四
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少女は名を六帆と言った。
六帆は藤の花のような髪をひとつに括っていて、年頃は十歳かそこらだろう、背は大きくなかった。
その少女が私の腕を掴み、路地裏へ連れ込む。
「ええと……?六帆……ちゃん?」
「ちゃん付けしないで」
「六帆。あの、何か?」
彼女は私を見上げる。
「日国から来たのよね?」
「日国?」
私が首を傾げると、彼女は私を指差した。
「こんな服、見たことないもの。犁国では」
「ああ……」
もしかして、日本のことを言っているのだろうか。日本をこちらでは、日国と言っているのか。解犁もそれを言ってくれればいいものを。
「日本のことか」
一応、確認はしてみるが、日本と言っても六帆には分からないようで、首を捻る。
「日本?」
「向こう側の世界、だろう?」
そう言うと、ああ、と納得したように頷いた。
「日本って言うのね」
「うん。それで……何?」
こんな路地裏へ連れてきて、何なのだろう。
「その、日国の話を聞かせてほしいの。すごく豊かなところなんでしょ?飢えとか、飢饉とか、全然ないって聞いた」
期待したような目で六帆は私を見る。どうしたものか、と悩んでいると、彼女は提案をする。
「話を聞かせてもらう代わりに風諭の案内をしてあげるわ。どう?」
確かにそれはありがたかった。ここの地理に疎い私を案内してくれると言うのなら、その好意を素直に受け取っておこう。日本のことを話しても、別に何が悪いというわけでもない。
「じゃあ、それで」
私が微笑むと、六帆はぱっと明るい表情をした。
「ありがとう。とりあえず、こんな路地裏から出ましょう。どこか見たいところは?と言っても犁国は初めてよね、きっと」
「初めてだな……ああ、そうだ。風車を近くで見たいかな」
「風車?そんなところでいいの?」
驚いたように言う六帆に、私は頷いた。
「変わった人ね。いいけど。じゃあ行きましょう、こっちよ」
六帆に言われ、路地裏を出る。大通りを真っ直ぐ歩いた。
区長、と言ったか。その割りに人は少なく、豊かというよりも寂れた感じが強い。解犁は比較的豊かだと言ったが、これでましな方ならば、他の町はどうなのだろう。
「難しい顔をしてるわね」
六帆に言われ苦笑する。
「日本とかなり違うから」
「そりゃ、比べられたら困るわよ」
「そうかな」
六帆は頷く。
「私達にとっては夢の国よ、日国……日本は」
六帆は悲しげな表情だった。何と言葉を掛けていいか分からず、黙り込む。道は昼頃とは思えない程閑散としていた。どこからからか吹く風が、夏だというのに嫌に冷たく感じた。
風車の前は小高い丘のようになっていて、草はあまり生えていなかったが、少しばかり緑があった。風車は近づくと本当に巨大で、見上げると眩暈のするような高さである。
「……すごいな」
思わず感嘆の声を漏らすと、くすくすと六帆が笑った。
「そんなに?とりあえず、座ろう。少し歩き疲れちゃった」
六帆は薄い草原に腰を下ろす。なるほど、風車は町外れにある訳だ。こんなに巨大な風車が、町中にあったら邪魔そうだと思った。
「日本の何を聞きたい?」
腰を下ろしつつ尋ねると、六帆は笑う。
「何でもいいけど……そういえば、あなた名前は?」
「ああ、名乗ってなかったな。還己、という」
「姓は?日国の人はあるって聞いたわ」
「永瀬。永瀬還己」
へえ、と六帆は言う。
「こちらにはないのか?名字」
「無くはないけど、偉い人だけ。ええと、今この町に来てる崇栄様とか。確か
崇栄様の姓は……荘行」
崇栄。確か、解犁が呼ばれたっていう人だ。
「その崇栄って人、偉い人なのか?」
「そうよ。官僚様だもの。あんまり王宮の人が来ることってないから。しかもこんな風諭みたいな小さな町に。すぐ噂が広まっちゃうの。門番さんもお喋りだから、官僚様が来た、って私達みたいな庶民も崇栄様が来られたことを知ってる」
「確かにお喋りな門番だった」
解犁に向かって崇栄様がいる、と軽く言っていたし。
「でも、風諭は区長なんだろう?年に何度かは王宮の者が来そうなイメージがあるけど」
六帆はふるふると首を振る。
「全然。風諭は確かに区長だけど、区長の中では貧しい方。西の方は、貧しいところが多い。食べるものに困ることもあるわ。……だから、日国に憧れてるの」
「憧れ?」
「飢えもない、飢饉もない、戦争もない幸せなところだと聞いたから」
それを聞いて、私はため息をつく。不思議そうな顔をする六帆。
「夢を壊すようで悪いけど、六帆が思ってるほど良くはないよ。自分で命を絶つ人だって多かったし、それに、今日本は戦争をしてないけど、他の国では続いているところもあるし」
「他の国?日国の他にもあるの?」
目をぱちくりとさせて驚く六帆に私は微笑んだ。
「あるよ。覚えきれないくらい」
「へえ……」
初めて知ることに、彼女は喜色を浮かべる。しかしすぐに、眉間にしわを寄せた。
「でも、戦争とかあるのね。日国じゃないところで」
「うん。日本はあまり飢えとかはないけど」
「それだけで十分幸せだと思うわ」
六帆は立ち上がる。
「私ね、日国に行きたいの」
その表情は、至って真剣だった。
「単なる憧れだし、自分勝手だと思う。飢え死にしたくないって、少しでも幸せになりたいって、思ってる。親には悪いけど」
「……親は」
「死んだわ。飢えで」
「…………済まない」
「ううん。親が飢え死にするところを見たから、自分はあんな惨めな死に方をしたくない。惨めな思いをしたくない。だったら、夢の日国に行きたい」
言って、ぎゅっと固く拳を握りしめる六帆。私は俯く。
戻るのには重大な理由と莫大な費用が。そう解犁は言っていなかったか。だったら、六帆はきっと、日本には行けない……。
「ねえ、行けると思う?」
私の心を見透かしたように、彼女は問うた。
「それは……」
「本当のことを言っていいわ」
「……向こうに行くには重大な理由と、莫大な費用がかかるらしい。私でも戻れない」
「……そっか」
六帆は笑ったが、やはり少し悲しそうだった。私は立ち上がる。
小高い丘から見渡した小さな風諭の町は、いかに町が寂れているか明らかだった。
ーーー昔はここも緑の草原だったのに。
「…………あ」
「……還己?」
声を漏らした私に、首を傾げる六帆。
「ここって、前は草原だった……?」
「それは分からないけど……でも、緑が減ってるのは確かだと思う。どうして?」
「いや……何か、ここに来たことがあるような気がして……」
いつだったろう。ここからの景色を、どこかで見たことがある。誰かと一緒に。
「いつ?初めて来たんじゃないの?」
「分からない……思い出せない。でも、確かにここに来た……」
思い出そうとすると、思考がぼやけてくる。霧がかかったようにもやもやとして、輪郭すら掴めない。
何やら難しい顔をしていたようで、六帆が心配そうに覗き込む。
「そんなに思い詰めること、ないわよ。いつかぽんって思い出すから、きっと」
「……そうだといいな」
「そうよ、絶対。ねえ、ずっとこんなとこにいてもぱっとしないし、今の時間なら人もちらほらいると思うわ。町の中を案内してあげる」
明るい笑顔で彼女は言う。元気付けようと気を使ってくれてるのが分かった。私の方が恵まれた環境で育ってきたというのに、情けない。
「ありがとう」
私が笑って礼を言うと、六帆もまた笑った。
丘を降りて町へ行くと、幾分か先ほどより人がいて、市場にもほんの少しだが活気があった。大通りに並んでいる店からはいい匂いが漂ってくる。そういえば、と私は立ち止まる。
「どうしたの?」
「確か、宿に解犁が置いて行ったお金があると思う。取ってくるよ」
「かいり?」
「ちょっと待ってて」
「ええ?ちょっと還己!」
私は大通りを走る。宿屋の場所は覚えている。
部屋に行き、小袋を持つ。小袋は見かけによらず、ずっしりと重かった。走ってさっきの場所まで行くと、六帆の姿がない。どこだろうと周りを見回しても、姿が見えなかった。
「ちょっと!離して!」
そう路地裏から叫び声が聞こえた。
ーーー六帆だ。
私は身を翻し、路地裏に駆け込む。すると、数人の男と、その男に腕を掴まれた六帆が見える。
どうする。このままでは返り討ちになる。
私の視界の端に、木の棒が映った。咄嗟に手に取り、駆け出す。
「んだよ、全然持ってねえ」
「仕方ねえ。区長とは言え、貧しいもんはーーーっ痛え!」
男らは一斉に私に視線を向ける。六帆は戸惑ったように、そして絶望したような顔で私を見た。
一人の男が手で後頭部を押さえている。私が木の棒で叩いたのだ。男は怒りで紅潮した顔で睨みつけた。
「何だ、お前は」
「その子を離せ」
一人の男が馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「小娘。こいつの知り合いか?」
「そうだ。離せ」
「生憎だが、この娘は俺達の荷を盗もうとした。ただじゃ返せねえんだ」
「嘘よ!そんなことしてない!」
たまらず六帆が叫ぶと、男が彼女を殴る。瞬間、私はそいつらに攻撃をしていた。
六帆を殴った男はその場に倒れ込む。他の男は激昂した。
「小娘……許さん!」
一人が拳を振り上げる。それを私はするりと躱した。何故だか、体が勝手に動く。男の鳩尾辺りに木の棒を命中させ、男は痛みで顔を歪め、その場に膝を折る。
「還己!後ろっ!」
六帆に叫ばれても、遅かった。背後にいた男は斧のようなものを振り上げている。
ーーー殺される。
そう思った。
しかし。
「ぐっ……」
男は呻き声を上げ、その場に倒れた。私が訳も分からず呆然としていると、男の背後に少年がいたようで、その少年が助けてくれたらしい。
「大丈夫か?」
「あ、ああ……」
少年は私と同じくらいか、下くらいかの年齢で、身長は私より低い。黒い髪を後ろで束ねている。武器を持っていないところを見ると、蹴り倒したかしたらしい。
「全く。無茶なことするなよなー。で、御嬢ちゃんも大丈夫かい?」
地面にぺたりと腰を抜かしている六帆に少年は問いかける。六帆はこくりと頷いた。
「ほら。立てるか?」
手を差し出して、立ち上がらせる。
「六帆、大丈夫?」
私もそばに寄って訊くと、彼女は頷く。顔には殴られた後が残ってしまっている。
「宿屋に行って手当てしよう。君は、ありがとう。ええと……」
「随犁」
少年は名乗る。
「随犁さん、ありがとう」
「いや。あんたについてっても構わないか?」
唐突な問いかけに、私は戸惑う。助けてくれたのはありがたいけれど、見ず知らずの人について来られるのは、何だか嫌だ。
複雑な心境を読み取ったように、彼は苦笑する。
「解犁の知り合い」
「解犁の……?」
驚いて目を見開くと、彼はうん、と頷いた。
「分かった。行こう」
解犁の知り合いなら大丈夫。何故だかそんな気がした。
六帆と随犁さんと共に、宿屋へ向かう。男達は放置でいいと言われたので、仕方ないが放っておいた。部屋に戻ると、六帆の手当てをしてやる。殴られた傷は腫れて、痣になってしまっていた。手当てをしている私を、随犁は窓枠に腰をかけながら見ていた。二階だから危ないと注意したのに、彼は大丈夫だと言ってそこに座ったままだ。
「ねえ、思ったんだけど」
と、濡らした布を頬に当てている六帆が言う。
「黒い髪だし、名前の最後が『り』だし……どんな字を書くのかは知らないけど、何だかお金持ちそうだし。もしかしてあなた、神子なんじゃないの?」
彼は頬杖をつく。
「んーどうかな」
「分からないの?」
「分かんねえなあ。おれ、気にしたことないし。ていうか、そこの嬢ちゃんも黒髪じゃん」
六帆は私を見る。確かに、私は黒髪だけれど。そんなに珍しいものなのだろうか。
「まあ……そうだけど。でも還己は、日国から来た人だし……」
六帆は目をこすり、小さく言う。
「どうしたの?平気?」
「うん。ちょっと、疲れたみたい」
「寝てていいよ。どうせ、解犁は帰ってこないし」
うん、ともう一度頷くと、六帆は寝台に寝転がった。少しすると、静かな寝息が聞こえた。本当に疲れたみたいだ。安心したように眠っている六帆を見て、微笑む。
「えっと、随犁さんは解犁の知り合いって言っていたけど」
彼はいつの間にか、窓枠から降りて壁に寄りかかっていた。
「うん、そう。呼び捨てでいいよ」
「知り合いってどういうこと?」
「そのまんま。まあ、知り合いって言うより、仲間というか同職というか」
ということは、彼は。
「さっき分からないって言っていなかったか?」
随犁は悪戯っぽく笑う。どうやら嘘をついていたらしい彼に、私はため息をつく。
「おれ、神子ってばれたくないし」
「そういうものなのか?」
「おれが嫌なだけ。でもまあ、今は神子って言うより、密偵って感じ」
「密偵?」
「そう。依怙って奴がさ……二人も要らないって言って、解犁だけ神僚として使ってやがんの。おかげでおれは暇人。解犁の近くにいて、いつでも対応できるようにはしてるけど、何しろ解犁は有能だから出番があんまりない」
「依怙……」
私は呟く。ここに来てからもそうだが、来る以前にも聞いたことがある気がする。思い出そうとしてもやはり靄がかかったようだ。
「今回はまあ、役に立ったけど」
にっと笑って随犁は言う。首を傾げると、得意気に手を腰に当てた。
「解犁に言われておれ、あんたのこと助けに来たんだよ。おれじゃなかったら間に合わなかったし」
「そうだったのか……ありがとう随犁」
「解犁から守るように言われてる。暫くお供させてもらうぞ」
解犁に気を使われてたのか。私はそれが何だか嬉しくて、微笑む。
「ありがとう。よろしく」