三
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瞼越しに眩しさを感じ、目を開ける。気がつけばもう朝だった。
「そうか……私」
犁国というところへ向かう途中だった。そしてこの汽車に乗ったのだ。解犁と一緒に。
横を見ると、いたはずの解犁がいない。私は立ち上がり、眠い目をこすって解犁を探す。すると、向かい合うようになっている席の窓際に、彼は座っていた。
「お目覚めですか」
私に気づき、こちらを向いて言った。私は頷く。
「まだ、着かない?」
「もうすぐです」
私は解犁の向かいに座り、窓の外に流れる景色を眺めた。
緑は少なく、砂漠のように広がった荒地ばかりがあった。そして正面には雲を貫くほどの山が聳え立っている。
「あれは天承至という山です。私なんかはそこで生まれる」
「どういう字?」
「天に承る、至る、と書きます。天に至る、そして引き継ぐ、という意味で付けられた名です」
「へえ……天承至か」
暫くそれを眺めていた。雲を突き抜け、堂々としている山。
「解犁があそこで生まれたのね」
「私も、というところですね」
「解犁も?じゃあ他にもいるんだ」
彼は頷く。
「私は神子と言います。人ではない。各国に神子はいる。神子は天承至で生まれるのです」
「神子……」
呟くとほぼ同時に、解犁は立ち上がる。
「もう着きますから」
私は頷いて、立ち上がった。解犁はいつの間にか手に切符のような紙を持っている。
少しして、汽車は停車した。扉が開いて、私達は外に出る。
ーーーここが、犁国。
駅は高台に位置し、景色が見渡せた。
天承至の麓には森だろうか、緑が見える。大きな川が悠々と流れていて、それはこちらの方まで続いている。頬を撫でた風は、日本の夏の風とは違い、さらりと抜けて行く。
「空が綺麗」
見上げて呟く。水色の空に、真っ白な入道雲が浮かんでいた。
景色から目を離し解犁を探せば、彼は駅の入り口あたりで、駅員らしき人に切符を見せていた。私は早足で近くへ寄る。
「解犁様……さすがにこれは叱られますよ」
「私が叱られる分には全然問題ありませんから」
駅員は呆れたようにため息をついて、切符の半分を切る。もう半分を解犁に手渡した。
「行きますよ」
「あ、はい」
私は先に出る彼の後を追って、駅から出た。その時駅員が、じっと私を見ていることに気がついたけれど、はぐれる訳にはいかないので、特に気にしなかった。
「これから風諭という町に行きます。とりあえずは、そこの宿屋に」
「どんな町?」
「どんな……そうですね、風車があって、広くはないですが、整備はされています。西の方にしては」
「ふうん……」
解犁と石で整えられた道を歩いていると、途中で馬車が通りかかった。その馬車は私達の横で泊まる。
「こりゃあ、まさか歩きですか」
驚いたように声を上げる馬車を運転している男。
「ええ」
「どちらへ?」
「風諭です。さして遠くもないので」
「いやしかし、ここからですと一時間以上かかるでしょう。お乗りになります?」
男は車を指差した。解犁は少しだけ考えたようだが、結局頷いて馬車に乗り込んだ。たぶん、私を気遣ってくれたのだろう。
馬車の中は四人くらい入れる程の広さで、狭くもないし、広いとも言えなかった。私と解犁が向かい合うように座ると、ゆっくりと走り出す。
「私、ほとんど興味本位で来ちゃって、帰れないなんて滑稽だな」
「……帰りたいのですか?来て早々」
「そういう訳じゃないけれど。でも、ちょっと、決断するの早かったかなって思った」
「今しかなかったのだと思えばいいのですよ。実際、そうです。貴方はここに来るべきだった」
目的もないのに、と心の中で呟く。それを見透かしたかのように解犁は困ったように微笑んだ。
「貴方には大変な役目を果たして頂きたいのです。そのために、まずは記憶を取り戻していただきたいのです」
「記憶……?」
前にもそんなことを言っていたような気がする。「記憶をなくしている」とか。
「風景に見覚えは?」
「……ないな。ただ、名前とかの響きが懐かしいと感じることはある」
「そうですか……。何かきっかけになって、思い出してもらえればいいのですが」
「解犁が教えてくれればいいんじゃないか?手っ取り早く。時間がないんだろう?」
解犁は横に首を振る。
「それでは何も意味がないのです。これは、天皇が与えられた試練のようなもの。私がどうにかする訳にはいきません。もちろん、街の名前や地名などの説明はさせて頂きますが、それ以上は」
「そうか……私には記憶がない、とかいう自覚はないんだけれど。それでも思い出すだろうか」
解犁は目を伏せる。
「……それは分かりません」
私は小さく息を吐いた。それを聞いて、解犁はすみません、と一言添えた。
「いや、解犁が謝ることじゃない。ひとつ訊きたいんだけど」
「はい」
彼は顔を上げ、私を見る。
「私は、この国に住んでいたのか?」
「……はい」
少しだけ迷った末、解犁は頷いた。
私はここに住んでいた。だとすると、名前などを懐かしいと感じるのも頷ける。
けれど、何故忘れた?
何か忘れなければならなかったのか。
何を私は忘れているのか。それはとても重要なことな気がする。
「駄目だ……全然思い出せない。ここに住んでいたことも、思い出せない」
「そうですか……」
残念そうに解犁は俯いた。それきり黙ってしまったので、私も黙って馬車に揺られていた。
三十分くらい経っただろうか。馬車が停車し、男が着いたと言った。
私と解犁は馬車から出て、解犁が代金を払う。それを受け取って、馬車は遠ざかって行った。
「風諭の町は比較的豊かです。犁国の西の方に位置しています」
「壁があるけど、風車が見えるな。大きい」
目の前の壁は十メートル程あるが、中に風車がいくつかあり、それがゆっくりと回っているのが分かる。かなり大きい風車だろう。
「風諭は風力発電が主です。風車は五つ配置されています」
「へえ……日本では風力発電はあまりなかったな。そんなに発電力が高くなかったとかで」
「風諭は小さな町ですからね。人口もそう多くない」
言いながら、解犁は入り口だろう、門に向かって歩いて行く。
「これはこれは、神僚様。ようこそ風諭へ」
門番だろう、若い男が解犁を見るなり、ぱっと明るい顔で言った。
「宿屋は空いていますか」
「ええ、恐らく。ああそういえば、崇栄様もこちらに先ほど来られました」
「崇栄が?」
露骨に嫌な顔をしたのが、私にも分かった。
「はい。誰かに用があるのでしょうか。お上の方々が二人も来るなんて驚きです。……あ、開門しますね」
「私に用があるのでしょうね」
解犁が心底うんざりしたように呟いた。門番が閂を外すと、大きな扉がゆっくりと開いた。一言礼を言って、私達は中に入って行く。
風諭の街は、緑が点々とあった。風が所々にある植物を揺らす。人は多くなく、静かだ。門の近くには、数人が地面に座り、所在無さげに日陰に入っていた。
「あれらは逃民です」
「逃民?」
「税などが払えず、故郷を出てきたのでしょう。特に最近は不景気ですから」
「そうか……」
そんな彼らの前を通り過ぎるのは胸が痛んだ。
中央の広い道を通ると、店が何軒が立ち並んでいる。そこの一角に宿屋と書かれた看板があり、解犁はその店に入った。
「部屋は空いていますか」
入って右手側辺りの受付のようなところで解犁は言う。
私がそばにいても仕方がないので、周りを見渡した。
照明はオレンジ色で、優しい色で部屋を照らしている。格別広くはないが、二階がある。例えるなら普通の一軒家のようだった。かわいらしい青色の花が差してある。
「依怙様は本当に王なのか?」
と、嗄れた声が聞こえて、私は声のした方を振り向く。
「王だろう?でないと鳳犁宮に入れない」
男二人がソファに座り、そんな話をしていた。
「だが……災事が止まないし、政も滞っているだろう?実際、怪しくないか」
「馬鹿言え。神僚様だってお側にいる。それが何よりの証拠だろうが」
「……それもそうか」
男達はそれきり話を変えた。
何の話だろう。依怙というのは名だろうか。神僚様、というのはーーー。
「還殿」
唐突に声をかけられ、驚いて振り向いた。後ろには解犁が立っている。
「あ、ああ……ええと、部屋は空いていた?」
解犁は頷く。
「二階の奥の部屋です。行きましょう」
階段を上がり、奥へと進む。一番奥の部屋だった。扉を開けてみると、思っていたよりも広い。テラスのようなところが窓の外にあり、風諭の町や外が見渡せた。
「犁国や世界のことをお話ししましょうか」
荷を床に下ろしながら、解犁は言う。私は頼む、と窓際の椅子に腰掛けた。向かいに解犁も座る。小さなテーブルに、解犁は紙を広げた。
「まず犁国の他に国が四つあります。五つあるという噂もありますが、とりあえずは四つ。犁国の北西には莱国、北東に憐国。そして柳湖という大きな湖を挟んだ向こう岸には、莱国側に楼国。そして川を挟み、東側に流国があります」
言いながら、紙に書いていく。それを見ると、犁国が1番、面積が大きい。
「それぞれ国王、神子がいます。神子は一人、または二人」
「二人?」
「はい。天皇が決めるのです」
「天皇……ええと」
「言わば神、というところでしょうか」
「こちらではテンウ、と言うんだな、天皇と書いて。日本だとテンノウと読んだ」
神様ではないが、と言う。
「天皇は、この国々の創造主であり、また全国民の君主であります。直接関わることはほとんどありませんが、聡明なお方です」
「解犁は会ったことがあるのか」
「ええ、何度か。そもそも、私達神子をお作りになったのは天皇ですから」
ふうん、と頷く。解犁は天皇を尊敬しているようだ。
「それで、犁国の首都は北露。ここより北西の方角に位置します。そこには鳳犁宮と言う、王宮があります。そして犁国は、八つの区に分かれていて、それぞれの区に区長と言う、区の内の代表が決められています」
「県庁所在地みたいなものか」
「は?」
「いや、続けてくれ」
私は苦笑する。不思議そうに首を傾げながらも、解犁は続けた。
「風諭は草区の区長です。だから比較的豊か」
「ここは草区というのか」
「はい。采門という関所が風諭から南東にあるのですが、そこを越えると玉区、または北露がある陽区に行けます」
解犁は説明しながら紙に場所を書き足していくが、どうにも難しく、頭が混乱してきた。
「私達はこの後どうするんだ?」
地名などは追い追い覚えていけばいいだろうと思って、私は話題を転換する。
「北露に向かいたいところですが……まず北露の近くの町、約紡に向かいましょう」
「約紡?」
「知り合いがいますので」
そこに滞在するということだろう。北露の近くということは、采門とやらを越えるのか。
「なぜ北露に直接行かないんだ?」
「……それは……」
解犁は口ごもる。言えない理由があるのか。待ってみたが、喋る様子がない。私はひとつため息をつき、肩を竦める。
「言えないならいい」
「……すみません」
申し訳なさそうに頭を下げる。どうして言えないのだろう。そう思った時、さっきの男達の会話がふと脳裏に流れた。
「解犁。訊きたいんだが、依怙とは誰だ?」
依怙、と言う名前を聞いて、解犁は表情を固くする。
「どこでその名前を」
「下にいた男達が話していた」
解犁は深いため息をついた。
「どのような話を?」
「それはよく覚えてない。国王がどうとか」
「潮時か……」
「え?」
「いいえ、何でもありません。依怙殿は鳳犁宮にいます」
何でもない、と言った解犁は難しい顔をしていた。とても何でもないようには思えないが、踏み込んで欲しくないのかもしれない。それに、鳳犁宮ということは。
「国王……?」
「……ええ」
彼が頷くのを見て、違和感があった。王がいることが、疑問に感じた。
昔犁国にいたのなら、違和感を覚えることはない。昔も国王はいたはずなのだから。しかし何故だろう、おかしい、と思う。
ーーー鳳犁宮には王以外入れないはず。官吏や女官などを除いては。
「……え?」
不思議そうに呟いた私を、解犁は怪訝そうに見る。
「ああ、いや……。依怙とは本当に国王なのか?」
「……何故そのようなことを」
本当に怪訝そうな視線を私に向ける。私も自分で自分が何を言っているのか、分からない。ここの国民の解犁が言うのだから、嘘な訳がないというのに。
「……男達がそう言っていた。災事が止まないって」
焦って、弁解する。確か、男達もそう言っていた。
「もう少し、お待ち下さい。今は話せない……」
解犁は額に手を当て、言った。
「悪い。気になっただけだ」
と、謝った時、ふっと視線を上げた。視線は私を通り過ぎ、窓の外に向けられている。思わず私もその視線を追った。しかし窓の外には何もいない。
どうした、と問う前に解犁が席を立った。
「すみませんが、今日はここまでで」
「あ、うん。どうかしたのか?」
解犁は扉の方へ歩いて行く。
「呼ばれてしまいました。崇栄に」
「ええと、門番が言ってた」
「はい。行ってきますね。還殿は今日、ここで寝泊まりを。食事代も払ってありますので」
「解犁は?」
「私は今日は戻ってきません。明朝迎えに参ります。風諭から出なければ、宿から出ても構いませんから。少しの銭は置いておきますね」
彼はテーブルに小袋を置いてそれだけ言い残し、呼び止める暇もなく解犁は部屋から出て行ってしまった。
一人部屋に取り残された私は、何度目かになるため息をついた。まだ時刻は昼少し前。まさか一人にされるとは思ってもいなかったので、どうしようかと悩む。悩んだ末、私は立ち上がる。
解犁はたぶん、私が記憶を取り戻すのを望んでいる。ここに来た以上、私も目的もなくふらふらするなんて格好悪すぎる。思い出そう。そう決意した。
私は宿屋から出て、とりあえずは町の中央に向かおう。入り口とは反対方向に歩き出す。
「ーーーあの!」
大通りを少し進んだ時、後ろから唐突に声をかけられた。振り向けば、少女が立っている。
「あなたは……日国の方ですか?」