誰しも経験があると思う。
友人の持っている著名な本、玩具、恋人、その対象自体は何だっていい。とかく、その時々の自分が持ち得ていないものに対する憧れというものは良くも悪くも強く出てきてしまう。
単純な憧れであるならばまだマシだが、アニュエスの場合生い立ちや今の状況と重なって、それが反作用してしまっている。
金を持つ人間が、嫌い。
金を持つ人間が、その金でくだらないことをするのは、もっと嫌い。
「ルーニー通り……この辺か」
目的地の路地に辿り着き、アニュエスは雑な思考を一度止めて周囲を見回す。
街路灯がひとつ光るだけの、ほとんど夜の闇に支配された路地。
近隣住宅の窓から漏れる微かな明かりに照らされて、ろくに整備されていない道と、夜闇にぼうっと浮かび上がる飢えた人間の野蛮な瞳。免疫のない人間が歩いたならばショックで立ち竦んで、その間に強盗に遭うのが関の山だろう。アニュエスのように慣れている人間とて、油断すれば似たような目に遭うかもしれない。不覚を取るつもりはさらさら無いが。
二度、三度と見回したがそれらしい人の気はなかった。
もう少し歩く必要がありそうだと、コールタールのようなどろりとした闇の中を、アニュエスは北上してみる。目がゆっくりと夜に慣れ始めたころ、アニュエスの鼻先に冷たい粒が落ちる。舌打ちは、やがて降り出した雨の音に飲み込まれて消えた。
「ツイてねぇなー……」
無いよりかはマシとフードを被り、泥水が流れ出した道を遡るようにして歩く。緩い傾斜の道を登っていくと道が開けて円形の広場に出る。噴水は完全に機能を止め、壊れかけのオブジェは空から落ちてくる雨水を一身に受け止めている。広場だからか、路地に比べれば街灯が多い。軽食を扱ってると思しき店の前を過ぎ、アニュエスが角を曲がろうとした辺りで――微かな声が聞こえた。
「……あっちか?」
弱くはない雨音の中、アニュエスは確固たる足取りで道を進んでいく。角を何度か曲がった先、アニュエスの視界の中央に黒い影が蠢いているのが見えた。近づくにつれ、罵声のようなものも聞こえてくる。
「ケッ、てめぇの所為で時間とられるわ雨に降られるわで散々だ! この、この……ッ!」
「……」
鈍い音と、もはや何を言わない骸に向かって誰かが何度も蹴り込んでいる。その傍らには無言で立ち尽くす黒いスーツが二人。
不意に、鋭い稲光が空を走り、アニュエスの視界を一瞬だけクリアにしてくれる。
グリーズから受け取った写真に映っていた、パープルスーツの顎しゃくれが顔を歪めながらまだ死体を蹴っている。
酷く、愉しそうに。
「……ふぅ。でもま、いいストレス発散になったわ。地べたの水すすって生きてるような連中が俺の役に立ててしねるんだから本望だよなぁ? っははは!」
「おー、おー、絵に描いたようなクズが相手か。やりやすくていいねぇ?」
「あ? 何の声だ?」
顎しゃくれが振り返る。
街角でナンパされたと勘違いでもしてるかのように、あまりにも、緩慢に。
振り返りきるその数秒前、既にアニュエスは姿勢を下げ、一気に体組織をブーストして全速力を叩きだす。護衛の黒服に肉薄、サングラス越しに驚愕の色が浮かぶが、アニュエスは二人を軽い手刀で叩く。さして力を加えていない弱い衝撃。だが、アニュエスの手が触れた瞬間、まるで電気ショックを受けたかのように一度大きく体を痙攣させ、そのままばたりと水たまりに頭から倒れ込む。
顎しゃくれが振り返る――瞬間、真下から丸太で殴られたような衝撃が彼に襲い掛かる。
「ぐぶっふ!?」
ほぼ直角に上がったアニュエス渾身の左ハイキックがクリティカルヒットし、その体を数センチほど宙に浮かせる。間髪入れず、アニュエスは体を右回転を加えた回し蹴りを腹部に叩きつけ追撃。顎しゃくれの体が吹き飛んでコンクリートの壁に激突。ずるずると壁を滑る顎しゃくれに容赦なぞ微塵もなく、駆け出し、鉄板の仕込んであるブーツの踵で鳩尾を思い切り踏みつける。
「ごば……が……ッ! あ……ッ!?」
「よう、ストレス発散に喧嘩したいんだろ? 付き合ってやるから立ちな?」
「な……ぁが、誰……だ……?」
「喧嘩屋。アンタをボコれって依頼受けてね。あぁ、安心しなよ。殺しはしない。死ぬギリギリくらいで許してやる」
「は、ぁ……!? ふ、ふざけ、るなよ……!?」
ヒュッ、と短いアニュエスの口笛。
手を抜いたつもりは無かったが、顎しゃくれはその見てくれよりかは根性があるらしい。血反吐を捨て立ち上がり、汚れたパープルスーツを濡れた路上に脱ぎ捨てる。細くもなく、かといえば強靭とは言い難い中途半端な体躯だが、アニュエスとの身長差は十センチほど。脇をしめ、それっぽくファイティングポーズを取ればそれなりにサマになる。あくまで、それなりに。
「お前、俺を誰だと、思っ……て!」
「別に何処の誰だろうとオレには関係ない。はっ倒せば金が入る、ゲームの雑魚キャラ程度にしか思わねぇ」
「てめ」
言うよりも先にレガースで防護された右足が顎しゃくれの頬を打ち貫く。情けない悲鳴をもらしながら水たまりの上を転がり、受身もそこそこに起き上がる。が、顔を挙げた瞬間アニュエスの左足が右から襲い掛かり、咄嗟に両腕を使って防御するが、重く鈍い衝撃で右腕の骨が砕けたような音がした。
顎しゃくれが歪んだ顔をしかめる。
痛みと、怒りと、恐怖に。
「て、っべぇ……! ただの、女じゃ、ねぇ……なぁ……!?」
「ただの何の変哲もない喧嘩屋。それ以上でも以下でもねぇ」
「んな、わけ……あるか!? 女の蹴りの、威力じゃ……ぃヒ!?」
風をぶち抜く蹴りが頬を過ぎり、本能と恐怖が作用して回避。折れた腕を庇いながら、顎しゃくれはジリジリとアニュエスとの彼我の距離を離していく。
さて、どうしたものか。
アニュエス個人としては少々やり足りないが、腕の一本でも折れば上々な気がしないでもない。
「この区画に二度と近づくな。それを守れるんなら、もうこれ以上痛い目見ないで済むけど?」
「ぶぁ、馬鹿にしてんのか!? 俺は――ぃッ!?」
今度は路上を転がっていた石が弾丸のような速度で顎しゃくれの頬をかすめる。生温かい感触を感じ、折れていない方の腕を動かし、触れる。ぬるっとした感触が何かとは言うまでもない。
「な……はぁッ!?」
「腕の一本じゃ足りないか。仕方ない、もう片方も」
「ッ……ざけんな!? こんなゴミ溜めの、ゴミの分際で……!?」
「おいおい、言うに事欠いて何様よ」
「この街で一番不要な区画の人間に価値なんてねぇんだよ!? それを、俺のために役立ててやって」
「…………あ?」
不意に雨脚が激しさを増し、轟々と雷鳴が響く。
アニュエスの琴線に触れてしまったとも知らず、顎しゃくれは飛沫で煙る街の中で、まだ折れていない腕をポケットに忍ばせる。最初から構えていては弾かれる危険性があると、未だに抜かなかった奥の手。安い代物ではないが、この際四の五の言っていられない。
「……ゴミ、ってのはま、オレにも自覚があるし百歩譲って良しとしてやるが……不要だ?」
「ったりめぇだ! 生きる価値もないゴミは」
「もういい、喋るな」
その声が、真横から聞こえた瞬間には全てが遅かった。
加速して遠のいていく雨降りの街の光景。
いつの間にか「く」の字になっている自分の体。
拳銃を握っていたはずの腕はあり得ない方向にひしゃげ、それら全てを脳が理解するころには建物の外壁に背中がぶつかり、肺の中身を強制的に吐き出していた。
「――ッ、らああああああああああ!!」
激痛に霞んでいく視界の中で、叫び声をあげながら突進してくる少女の蒼白い姿。
顎しゃくれの虚ろな瞳には、まるで少女が“雷”を纏いながら――いや、事実、アニュエスは全身に白い光を纏わせながら、顎しゃくれに向かって突っ走っていた。
十二分な加速を得た体を跳躍させ、稲光にも似た閃光を奔らせた一蹴が目の前に迫る。
「うぁ、あ……ああああああああ!?」
顎しゃくれの視界全てを支配する、光と音。
視力そのものを破壊してしまうような、目の前を塗りつぶす暴力的な白い光。
直後、今自分の入る場所が震源地とでも錯覚してしまいそうな振動と爆音。
それはまるで、自分自身に雷が落ちたかのような衝撃。
俺は、死んだ……のか?
完全に恐怖に凝り固まった体に意識を這わせ――微かに動く。
折れた腕の痛みもあれば吐き気さえも残っている。
背中に伝う冷たいコンクリートの感触も消えていない。
激しい耳鳴りから解放され、やがて遠くから少しずつ雨の音が聞こえてくる。
「……ひ、ひィッ!?」
今自分の置かれている状況を把握しようと振り返って、後悔した。
さっきまで健在だった建物が――顎しゃくれが寄り掛かっている壁だけを残して粉砕している。元は人が住んでいたであろう名残の数々は無残に砕け散り、その中心には青白い光を纏ったアニュエスが立ち尽くしている。
ぐるり、と重い動作で彼女が振り返る。
この際、あまりの恐怖で漏らしていたという瑣末な事実は忘れ、顎しゃくれは濡れた路面を這いずるようにして逃げ出した。
「……おい」
「ひ、ぁッ、ああああ!?」
パチ、パチッ、と何かが弾けるような音が聞こえたかと思い顔を上げた瞬間、薄く発光したアニュエスが往く手を塞いでいた。顎しゃくれを見下すその視線には煮えたぎるような怒りと殺意が滲んでいる。
「お、おま、お前……ッ!? ま、魔女がぶ!?」
「……」
後頭部を思い切り踏みつけられ、微塵も嬉しくない泥水と熱いヴェーゼ。
その頭上から降り落ちてくる言葉の数々は、彼からしてみれば死の宣告に他ならない。
「二つ、だ。それさえ守れるんならこれ以上はしない。一つ、二度とこの区画に来るな。それと、二つ。……オレが魔女だってコトを言いふらすな。それだけ」
「が……あ、った! わかった! わかったから、わかったから……!!」
「……」
す、っと後頭部の重みが引いていく。
安堵した瞬間にもう一度踏みつけられ、そのまま顎しゃくれの意識は雨音の中へ溶けるようにして消える。
自分がぶち壊してしまった建物と、顎しゃくれの哀れなサマを交互に見てから、アニュエスはパーカーのポケットに手を突っ込んで歩き出した。
「……」
その小さな溜息を聞いた者は、誰もいない。
もう花粉が飛んでるらしい……
花粉症の人間はツラいっすわ;
次回更新はもちろん明日。
では、待て次回。




