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まっとうなコメディー

さつきのやまい

作者: 腹黒ツバメ


〈さつきのやまい〉



 日曜だからって、今朝は少し寝過ぎてしまった。

 枕元の時計が示す時刻は十時半、俺は寝ぼけ眼をこすって布団からのそりと這い出た。さすがに休日をずっと寝て過ごすのはもったいない。

 階下へ降りて、洗顔と歯磨きをちゃちゃっと済ます。

 それでもまだ眠気で意識が判然としないままリビングに入り――、

「お?」

 ぐにゃり、と。

 俺の右足がなにかを踏んだ。

 反射的に見下ろし――自分の胸中が暗鬱に曇っていくのを自覚する。つい溜息が出る。


 そこには、人間が倒れていた。


 服装は上下ともくたびれたジャージ、女の証として一応は起伏のある胸、そして下品な茶色に染められた寝癖だらけの髪の毛。

 これが双子の姉であることが、俺の人生で最大の汚点だ。

 アネキは、カーテンの隙間からこぼれる梅雨前の暖かな日差しを贅沢に浴びて、間の抜けた寝息を立てていた。

 恐らく一度は起きたものの、ここが存外に居心地よかったので二度寝したんだろう。はっきり言って邪魔だから、自分の部屋で寝てほしい。

「おい起きろアネキ。そんなとこいたら座れないだろ」

 さっき事故で踏んづけた太ももを軽く蹴りつける。しかし、我が不肖の姉は身体をもぞもぞと動かすだけで、一向に目を覚ます気配はなかった。何度か声を張ってみるが、同じことだ。


 ……この時期のアネキは、いつもこんな調子だ。


 五月生まれにちなんで親に沙津希(さつき)と命名されておきながら、こいつは毎年五月病を患っていた。あ、五月病といっても新生活がどうとかの深刻な類じゃない。まあ“春眠暁を覚えず”の延長みたいなもので――つまり眠くて面倒くさくて、なにもする気が起きないってだけ。

「あのさ。せっかくの日曜日なんだぞ? いつまで惰眠を貪ってるつもりだ」

「うん……あと五分……」

 とりあえず目覚めてはいるらしい。アネキの口から出たのは、世界一信用できない詐欺師の常套句。

 絶対に五分経っても起きないだろうし、俺は今すぐにどいてほしいのだ。俺は再び爪先で太ももをちょいちょいとをつつく。

「まったく見苦しいな。ケツ半分出てるぞ」

 蹴られた。

 いきなり風を切ったアネキの足裏が脛に直撃し、俺は激痛に崩れ落ちた。食いしばった歯の隙間から呻きが漏れる。

「どこ見てんだ変態! きもちわるっ」

 ジャージの腰回りを急いで持ち上げながら、アネキが蹲る俺に軽蔑の視線を突き刺してくる。少し頬が赤い。

 事実を指摘しただけでなんて理不尽な。恥ずかしがるなら最初からリビングで汚い尻を出すな。

 ……ともかく、アネキを起こすという目的は達成されたから是としよう。弟という存在は、姉の横暴には慣れているものだ。

「あーあ、(あきら)のお陰ですっかり目が覚めたよ、どうもありがとうね」

「そりゃよかった。とっとと顔洗ってこい」

 すこぶる嫌味な口調で俺の名前を呼びつけるアネキを軽くあしらう。五月の May から取った――親父が酒の席で考えたという、安直な名前。となりのトトロかよ。

 それにしても、今日は早く目覚めた方だ。この季節のアネキは、放っておくと十時間でも二十時間でも平気で眠り続ける。

 のたのたと、ペンギンみたいな歩き方で洗面所に向かう彼女の背中を眺め、深く深く嘆息する。

 ――俺は幼い頃から、この姉をあらゆる面で反面教師にしてきた。

 漢字テストで0点を取ったり、遊園地のメリーゴーランドから落っこちて骨を折ったり……そんなアネキの醜態を間近で見続けてきたのだから無理もない。

 今だってアネキは髪色も染めて夜遊びもして、すっかり不良少女になってしまった。一方俺は高校じゃ授業のサボタージュすら経験のない優等生で通っている。……成績はさほど変わらないけど。

 俺もまだ眠気が残っているのか、ぼんやりとそんなことを考えていると、

「……ん?」

 不意に、鏡に映った姉の手元が目に止まった。あいつが右手でシャコシャコと動かしている歯ブラシは――

「おい! それ俺のじゃねえか!」

 慌てて駆け寄り、緑色の歯ブラシを取り上げた。

 ここでは家族で別々の色の歯ブラシを使っていて、アネキのは橙色――どうすれば間違えるんだ!

「あ、ほへん」

 恐らく「ごめん」と言ったのだろう、口内を泡だらけにしたアネキは、あらためて自分用の歯ブラシを手に取って歯磨きを再開した。やっぱりまだ寝ぼけてるではないか。

「汚いな、もう……」

 俺は没収した緑の歯ブラシをゴミ箱に捨て、新品のラベルを破った。俺が見ていない間にも、何度かこんなことがあったんじゃないだろうな。

「どっと疲れた……。早く部屋に逃げよう……」

 朝からアネキの子守りなんて、それこそ休日の無駄遣いだ。

 ちなみに両親は今頃揃ってヨガ教室で踊りくねっているだろう、家にいるのは俺とアネキのふたりだけだ。

 俺は朝食代わりにと冷蔵庫のコーラを一本取って、小学生みたいに上向いてうがいをするアネキを尻目に、そそくさと自室へ向かった。




「ちょっと、明ぁー」

 部屋の扉がノックもなしに開かれたのは、朝の顛末から二時間ほど経ってからのことだった。

 PCの画面を注視していた俺は、慌ててブラウザを消しつつ振り向く。

「お、おい。勝手に入るなよ」

 至極真っ当な抗議を無視してずかずかと部屋に踏み入るアネキ。その胡乱な視線が俺を……いや、机に置かれた空のペットボトルに向けられた。

「おまえ、あたしのコーラ飲んだだろ」

「え」

 ぽろっと呆けた声が出る。

 確かに今朝、腹を膨らますために一本飲んだが……

「いやいや、あれはお袋が買い置きしてる奴じゃん。別にアネキのものじゃなくね?」

「昨日の夜から決めてたの! あたしが今日の朝飯の代わりにするって!」

「知ったことか!」

 至近距離で唾を飛ばし合う。が、次第にアネキの剣幕に負け、俺の言葉尻は下がっていく。いつもの姉弟喧嘩のパターンだ。

 とりあえず、この口論に勝利を収めるのは諦めよう。

「……で、新しいやつを買ってこいって言うのか? 嫌だよ、もう昼になるし我慢しろよ」

 意識を切り換えて、なんとか説得を試みる。どうせ使い走りにして(俺の自腹で)買わせる気だろう、それはごめんだ。優雅な正午を過ごす弟を奴隷同然に扱うなんて、今さらだけど姉失格だ。

 語気を抑えながらもはっきりと拒絶の意志を示す俺に、アネキは唇を三日月形に歪ませて――


「世間知らずで田舎者な巨乳娘」


 ぼそり、と呟いた。

 唐突なそのひと言に、俺の背筋が凍りつく。

 さりげなく視線を横に向けるが、そこにあるのは当たり障りないPCのデスクトップ画面。確かに証拠は――さっきまで閲覧していたサイトは隠しているはずだ。

 じゃあ、ドアを開ける一瞬でそこまで見ていたって言うのか!

 全身から汗が噴き出す。白い珠肌とか谷間とかそういったものが走馬灯のように脳裏をよぎる。

 ……言いわけをさせてほしい。

 えー、本日は晴天なり。お天道さまが大地を燦々と照らす日曜日、国民の休日。俺だって健全な男子高校生なのだから、有意義な時間の使い方として、日頃の生活で溜まった鬱憤を発散しようと考えるのは至極正常なはずだ。そして、毎日のようにこの不良寸胴女と顔を合わせていれば、アレの方向性がそっちに偏ってしまうのも致し方ないというか……

 ――つまり、誰にだって特殊な性癖のひとつやふたつあるってことだ!

 そうだ、俺は愚姉の脅しには屈しない。自身の性的嗜好を恥じるのは間違っている、他人にそれを知られようが構わないと――

「ずいぶんと高尚なご趣味をしてることで。ママに教えてあげたら喜ぶかなぁ」

「うおおぉ待て落ち着け! 考え直してくれ! コーラ程度いくらでも買ってきてやるから!」

 俺は即座に膝をつき、アネキの足に縋りついた。土下座みたいな姿勢で額を床に擦りつける。

 親にまで俺の性癖が暴露されたら、もう今晩の食卓には顔を出せない。きっと母はそれ自体には一切触れず、ただ俺の大好物を作るのだ。そして父からは感慨深そうな眼差しとともに、優しく肩を叩かれる……そんな状況は耐えられない!

 と、最悪の事態を胸中に思い描いていると――

「ばーか」

 無様に懇願する俺の後頭部に、ぽんと軽い衝撃。

 見上げると、醒めきった半眼で俺を眺めるアネキと視線が交錯した。

「失礼ね。誰があんたをパシリにするなんて言ったのよ」

「……え?」

 さも心外だと言うような台詞に、意図せず首を傾げてしまう。

 そうじゃないなら、アネキは一体なにが目的で俺の部屋に押しかけたのか。そして、なぜ俺に甚大な心的外傷を負わせたのか。

 続けられたアネキの言葉でその疑問は解消したが、とても納得はできなかった。

「今からコンビニいくから、一緒にきて」




 要するに、コーラを買いにいく道中の退屈しのぎについてこい、ということか。

 なかば強引に連れられ、俺は重い足取りで自宅を出た。

 存在が恥ずかしいアネキとこうして肩を並べて出かけるなんて羞恥の極みで、これならパシリの方が幾分かマシだったかもしれない。

「そういやアネキ、寝癖直ってないぞ」

「は!? どこ……?」

「右っかわの――うん、そこ」

「マジだ……先に言え馬鹿!」

「痛って! 殴んな阿呆!」

 そんな会話をしているうちにコンビニへ到着した。徒歩で五分もしない距離。本当に俺は必要だったのか……

「じゃ買ってくる」

「え? 俺、外で待ってんの?」

「当たり前じゃん。弟とお会計なんて恥ずかしいし」

 確かにそうだ、と納得しかけたが……いや街中を連れ立って歩く方が恥ずかしいだろ。アネキの羞恥心の基準がわからない。

 とはいえ、もう逆らう気力はないし意味もない。俺は店内に入るアネキの背中を見送り、自分は壁沿いの日陰に移動した。

 どうせ雑誌でも立ち読みしてすぐには戻ってこないんだろうな……。今日何度目かもわからない溜息を零していると、

「よぉ兄ちゃん、ちょっといいかい?」

 不意に誰かの声が鼓膜に届いた。

 柄の悪い声音、まさか自分を呼んでいるとは思わなかったが反射で声の方向に顔を向ける。

 ――しばし開いた口が塞がらなかった。


 そこには、同年代くらいの妙ちくりんな男が三人、不敵に仁王立っていた。


 真っ先に目線がいくのは髪型。陽光を浴びてぎらつく禿げ頭に、べらぼうに長いリーゼント、そしてなんだかよくわからない孔雀みたいに八方に広がった七色の髪。その全員が膝まで裾の伸びた学ランを羽織っていた。もう五月だっていうのにあれは暑そうだ。いかにも昭和の不良っぽい出で立ちの三人組。

「えっと……なんですか?」

 生憎と俺はアネキの友達が似たような人種なので、こういった手合いは見慣れている。まあ、こんなズッコケ三人組の没案みたいな集団はなかなか希少だけど。

 なので物怖じせずに尋ねると、先頭のハゲがやたらと間延びした口調で話し出した。

「いやぁーちょっとさぁー、俺たちー財布どっかに落としちゃったみたいでー、できればー、二百円くらい恵んでくれないかなー」

 ……うわ、小さい。

 大体予想通りの反応だが、もっと派手に請求してくると思ったので拍子抜けだ。なんだろう、みんなで駄菓子でも買うのかな。

 ――だが、たかが二百円されど二百円。

 こんな連中にすごすごとお金を渡すのも癪だ、アネキが戻ってきても面倒だし、ここは適当に誤魔化して退散願おう。

「すいません、実は僕も持ち合わせがないんですよー」

「ん? マジか?」

「そりゃマジですよマジ」

 彼らに合わせて軽薄な口調で出まかせを言う。決して頭の回転が速そうではない彼らはまんまと騙されて、苦虫を噛み潰したような表情になった。

「親分、こいつ金持ってないみたいですけど、どうしましょう」

 リーゼントが後ろの孔雀に小声で話しているが、丸聞こえだ。

 どうやら首領らしい彼が重々しく頷く。それだけで意思疎通は済んだらしく、俺の方に向き直ったリーゼントは、何事もなかったように言った。

「ならいいんだ、邪魔したな」

「いえいえ、さよならー」

 最後まで穏便に、刺激しないようにと右手を振って不良たちに別れを告げる。

 瞬間、彼らの視線が俺に殺到した。

「え? な、なんすか?」

 あまりに唐突だったので困惑してしまう。まさしく目を点にした連中が注目する先、俺の右手を確認し――あ。


 そこには、愛用の財布がしっかりと握られていた!


 ――なんで……!?

 疑問に思ったのも束の間、アネキが店に入る直前に小銭を貸せとか言ってきたのを思い出す。あの後からずっと財布を手に持っていたのか。

「てめぇ、俺らを舐めてんのか……?」

「そそそんな滅相もない!」

 必死に否定するが、なにせ右手に財布を握り締めながら「持ち合わせがない」などと嘘八百を並べていたのだ、そう思われても仕方がない。

 三人組は顔を真っ赤にして俺を睨んでいる。いくらなんでも短気すぎないか。

 困惑から一転、焦燥で胸が埋まる。俺は生まれてこの方、殴り合いの喧嘩なんてしたことがない。どうする、土下座して全財産を差し出すか、それとも走って逃げるか――そんな弱腰な思考ばかりが空回りして、身体はまるで動かない。

「クソがぁ!」

 顔面を茹でダコみたいに真っ赤にしたハゲが、思い切り拳を振りかぶる。俺は恐怖に思わず瞼を固く閉じ――


「きゃーーー! 痴漢よーーー!」


 女性の金切り声が、一帯に響き渡った。

 この場にいる全員が仰天して大音声の主を探し、視線をさ迷わせる。

 と、不良たちの背後に女の影はあった。そこに立っていたのは、他でもない、

「どーも、弟がお世話になってまーす」

 口元に不気味な薄ら笑いを浮かべたアネキだった。

 緊張感のない口調に毒気を抜かれたか、脱力している不良たちに、買い物袋を提げたアネキが人差し指を突きつける。

「さて……もうすぐお巡りさんがくるけど、とっても恥ずかしい性犯罪者になりたいのは誰かな?」

 わかりやすい脅迫だ。それも、こんなみみっちい不良連中よりもよっぽど悪質な。

 三人の頬が引き攣る。孔雀の羽が揺れる。不良って警察に捕まってもそれを自慢話にでもしそうなものだが……さすがに痴漢容疑は嫌なんだろうな。彼らは慌てて踵を返した。

「お、覚えてやがれ!」

 最後までありきたりな捨て台詞で逃げ去っていく不良たちの背中を、俺は呆然と眺めるしかできなかった。

 しばし無言の時間を過ごし、ようやく落ち着いたのでアネキに向き直る。

「と、とりあえず助かったよ……」

「ずいぶん変なのに絡まれたね。明、弱いんだから気をつけろよ」

 コーラを呷りながら平然と答えるアネキ。この姉に感謝するなんて、もう何年振りだろう。小馬鹿にするような言葉にも、今はぐうの音も出ない。

 そこで、コンビニの出入口の方から青い制服のオジサンが姿を現した。警察官だ。

「痴漢と聞いてきたんですが、どうしました?」

 いきなり質問する彼の後ろには、OLさんらしき女性が控えている。きっと彼女が通報してくれたんだろう。

 ――しかし、どう説明すればいいんだ……?

 腕組みをして悩んでいると、アネキがおもむろに俺の腕を掴み、

「こいつがお尻触りました」

「なにぃ!?」




「まったく、酷い目に遭った……」

 結局俺は無実の罪を晴らすため、わざわざ家に戻ってアネキ共々学生証の提示をする羽目になった。

 その間ずっと警官(とOLさん)の疑念や侮蔑に満ちた視線を背中に浴びて。

 最後には悪戯心で周りを巻き込んで騒がせたとして、ふたり揃って厳重注意。名前も知らないオジサンに叱られるなんて生まれて初めてだ――身体以上に精神が参ってしまった。

 どれもこれもアネキがふざけて余計なことを言うからだ。

 ……みたいな文句を、自宅のリビングで愚痴愚痴と吐き出す。が、当人のはずのアネキはちっとも聞いちゃいなかった。

「そしたらアネキだって痴漢の家族になっちゃうわけだぞ? しかも近親相姦の変態野郎ってレッテルのおまけつきだ。それでいいのか?」

「なんか大変そうだね」

「おまえの話だよ!」

 まるで他人事でコーラを傾けるアネキに、もう説教する気概も削がれてしまった。これは何度言っても無駄だ。

 冷たいテーブルに突っ伏して、腹の奥底から溜息を吐き出す。

「はぁ……今日は厄日だ……」

 思い返せば、本当に面倒事ばかりの一日だった。貴重な休日が台無しだ。

 その諸悪の根源である馬鹿女は、血を分けた弟の気苦労など微塵も興味がないらしく、意地悪な笑顔で語りかける。

「それにしても、あの腰抜けっぷりには笑ったね」

「…………」

「嫌そうな顔しないでよ、明のことじゃないし。あの変な髪型の連中よ」

 ああ、そっちか。てっきり俺を率直に罵倒しているのかと思ったので、少し安心する。いや自分が情けなかったのは否定しないけど。

 が、蒸し返したい話題でもないので無視を決め込むことにした。それでもアネキは一方的に話し込み――

 そして続けられた言葉に、呼吸が止まる。

「でも、あいつらも運がよかったね。あたしが五月病でなければ、サツなんて呼ばずに一発ぶん殴ってやったのに――」

「そういうときは――」

 意図せず声が喉から飛び出し、アネキの言葉を遮った。

 俺の意識とは別の場所が勝手に考え、勝手に声帯を震わせる。

 不思議な衝動に尻を叩かれ、俺は決然と呟いた。

「――喧嘩するときは俺を呼べよ。アネキの代わりに、俺が殴ってやる」

 自分でも馬鹿げたことを言っていると思った。

 今日だって不良相手に怯えてばかりで、結局アネキに助けられた弱虫が、なにを生意気な。

 だけど気持ちだけは、本気で誰かに拳をぶつけられそうで。

 俺の胸を支配するこの激情は、きっと男の意地とか弟の虚勢とか、そういう普段から溜め込んできた感情の詰め合わせだ。

 俺はずっと昔からアネキを反面教師にしてきて、阿呆な真似をする様子を間近で見てきて、こいつには俺が隣にいないと駄目だと思っていて――


 ――だから、守られてばかりの自分に嫌気が差して。


 茶髪に染めて悪そうな友達とつるんでいるアネキのことだ、どうせ俺よりよっぽど喧嘩慣れしているんだろうけど。俺だって誰かを殴るなんて怖いけど。

 アネキが危険に首を突っ込むのを無視するなんて、あまりにも格好悪すぎる。

 子供じみた屁理屈でもいい。俺だって頼りがいがあるところを見せてやりたいんだ。

 真正面から訴えかける俺を、アネキはしばし瞠目して見つめ――

「ぷっ」

 ――噴き出した。

「あっははは! そんな真に受けるなよ、冗談に決まってるじゃん!」

 自分とのあまりの温度差に呆気に取られてしまう俺を指差して、アネキは腹の奥底から笑っていた。

 空気を読むという人間としての必須スキルを未修得のこいつは猿みたいに甲高い声で笑い散らかし、唾とかコーラの飛沫とかを飛ばして俺の肩をばしばしと叩く。

「なにいきなり格好つけてんの? 馬鹿じゃないの?」

「あ、あのな! 俺は真剣に――」

「わかってるよ、真面目な顔してたもん! もー笑い死ぬ!」

 あああああ本当に死んでしまえ! 笑い過ぎて呼吸困難でぶっ倒れても、絶対に救急車なんて呼んでやるか!

 恥辱や怒りで耳まで赤くした俺は、アネキに背中を向けて蹲った。もう嫌だ、こいつとは一生関わりたくない。

「あたしだって喧嘩したことないよ。人を殴るなんて怖くてできないし」

 気づくと、笑い声の雨は止んでいた。アネキは言いながら俺の後頭部を乱暴に撫でる。不意打ちの感触に、俺の両肩がびくんと跳ねる。

 そして、似合わない優しげな声音でアネキが囁いた。


「……あたしもしないからさ。明も、人は殴るな」


 その、さっきの俺以上にまっすぐな言葉に。

「……うん」

 ただ、素直に頷くしかできなかった。

 なんだよ……今さら立派な姉みたいなことを言いやがって。

 普段はすこぶるいい加減で、能無しの弟にも見下されるようなロクデナシの癖に。馬鹿の癖に、間抜けの癖に。

「うむ、よろしい」

 俯く俺の背後で、アネキが満足げに頷くのがわかった。

 ――ああ、これはきっと五月病だ。

 そうだ。五月のあったかい空気のせいで、脳みそや左胸のなんかが溶けているんだ。

 くしゃくしゃに頭を撫でられて緩む口元を自覚しながら、俺はそんなことを考えていた。







 読んでいただきありがとうございます!


 実を言うと私、これまでずっと“五月病”の意味を勘違いしていまして。

 てっきり、温暖な気候のせいで自堕落に過ごしてしまうことかと。

 そのせいでこの時期は毎年「うわー俺マジで五月病だわ、っべーわ」とか言っていました。恥ずかし。

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