【 カチュア ―異邦ノ迷イ風― / 10 】
「なるほど……それで、明千花って名前をひっくり返して『カチュア』って名前にしたわけね。なかなかどうして、スノゥにしては悪くないセンスじゃない?」
「……なんか、それしか思いつかなかった」
ブラックキャットのカウンター席、一番端。
不意に、マリーから彼女の名前の由来を聞かれ、スノゥはテーブルに突っ伏したまま、“由来”と言えるような大層なモノがないことをマリーに話していた。
あの新しい名前をもらった時の明千花――いや、カチュアの表情と言ったら凄まじかった。
喜色満面、を通り越したような感動の嵐に揉まれ、表情筋が一気に解れて、蕩けて、あまつさえ勢いのあまりスノゥに抱き付いてきたのだ。少々圧倒されたが、彼女はやがてスノゥの腕の中で泣きじゃくった。
肉体的にも精神的にも、彼女は色々と限界だったのだろう。
堰を切ったような、大きな涙と痛いほどの嗚咽。
そのハナシは……マリーにはしなかった。
昼下がりの喫茶店は、一番の書き入れ時。
貴重なティータイムをわざわざ外出して楽しめる者というのは、つまり心や懐に余裕のある人であるわけで、そんな人間が集まった店内の雰囲気は普段に比べれば明るく柔らかで、屈託がないというか、一様に朗らかだ。
茶菓子に手を伸ばしながら、気のないおしゃべりに興じるご婦人たち。
一人、窓際の席で長編小説のページを捲り、時折眠気覚ましにとコーヒーに口を付けるご老人。
カウンターの隅っこから、スノゥはこの光景を眺めているのが微妙に好きだった。微妙にとはスノゥのニュアンスだが、要するに楽しくはないけどつまらなくはない、そういった感じ。
自分がこんな光景をのんびり眺められるとは、少し前の自分であったら想像だにもしなかったことだろう。
様々な巡り合わせに揉まれた果て、スノゥは今ここで生きている。
これが幸か不幸かは、本人にもまだ分かっていない。
と――、不意にバン! と大きく玄関が開いてドアベルがやかましく音を立てながら揺れた。
「姉さま! 先ほどのお使い、只今完了いたしまし……あッ!」
盛大な音を立てながら玄関を開け放った所為で、当然ながら店内で談笑やら読書やらを楽しんでいた人たちの視線が一斉にカチュアに集中する。やってしまった、みたいに一瞬唖然として、それからペコペコと頭を下げながらそそくさとスノゥの元へすり寄る。
「……あら? それさっき私がスノゥに頼んだお使いじゃないの」
「だってカチュアが」
単なる雑貨のお使いだったのだが、たまたま出くわしたカチュアに訊ねられ「それなら、私が姉さまの代わりにやります!」とデッカイ声で言われて、めんどくさがったスノゥは代行してもらったのだ。紙袋の中身を確認して、スノゥはさも何事もなかったかのようにマリーに紙袋を渡した。
「一応、自分で行くって言ったよ? 言ったけど」
「これぐらい、どうってコトないです! 命の恩人の姉さまのお役に立てるんなら、私は何だって致します!」
「……ほれ」
「あらまぁ……」
どういう意味合いのこもった「あらまぁ」なんだか。
何故かマリーはニヤニヤと含んだような視線をスノゥに送る。スノゥは肩をすくめるだけで何も言わず。
「しかも、いつの間にか『姉さま』なんて」
「それは」
簡単に事情を説明すると、診療所の屋上での一件の後、カチュアはスノゥのことを恩人として敬愛の意を表すために『スノゥ様』と呼びたがったのだが、流石に様付けはガラじゃないとスノゥはこれを断る。
しかし、カチュアの意思は何故か鋼のように固く、どうしても呼び捨てには出来ないと。悩んだ末、カチュアは『姉さま』ではどうかと提案。様付けとさして変わらないような気もしたが、曰く、カチュアの家が男兄弟だけだったので、せっかくならこっそり憧れていた『姉』という存在に当てはめるのはどうだろう、と。それでも最初は渋ったが、名前に様を付けられるよりは幾分マシかとスノゥが折れた。怪我も完治していない身体で、カチュアは飛び跳ねて喜びを見せた。
「妹が増えちゃって大変ねぇ?」
「……」
決して血の繋がりのある妹ではないのだが、こうも短期間に増えるとスノゥとしても少々困る。ちなみに、歳でいえばウルリカが十二で、カチュアは十八。姉妹の仲はそれなり。時々、カチュアと一緒にいると殺気めいた視線を感じるような気もするがたぶん気の所為だろう。
カチュアが退院してから、あっという間に二週間。
矢の如しと謳われる時間の経過と同じように、カチュアもまたこの街に徐々に慣れつつあった。
ちらと視線を動かすと、スノゥの前で瞳をキラキラさせるカチュアの姿。
長かった髪はポニーテールに纏められ、何処となく精悍さを漂わせる小ざっぱりした面持ち。マリーにもったいないと言われ、故郷のモノをそのまま洗って直した羽織(巫女服だとマリーは煩い)にストレートジーンズ、腰にはカナンに打ち直してもらった刀と新しいモノとを二振り差している。和洋折衷、と言えばいいのだろうか。羽織を翻しながら街を歩くそのデニム地の後ろ姿はまさしくエキゾチック。
ウルリカとは違い素の戦闘能力は十分あるので手ほどきはあまり必要と思わなかったが、修行の一環として時々はスノゥも手合わせしている。普段から型に嵌る戦い方をしないスノゥからみると、東方の武術というのは何ともまぁ礼儀正しくて堅苦しい印象だった。たまに聞くカチュアの稽古絡みの思い出話はほとんど苦笑いしているような気がする。
「姉さま!」
「はいはい?」
そして、気がつくとカチュアはスノゥの真横に座っている。紙一重、とまではいかないが相当に近い。少なくとも互いの息遣いは聞こえるほどの至近距離で、スノゥがぼんやりしているといつもここにいるような気がする。ウルリカのベビーローズの香水とは違う、柑橘系のサッパリした香りがスノゥの鼻孔をつつく。彼女の眼差しはいつだって真剣で、いつだって真っ直ぐで、いつだって熱を帯びている。何に対する熱なのか分からないが、あまり暑苦しいのはスノゥとてご遠慮願いたい。
「何かお手伝いしましょうか? お仕事とか余ってたら」
「いや、別に今日はもう何も」
「姉さまのためなら何でもしますから、何時でも何でも言ってくださいませ! なん、でも!」
「それならお店を手伝って頂戴な。またこの時間から混んでくるから」
「あ……えう、しかし……うぅ、はい。わかり……ました」
だが、仕事に関してはあまり熱が入らないらしい。接客業も少々不得手らしく、まだまだミスが多いと前にウルリカから聞いた。仕事自体の経験もなく、故郷でもそういったお店は利用しなかったとのこと。予想以上に箱入りな環境だったと知ったのはつい最近だ。
「真面目でイイコ、よね?」
「……そだね」
「お姉ちゃん、チーズケーキ出来たよ」
「ん、ありがと」
こっそり注文していたチーズケーキとピュア100パーセントな笑顔とをウルリカから受け取って、スノゥはフォークで切って口に運ぶ。その視線の先で、ウルリカは少々胸を張りながらカチュアに仕事の作法をあれやこれやとご教授している。歳こそカチュアが上だが、仕事に関してはウルリカの方が先輩。小さな先輩の指導は存外厳しいらしく、慣れない業務内容とともどもカチュアは苦戦しているのがよく分かる。
「……ここも賑やかになってきたよね」
「あら、スノゥは嫌い?」
「特別好きでもないけど」
柔らかな生地と、甘酸っぱいチーズケーキの酸味。
思わず口元がほころびそうになる、優しい味わい。
「……嫌いでもないよ」
退屈しない、スノゥのささやかなティータイム。
これにて、第2章は終了。
次の詳細は……明日書く(予定の)活動報告にて。
では、待て次回。




