一
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聞いたこともない言語と、見たことのない景色。風が優しく吹く緑の丘の上に私は立っていた。生い茂った草が、足元で揺れている。
ふと後ろに気配を感じ、振り向くと、誰かが立っていた。何故だか、顔は影になっていて見ることが出来なかった。私には記憶にない背格好だった。
「帰りましょう」
男は言った。何故言葉の意味が分かるのか、私には分からず内心首を傾げたが、その時はただ頷いた。それが私の意思だったかどうか、曖昧だったけれど。
私は男と共に、歩き出した。
「永瀬さん」
唐突に声をかけられ、私はハッと我に返った。声の主は、隣の席の真山さんだった。
「もう直ぐ当てられるよ」
小声で彼女は言う。私はぼやけた頭で、今、授業中だということを思い出した。黒板にはいつの間にか字がびっしりと書かれている。
「次は……永瀬か」
真山さんの言った通り、すぐに私は当てられた。生憎授業は数学で、考えなければ分からない。これが英語や国語なら、もう少し楽だったのに。
「永瀬。問二」
「は、はい」
教科書を眺めつつ立ち上がる。混乱してしまって、答えが分からないままだ。
「9だよ」
「……9……です」
「正解」
私はほっと息をついて、座る。数学の教師は、厳しいことで有名だ。
「真山さん、ありがとう」
小声でお礼を言うと、彼女は優しく微笑んだ。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、号令が終わると、教室は喧騒に包まれた。もう昼休みである。私は席を立ち、当てもなく教室から出た。
最近よく、夢を見る。
私はどこか知らない場所に立っていて、傍らには影の男が立っている。暫く景色を見つめたまま夢が終わることもあれば、どこかへ歩いていたりすることもある。男の他にも、背の小さなーーー少年か少女かは分からないけれどーーーいたような時もあった気がする。
夢だと割り切ってしまえば、あれ程ファンタジーで、楽しい夢もないとは思うけども、どうにも感覚がリアルでそうは思えないのだ。
(それに……)
知らないはずの景色達が、懐かしいと感じる。
還りたい、と思う。
自分でも訳が分からない。とにかく、この頃憂鬱だ。
夢を思い出しながら、私はひとつ、息をつく。すると、ちらりと視界に光が入った。最初は窓か何かの光かと思ったが、何やらふわふわと、私の近くを飛んでいる。
え、と驚いてそれを目で追っていると、光は突然、廊下をすっと移動して行った。私は咄嗟に、それを追いかける。ほとんど無意識だった。
すれ違う人にぶつかりそうになりながら、私は廊下を、階段を駆ける。光は屋上へ向かっていた。扉をすり抜け、立ち入り禁止のはずの屋上に出て行ったそれを、私は見ていた。ここに来て入るかどうか、迷っていたのだ。
しばらく迷った末、私は息を整えて、恐る恐る扉を開けた。
果たしてそこには、見知らぬ男が立っていた。
黒い髪に、深海のような深い青の瞳。吸い込まれそうになって、息を飲む。右側に流した前髪で、片目は隠れている。服は西洋風な感じで、学校には、ましてや日本にはそぐわない。
「ーーー貴方か」
低めの声が響く。
「お探しした」
「……え?」
私を、探していた?
「覚えていらっしゃらないか。まあ、仕方ない」
「どういう意味?あなた、誰?」
混乱しつつ、私は男に尋ねる。
「申し遅れました。私は解犁、と申します」
解犁と名乗った男は頭を下げる。やはり何が何だか分からず、たじろいでしまう。
「ええと……私は、永瀬還己と」
「はい、存じ上げております。還殿」
解犁さんが私を『還』と呼ぶので、私は首を傾げてしまう。
「私……かこ、です」
もう一度ゆっくり言っても、彼は依然として呼び名を変えなかった。
「還殿」
「…………はい」
私は諦め、返事をした。呼び名よりも知りたいのは、この男が何なのかだった。唐突に現れた光球について行って、偶然こんな学校に不似合いな格好をした男が、しかも立ち入り禁止の場所に立っているなんてことは到底あり得ない。
「私と共に来て頂きたい」
「……え?」
一瞬耳を疑った。
見も知らぬ人と一緒に、どこへ。
「全てお忘れになっている貴方に突然言うのも申し訳ありませんが、時間がないのです」
「あの、どういう意味でしょうか」
「説明は後にさせてもらいたい」
でも、と言いかけた私を彼は遮る。
「貴方にしか出来ないことなのです。貴方が来ない限り、犁国は減衰していきます。……どうか」
犁国。
その言葉に私は何故か、懐かしい響きを感じた。同時に、焦燥感が湧いてきた。
「解犁さん」
「解犁で構いません」
「解……犁」
躊躇いつつも、そう呼んだ。彼は特に反応を示さなかったが、微かに微笑んだ気がした。
「犁国って、どこにあるんですか?」
「ここでは説明しにくいのですが。一言申し上げるとするなら、貴方がいる、こちらではない、ということです」
その説明に、私は益々首を傾げてしまう。こちらではない、などという説明で理解できる筈がない。
詳しく知るには、ここでは駄目なようだ。
「その……解犁さ……解犁が、言うこちら側から犁国に行ったら、私は帰ってこれますか?」
尋ねると、彼は少し悩むように目を伏せる。
「帰って来れないこともありませんが……」
言いにくいのだろうか、口を閉じてしまう。
「……帰って来れないんですね」
「……確実にそうだと言い切れません。向こうからこちらに来るのには、重大な理由もしくは莫大な費用がかかります故。ただ、私共のような者以外、こちらへ来た例はないかと」
何となく察してはいた答えと違ったけれど、戻ってくるのは簡単ではなさそうなのは間違いではないようだ。
解犁は私に向こう側である犁国という国へ来て欲しいと言った。私にしか出来ないことがある、と。だから私が嫌だと言いそうなことは言いにくかったのだろう。確かに、簡単には頷けない。犁国という国を見てみたい、という好奇心だけで行ってはいけない気がする。
「もう一度だけ、申し上げます。私と共に、犁国へ。どうか」
彼は手を差し出してくる。
私は迷った。この手を取ったらどうなるのだろう。
親は、友人は、私のことを知っている人達はーーー。突然私がいなくなって、何を思うだろう。何も思わないかもしれない。でも、両親は。
自問自答しているうちに、解犁は手を下ろす。
「決められませんか」
「…………はい」
ひとつ息をついて、彼は私に背を向ける。
引きとめようとした私を振り返って言った。
「明日、もう一度お訪ねします。私に無駄な時間はありませんから、次で最後です。決めておいてください」
「……はい」
「それと」
と、解犁は付け足す。
「犁国には貴方が必要だということは、念頭に置いてください。例え貴方が覚えている、いないに関わらず」
私はゆっくりと頷いた。それを見て、彼は視線を前に戻す。
ばさり、と何かが羽ばたくような音がして、唐突に突風が吹き、私は咄嗟に目をつぶる。怪訝に思って目を開けた時には、もう解犂の姿はなかった。




