鯛焼きはどこから食べるのが正解か?
「マスター、ブレンドひとつね」
「はいよ、ちょっと待っててね」
二か月ぶりくらいに訪れたカフェは、マガジンラックが三十センチメートルくらい東の方角に動いているくらいで、いつも通りの雰囲気だった。俺が気に入っている、幾何学模様のテーブルクロスも変わっていない。一辺の長さが四.五センチメートルの正三角形を七二九個――いやこれは緑の正三角形の数か。これは緑と白の正三角形を並べた柄だ。だから正確に言うなら一四五八個の正三角形を規則正しく並べた模様は、見ていてとても落ち着くのだ。不変、というのは、とてもいいことだ。コーヒーの香りが店中に満ちていて、何度でも深呼吸ができそうなくらい。
俺はいつもの定位置に座ろうとして、足を止めた。そこにはすでに先客がいたのだ。
黒髪を長く伸ばした、この店では見かけたことのない女性が座っていた。マスターのいるレジに近いカウンター席。少しうつむいた姿勢で本を読んでいる。まあ仕方ない。俺がよく座っているというだけで、別に指定席というわけではない。窓際の大きめのテーブルとソファの席に座ることにした。本当は四人くらい座れる席なのだが、今日は客が少ないようだしかまわないだろう。
「村雨くん、久しぶりだねえ。大学、忙しい?」
「ああ、ちょっとレポートとかが立て込んでて。すみません、なかなか顔出せずに」
「いやいやそういうことじゃないんだよ。また何か、難しいことやってるんでしょう」
「そんなに難しくないですよ。ちょっと三角法の……」
「あー駄目駄目、数字のことは全然わかんないから」
マスターは笑って引っ込んでしまう。マスターはいい人だけれど、俺が少しでも数学の話を持ち出すと消えてしまう。数字は駄目、なんだそうだ。いくら俺が数学科だからって、いつも数字の話をしているわけじゃないのに。三角形の話だってする。
マスターが引っ込んでしまって、俺は途端に手持ち無沙汰になってしまう。いつも来ているから、もうメニューなんてじっくり見ることは無い。いつも座らない席に座ったのだからいつもはしないことをしよう、と、コーヒーが来るまでの暇つぶしにメニューをぱらぱらとめくった。頼んだことのないメニューは、もう無いと思う。エスプレッソ、カフェモカ、キャラメルラテ、いつだったかもう忘れてしまったがアフォガードも食べたことがある。結局はブレンドコーヒーに落ち着いたけれど、どれも美味しいのは確かだ。価格設定が低めなのもいい。大学の近くにあるから、ここの客は学生がほとんどだ。学生に合わせた値段設定、ということだろう。
最後のページには、ケーキが書き連ねられている。甘いものはそこまで好きというわけではないから、そういえば、食べたことのないものもあるかもしれない。
「……鯛焼き」
ミルフィーユだのザッハトルテだの、カタカナが並ぶメニューの中で、漢字表記の鯛焼きはずいぶんと異彩を放っていた。カフェで、和菓子。あまり見ない組み合わせだ。抹茶ケーキとかならともかく。
「ねえマスター、前から鯛焼きなんてあったっけ?」
マスターが顔を出す。カウンター席を一瞬見て、ああそうか、という顔をしてから俺を見た。ほらな、やっぱりそこは俺の席なんだ。
「いや、最近置き始めたんだよ。この前お客さんが持ってきてくれた鯛焼きが、すごくコーヒーに合うってことがわかってね。あんことコーヒーって、実はすごく合うんだ」
「へえ……」
「村雨くんも食べる?甘さ控えめなやつを選んでるから、大丈夫じゃないかな」
「ああ、じゃあ、お願いします」
はいよ、とマスターは返事をして、店の裏のほうへ消えた。壁にかかった丸い時計の半径の長さを考えながら、最後に鯛焼きを食べたのはいったいいつ頃だったか思い出してみる。思い出せない。つまりそれくらい長い間食べていないということなのだろう。子供の頃のおやつ、という感じだ。
マスターが戻ってきて、鯛焼きとコーヒーをトレイに乗せて持ってきてくれる。ごく普通の鯛焼きだった。まだ熱いそれを手に取って半分に割った時、どこかから視線を感じた。
「……あの、何か?」
俺の特等席に座っている彼女が、俺を――正確に言うなら、俺の手の中にある鯛焼きを、見つめていた。不思議そうな、でも何か怒りを隠しているような、そんな顔だった。彼女は、さっきまで読んでいた文庫本をテーブルに置いていた。さっきは見えなかったが、彼女が読んでいたのは、太宰治の『斜陽』。はっきり言うと、あまりいい予感はしない。太宰治なんて読んでいる女にろくな女はいない、というのは完全なる偏見だが、この予想が外れたこともあまりない。さっきはうつむいていて顔が見えなかったが、改めて見ると目が大きくて肌が白くて、なかなか整った顔をしてはいる。でも太宰を読んでいる時点でそれは相殺されてしまう。
彼女は黒髪を耳にかけて、口を開いた。
「あなたは、鯛焼きをいつもそうやって食べるのですか?」
「はっ?」
「あなたは鯛焼きを、半分に割ってから、食べるのですか?」
質問の意図がよくわからない、と返そうとした瞬間、彼女が立ち上がった。そして真っ直ぐ俺のほうに向かい、手の中の鯛焼きをまじまじと見つめる。
怖い、とはっきり思う。この女は怖い。危ない。何を考えているのかわからない。絶対に危険だ。逃げたほうがいい、だがこの席はドアから遠い。逃げることが出来ない。なんだこの女、なんでこんなに目力が強いんだ!とにかくここはおとなしく質問に答えたほうがいいのかもしれない、質問の意図がまったくわからないけど答えなきゃ答えないで何が起きるかわからない。
「別に、理由は、ありませんけど。そもそも鯛焼きを食べること自体が久しぶりだから、いつも割って食べるとか、そういう習慣は、ありません」
「……そうですか」
納得したのかしていないのか微妙な顔をして、彼女は自分の席に戻る、かと思った。けれど彼女は戻らなかった。俺の向かいのソファに座った。
本当に危ない人かもしれない。なんで今日、ここに来てしまったんだろう俺は。今更過ぎる後悔をしながら、俺はひたすらに、彼女が何も言わないでいてくれることを願った。……いやこの状況で無言のままここに座られても困るけど。
彼女は、何か考えるような間を取ってから、口を開く。
「一つ、質問してもよろしいでしょうか」
「……はあ、どうぞ」
「鯛焼きは、どこから食べるのが正解なのでしょうか?」
鯛焼きは、どこから食べるのが正解なのでしょうか。俺は心の中で二度、この質問を反芻した。どこから考えても意味を見いだせないタイプの質問だった。なんなんだこの女。怖すぎる。怖い。本当に怖い。
「それを聞いて、何か意味があるんでしょうか」
「私の知的好奇心が満たされます」
「それは、……よかった」
沈黙。こんなにも気まずくなる沈黙を俺は知らない。初デートで話題が無くなった時だってここまで気まずくはならない。たぶん原因は、この女が目を逸らす気が一切ないからだ。少しの間でいいから別のところに視線を移してくれればいいのに。そうしたら俺はその瞬間にここから逃げ出せるのに。でもこの女は目を逸らさない。俺の顔に穴でも開けるつもりなんじゃないだろうか。怖い。
とにかく心を落ち着かせたくて、コーヒーを口に含んだ。美味しい、美味しいはずなのに味がよくわからない。マスターごめん、と心の中で呟く。でも俺は悪くないんだ、と付け足す。すべての元凶はこの女なんだ。
不意に、マスターが現れた。救世主かと思った。
「頭から食べるのが正解だと思うよ?」
「マスター……マスターも、そう思われますか?」
「頭のほうが、どうしてもあんこが多いからね。頭のほうから食べると、尾っぽのほうにあんこが押されていくでしょう、だから均等に食べられるよ」
「……なるほど、そういう考え方もあるのですね」
うん、とマスターは笑う。俺はできる限り小声で、なんなんですかこの人怖いんですけど、と必死に訴える。マスターは驚いたような顔をして見せた。
「あれ、知り合いじゃないの二人とも」
「初対面ですよ!」
「なんだ、だって二人とも同じ大学でしょう。知り合いなのかと思ってた」
大学生?言われてみれば確かに同年代っぽいし、このカフェに来る同年代といったらほとんど同じ大学の人間だ。十分あり得る話だが、うちの大学にこんなに、なんというか、やばそうな人がいたのか。知りたくもなかった。
彼女はマスターの言葉を真剣に考え込んでいるようだった。いやそんなに考え込むような話でもないだろう、と言いたいところだが、余計な口をはさむとさらにややこしいことになりそうだ。できるだけ関わり合いにならないで済ませたい。でも、もう無理そうだ。なんとか鯛焼きを食べて、コーヒーを飲む。ああ、確かに合うね、コーヒーとあんこ。できれば穏やかに楽しみたかった。
マスターは人好きのする笑顔で言う。
「澤田さんもね、村雨くんと同じでよく来てくれるお客さんなんだ。ね、澤田さん」
澤田さん、と呼ばれた彼女はぴくりとも動かない。まだ何かを考えている。マスターは肩をすくめてレジの向こうへ引っ込んでしまった。やめてくれここにいてくれ救世主、俺を一人にしないでくれ、と縋りつきたくなったのは人生で初めてだ。彼女と二人にされてどうしていいのかわからない。俺が彼女について知っているのは、名前と、大学生だってことと、やばそうな人だってことくらいしかないのだから。お願いだから一人にしないでくれ。
なるほど、という呟きが彼女から聞こえた。何かを納得したらしい。
「マスターの意見は、合理的ですね。鯛焼きを美味しく食べるために、頭から食べるというのは」
「……そうだね、だから正解なんじゃないのかな、頭から食べるっていうのが」
「そうですね、私も、頭から食べるのが正解だと考えています。ですが、重要なのは、何故頭から食べるべきなのか、ということです」
彼女は真剣そのものだった。ひどく冷静で、だからこそうすら寒い何かを感じる。また俺の真っ直ぐに見据えて、論文を読み上げるかのように淡々と考えを述べていく。
「鯛焼きは――いえ、鯛焼きに限らず、動物の形をしたものは、すべて頭から食べるべきです。何故ならば、彼らもそのほうが一思いに死ぬことが出来て幸せだからです」
「彼ら、って」
「ここでは、鯛焼きや、ハトサブレなどを指しています。一口で食べられる大きさのものに関してはどちらから食べるべきという法則は当てはまりませんが、何口かに分けて食べなければならない時は、頭から食べるべきだと、私は考えています。そのほうが、結果的に彼らのためになるからです。あなたはどうですか?」
呆気に取られる、とは、このことを指すのだろうなと思った。こんなにくだらないことをこんなに真剣に話すなんて、ある種の才能かもしれない。どう見ても、彼女は本気だった。本当に、鯛焼きの気持ちを考えているらしかった。
なんと返答するのが正解なのだろう。目を逸らすということを知らなそうなこの女に、何を返せばよいのだろう。少しずつ言葉を選びながら、なんとか彼女のペースに巻き込まれないように話していくしかなかった。
「そう、だな、その理論で行けば、俺の食べ方は最低ってことになるね」
「……そうですね。苦しまずに死なせてあげるという観点から見れば、半分に割るというのはかなり残酷な行為であるとも言えます」
「でも、物には心というか、まあこの場合に限って言うなら、痛覚が無いわけだろう?神経が通っていないんだから、痛覚を感じようがない。だったらどこから食べても関係ないだろうし、半分に割ったところで痛みも感じない。だからこいつが苦しむことも無いだろう?」
これで少しは黙るだろう、と俺はほんのりと満足感を得る。理屈っぽい人間を順序立てて論破するのは嫌いではない。難しそうに見える数式に、実は単純な公式が当てはまる快感に似ている。でも今日のは、何と表現したらいいのか、レアケース、な気がする。そしてできれば、今後は無いように願いたいケースでもある。
コーヒーを口に含んだとき、彼女がまだ何か考えている顔をしているのを見て鳥肌が立った。まさかまだ何か言うつもりなのかこの女。
「あなたは、物に心が無いことを証明できるのですか?」
「え?」
「『存在しない』ことを証明するのは、『存在する』ことを証明するよりも難しいのです。対象となるものが存在する可能性を完全に消し去ることは、不可能に近いからです。あなたは物に心が無いことを証明できるのですか?それは何故ですか?」
完全に言葉を失ってしまった俺に、彼女はそっと微笑んだ。思えばこれが、初めて見る彼女の笑顔だった。客観的に見れば可愛い。だがそれどころではない。どれだけ美人だろうが何だろうがそのすべてを無にするほど、この女の思考回路は歪み切っている。
証明?何を言っているんだ。命題は「物に心が無い」か?だとしたらそれは真だ。誰だってそう考える。こんなのは常識の範囲内の話であって証明するまでもない。だが、確かに、証明はできないかもしれない。論拠がない。反例を挙げようにも、具体的な例を挙げることが出来ない。対偶は「心があるならば物でない」ということになるだろうが、結局は堂々巡りだ。どちらにせよ、完全な証明は、できない。
彼女は立ち上がり、カウンター席から、なんと自分のコーヒーを持ってきた。完全に居座るつもりらしい。立ち上がった瞬間に、帰ってくれるのか、と思った俺の淡い期待は見事に打ち砕かれてしまった。彼女はゆっくりとコーヒーを飲み、さあどうぞ反論を、と言わんばかりに俺の目を見た。
「……確かに、証明は難しいかもね。でも君だって、この鯛焼きに心がある証明はできないだろう?」
「はい、できません」
「じゃあ、まあ、なんていうの?おあいこ、だよね」
「……そうですね。今はまだ、おあいこですね」
「……それはつまり、今後、決着がつく可能性があるということだよね。心があるかないか」
こくり、と彼女は頷く。そうして笑う。物に心がある説を捨てるつもりはないらしい。何も疑わず、本当に心の底から信じているから、扱いに困る。
どうしたらいいのか、どうやったらこの状況から逃げ出せるのかを考えていたら、彼女は不意に腕時計を見て、信じられないほど顔を青ざめさせた。
「どうしよう、教授と約束……!」
「それは大変だね、急いだほうがいいよ」
内心ものすごい安堵感を感じながら、彼女を思いやるようなことを上辺だけ取り繕って言ってみた。正直に言えばざまあみろとしか言いようがない。こんなどうでもいいことを真剣に話しているからだ。それに巻き込まれてしまった俺も俺だが、これは不可抗力のようなものだから仕方ない。
彼女はばたばたと身支度を整え始めた。カウンターに置きっぱなしだった『斜陽』もバッグにしまい込まれる。やっぱりな、太宰なんて読む女にろくな女はいないんだ。今日はそれを立証できた日だ。カップに残るコーヒーは冷め切ってしまった。せっかく頼んだ鯛焼きも、食べかけのまま冷めていた。彼女風の表現をするならば、内臓をさらしたままで冷たくなっていた。全部彼女のせいだ。
用事があるのなら早く店を出ればいいものを、彼女はわざわざ俺のところへやってきた。
「あの、有意義なお話ができて、とても楽しかったです。ありがとうございました」
「ああ、どうも」
「できることなら、またお会いしたいです。それではすみません、急がないといけないので」
彼女がお辞儀をすると、黒髪がさらさらと流れた。黙っていれば美人なのにね、という台詞をよく耳にするが、それを体現する人間を見たのはこれが初めてかもしれなかった。
からんからん、とドアチャイムが鳴る。彼女が完全にいなくなった後、俺はこれ以上ないほど深いため息をついた。今日は何だ、厄日か。ほとんどやけになって鯛焼きを口に入れる。散々あんな話を聞かされた後じゃ食べづらい。俺は物には心が無い説を信じる。絶対にだ。いちいちそんなことを考えてちゃ生きていけない。何事も合理性が重要なんだ。
マスターがやってきて、さっきまで彼女が座っていたところに座る。さっきまで救世主に見えていたけれど、さっきなんやかんや助けてくれなかったから実際のところそうでもないのかもしれない。
「楽しそうだったね」
「楽しくなんかないですよ!なんなんですかあの人……」
「澤田さん?あの子ね、哲学科の学生さん。いつも面白いこと話してくれるんだよ」
「面白いこと、ですか」
そうだよ、とマスターは笑って、俺に水をくれた。彼女が置いていったカップをぼんやり眺めて、またため息をついた。
テツガクカのサワダさん。不穏な響きだ。もう二度と会うことがありませんように、と願掛けをしながら、水を飲み干す。やっと少し落ち着いたところで、マスターのにこにこ笑顔が、信じがたい言葉を口にする。
「澤田さん、普段はあんまりおしゃべりな人じゃないんだよ。でも村雨くんとはずいぶん長いことお話してたし、気に入ったんじゃないかな、村雨くんのこと」
「……それはつまり」
「彼女もよく来る子だし、また会うかもね。また会ったら、お話することになるんじゃないかな」
にこにこ、マスターは笑う。笑いながら呪いの言葉を吐く。もうこの店に来るのやめようかと思った。ここに来るたびにあんな人に絡まれてちゃやってられない。ああ、でも。
「ここのコーヒー美味しいんだよなあ……」
「うん?ありがとう、なんでこのタイミングで褒められたのかなあ」
マスターの笑顔を見ながら、結局またこの店に来てしまうんだろうなあと思う。できるだけ、テツガクカの彼女に会わないよう細心の注意を払いながら、俺はこの店に通うのだろう。この店に来て彼女に出くわす確率を、あとで考えておこう。
鯛焼き、どこから食べるのが正解なんでしょうね。私にとっては永遠のテーマなんですが、友人に話してみると、どうでもいい話、みたいですね。
村雨くんを数学科の学生にしてしまったことを若干後悔しています。私、数学だけとは友達になれなかったので。