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聖女のナナメ後ろにいるメイド

作者: 詩永あえし
掲載日:2026/03/27

たくさんの反応をいただきありがとうございます。

お礼を兼ねてもう一つ書かせていただきました。よろしければ是非とも。


続編:続・聖女のナナメ後ろにいるメイド

https://ncode.syosetu.com/n5121lz/


連載版はじめました。

【連載版】聖女のナナメ後ろにいるメイド

https://ncode.syosetu.com/n7076ma/

 私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。


 右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。

 この位置には意味がある。

 聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。


 周囲からはただのメイドが控えているだけに見えるが、聖女様からすれば「ちょっと相談できる距離」にいる。

 自分で言うのもなんだが、絶妙な立ち位置だと思う。

 修道女シスターではなく『メイド』であることの利点だ。


「ノエル」


 聖女様が小声で呼ぶ。


 大教会の応接間。

 聖女様の前には三名の街の有力者が並び、それぞれが「教会の誇り高き活動にぜひ貢献したく」だのなんだのと言っている。

 要約すると、来月開かれる子供たちのための星祭りで、誰が一番目立つメインスポンサーの座に就くかを聖女の裁定で決めてくれ、という話だ。


「ノエル、ノエル」


 もう少し小さい声でお願いしたい。

 私は半歩だけ前に出て、聖女様の耳元に口を寄せた。


「いかがなさいましたか」

「三人とも『子供たちのため』って言ってるけど、本当に子供のためなのは誰?」


 聖女様は本日も直球である。

 私は視線だけで三人の大人たちを観察した。


 左端の小商会主トッペルは、指先が震えている。

 中央の新興商人ドンケルは、懐中時計を頻繁に見ている。

 右端の老舗織物問屋のマチルダ夫人は、目が据わっている。


「右の方です」

「理由は?」

「あの方は怒っています。おそらく他の二人の見え透いた下心がおよそ子供のためではないことに気づき、本気で腹を立てている。ただ、怒りに任せて口を塞ごうとしているので、この場の空気をまとめる味方にはなりにくいかと」

「真ん中は?」

「懐中時計を頻繁に見ています。結果に焦っているのではなく、この『茶番』が早く終わらないかと思っているのです。つまりすでに教会の運営委員に根回しが済んでいて、その後の祝賀会のことしか頭にないのでしょう」

「左は?」

「指が震えています。あそこの商会は最近資金繰りが悪化しています。ここで教会の名に連なって『篤志家とくしか』としての信用を回復しないと夜逃げ寸前なのでしょう。ただ保身に必死なだけです」


 聖女様は小さくうなずいた。


「——三方とも子供たちを思うお気持ちはよくわかりました」


 聖女様がにっこりと微笑み、前を向いた。

 ここからが聖女様のお仕事である。

 そして、聖女様が最もミスをしやすい瞬間でもある。


「お祭りは皆で作り上げるものです。ですから——」


 ここで聖女様がわずかに首を傾けた。

 目が合う。

 私は口パクで伝えた。


『得意分野で』


 聖女様はぱちりと瞬きして、前を向き直す。


「——ですから、皆様の『得意分野』で奉仕していただきましょう。特権を奪い合うのではなく、適材適所で分かち合うのです。まずは一番余力のある商会様から」


 三人の有力者がざわめいた。

 中央のドンケルの目に、かすかな動揺が走る。


「聖女様、それは……具体的には、どなたにどんなお役目を?」

「私が決めます」


 聖女様は穏やかに、きっぱりと言った。


「それが聖女の仕事ですから」


 ——うん。そこは言わなくてよかった。


 役割の裁定権を明確にしてしまうと、運営委員の老人たちが越権行為だと騒ぐのだ。

 聖女はあくまで「祈りを捧げる象徴」であって「実務を取り仕切る者」ではない、というのが教会の公式見解である。


 でも、いい。

 この程度なら後で、ドンケルの名前の下に一番お金と労力がかかって全く目立たない『裏方の警備とゴミの処理責任者』という名誉職を配置した同意書を一枚書けばどうにかなる。

 聖女様の言葉は、いつも少しだけ踏み込みすぎる。


 しかし、その「踏み込みすぎ」が、この人が聖女たるゆえんだと、私は思っている。


 ***


 応接間での面会が終わった。

 聖女様の私室に戻ると、彼女は応接間の立派な椅子とは比べものにならないほど嬉しそうにソファに倒れ込んだ。


「つっかれたーーー!」


 この方が聖女様である。

 私室に戻ってひとりの女性へと戻ると、途端に見えない重圧から解放され、響きが柔らかなものへと変わる。

 口調の切り替わりこそが、彼女が素に戻った合図だ。


「お疲れ様でございます。お茶をお持ちしますか」

「ノエルも座って。一緒に飲もう」

「私はメイドですので」

「ワタシが座れって言ってるんだから、カミサマの言葉だと思って座りなさい」


 神の言葉をそんなことに使わないでほしい。


 だが、聖女様は一度こう言い出すと絶対に引かないので、私は向かいの椅子に浅く腰かけた。

 深く座ると立ち上がるのにコンマ数秒、余計にかかる。

 いざという時に困るので、浅く。


「ノエル、今日のワタシはどうだった?」

「大変ご立派でした」

「嘘。ノエルのその顔は、何か言いたいことがある顔」


 私は表情を変えていないはずだが、この人だけは何故か読み取る。


「……最後の『私が決めます』は、少々踏み込みすぎかと。委員の皆様への報告書を一通ご用意いたします」

「あー、やっぱり?でもあの場では言わないとダメだったと思うの」

「はい。あの場では正解でした。ですので、事後処理で調整します」

「事後処理って言い方が怖い!」


 お茶を淹れる。

 聖女様には甘い花茶。

 私はこっそり厨房からもらってきた昨日の焼き菓子の端っこをエプロンのポケットから出す。


「それどこから出したの?」

「ポケットです」

「メイド服のポケットからお菓子出てくるのって、普通じゃないからね?」


 少なくとも、私にとっては普通である。

 聖女様はくすくす笑いながらお茶を啜り、ふと窓の外を見た。


「今日の空、すごく高かったの。面会中もずっと窓から見てた」

「聖女様。面会中は面会に集中してください」

「だってノエルが『巻雲が出たら翌日は崩れる』って教えてくれたから、気になっちゃって」


 ——教えたのは事実だが、それを面会中に実践しないでほしい。

 聖女様はふと真顔になった。


「ねえ、ノエル。今日のトッペルさん、本当に夜逃げ寸前だったの?」

「はい。それだけではありません。あの方の商会は先月の取引で大損を出し、多くの仕入れ金を滞納しています。このままでは従業員が路頭に迷います。事前に調べてあります」

「……事前に調べてあるんだ」

「聖女様の前に出る方の情報は、できる限り」


 聖女様は何か言いたそうに口を開いて、閉じて、もう一度開いた。


「ノエルって本当にすごいよね」

「いいえ。私はただ——」

「『聖女様のお言葉が素晴らしいだけです』でしょ。知ってる。いつもそう言う」


 そのとおりなので、私は黙ってお菓子をかじった。

 聖女様はじっと私を見て、それから窓の外に目をやった。


「ワタシね、あなたを拾ったときのこと覚えてる」

「——拾ったという表現はやめていただきたいのですが」

「だって実際そうじゃない。教会の裏口で雨に濡れて倒れてたんだから」


 否定できない。事実である。

 孤児院を追い出され、行く当てもなく教会の裏口で意識を失った私を見つけたのが、当時就任したばかりの聖女様だった。

 あの時、聖女様は私を見て最初に何と言ったか。


「『あなた、すごくいい目をしてる』って言ったの覚えてる?」

「覚えていますが、正直あの時の私は意識が朦朧としていたので、聖女様の顔がぼやけて見えただけです」

「うん、知ってる。でもあの目が良かったの。濡れた子猫みたいだったけど、全然諦めてない目だった」


 私は確実に諦めていた。

 あの時の記憶があるなら、あれは「諦めてない目」ではなく「もうどうにでもなれの目」である。

 だが、聖女様の中では美化されているらしいので、訂正はしないでおく。


 聖女様の言葉は、ときどき事実と違う。

 でも、不思議と嘘ではないのだ。


 ***


 翌日、問題が起きた。


 王都にある権威と歴史を誇る大教会から、聖女様宛に親書が届いた。

 表向きは「同胞としての友好の書簡」である。


 悪質な手紙を弾くのもメイドの仕事だ。

 私は聖女様より先にこれを開封し、内容を確認する権限をいただいている。


 便箋は三枚。流麗な筆致で綴られた社交辞令が並ぶ。


 一枚目。友好の挨拶。問題ない。

 二枚目。我々の教会を祝う言葉。問題ない。

 三枚目。


「——星祭りにおける聖女様のご熱心なお働きに、深く感銘を受けました。つきましては我が教会の高名な聖職者たちと、合同で大規模な救済の儀式を開催いたしたく——資金はこちらで全額負担いたしますゆえ——」


 早い。

 星祭りのスポンサー裁定が、もう王都の大教会に伝わっている。

 しかもこの書き方は巧妙だ。


「資金向こう持ちでの合同開催」は一見すると善意だが、受け取れば大教会側の傲慢な聖職者たちが街に大挙して入り込んでくることになる。

 こちらの聖女様を『美しく健気な客寄せパンダ』として使い、信者たちからの賞賛と寄付金は王都側が根こそぎ持っていく腹積もりだ。

 そして後片付けと疲労だけがこちらに残る。


 断れば「あの聖女は、救済の機会よりも自分の教会の体面を重んじる狭量な人間だ」と言われる。


 どちらに転んでも損をする。

 いわゆるやりがい搾取の毒饅頭である。


 お見事。

 三枚の便箋に毒を仕込むとは、なかなかの手際だ。


「ノエル、お手紙来てたんだって?見せて見せて」


 聖女様が軽い足取りで入ってきた。


「聖女様。こちらの書簡ですが、お読みになる前にひとつ」

「うん?」

「これはお断りになるべきです。ただし、断り方に工夫が要ります」


 聖女様はソファに座り、便箋を受け取って読み始めた。

 読み終わるまでに要した時間、約二分。


「……資金向こう持ちで一緒に儀式をしてくれるなら、やればよくない?」


 来た。

 聖女様の「巧妙な下心を善意として受け取る」癖である。

 この人の美点であり、同時に最大の隙でもある。


「聖女様。この親書は三つの罠を含んでいます」

「三つも?」

「はい。一つ目は今申し上げた通り、受ければ聖女様が客寄せとしてこき使われ、教会の名声を王都に吸い取られます。二つ目、断れば『救済の規模を出し渋った』と悪評を流されます。三つ目——」


 私は三枚目の便箋の末尾を指した。


「ここです。『お返事をお待ちしております』の後に、日付の指定がありません」

「それが罠なの?」

「日付がないということは、『いつまでも待つ』という意味です。つまり聖女様が返事を保留している間、『王都の救済申し出をご検討中である』と触れ回られます。それだけで向こうの宣伝用交渉カードになります」


 聖女様は眉を寄せて、もう一度便箋を見た。


「……ノエル、ワタシもこういうの読めるようになりたい」

「聖女様はお読みにならなくて結構です。それは私の仕事です」

「でも——」

「聖女様のお仕事は、神に祈りを捧げること、人々に笑いかけることです。汚い泥に触るのは私の仕事です」


 聖女様がむっとした顔をした。

 この表情が出ると、少し面倒なことになる。

 教会関係者と同じことを口にしているのだから、仕方のない話であるが。


「ノエル。ワタシはあなたに泥を触らせるために一緒にいてもらってるんじゃないの」

「承知しております」

「承知してない顔してる」


 この人は本当に私の表情に関する読解精度だけ、異常に高い。


「——では聖女様。返書の下書きをお持ちしますので、ご確認いただけますか」

「ノエルが書くの?」

「はい。聖女様のお言葉遣いに寄せて書きます」

「前にも思ったけど、ノエルが書く『私の言葉遣い』って、ワタシより私っぽいよね」


 それは褒められているのだろうか。

 よくわからないので、とりあえず一礼して退室した。


 ***


 自室——というほど立派なものではない、メイド用の小部屋——に戻り、机に向かう。


 ペンを取り、便箋を広げる。

 書き出しはこうだ。


「王都の大教会の皆様の温かいお心遣いに、深く感謝いたします」


 まず感謝。これは絶対に必要だ。

 断るにしても、相手の顔を立てて逃げ道を作らなければならない。


「大規模な救済の件につきましては、まさに神の導きにより——」


 ここで「神の導き」を入れる。

 聖女がいま忙しい理由を「個人の都合」ではなく「神の御心」の枠に戻すためだ。

 こうすれば、合同儀式を断る理由が「スケジュール」ではなく「神慮」になる。

 教会の人間同士の政治的な駆け引きではなく、信仰の問題にすり替えられる。


「——まずは我が街で現在苦しんでいる小さな子供たちに、直接その手で光を届けることが、今の私に課せられた神のご意志に適うものと存じます」


「我が街で今現在苦しんでいる」。これで壮大な事業ではなく目の前の個別対応を重んじることを示し、暗に手伝いをやんわりと拒否する。


「皆様の崇高な救済の理念には深い敬意を抱いております。いずれ互いの手の届かない層を補い合う日が参りましたならば、その折にはぜひ」


「いずれ」「その折には」で、未来に含みを持たせる。

 完全に断ったわけではない、という体裁を残す。

 これで相手も振り上げた拳を下ろしやすい。


 最後に日付。

 返書にはきっちりと日付を入れる。

 これで「保留状態」のカードを無効化する。


 書き終えた。

 読み返す。


 ——うん。聖女様っぽい。


 少しだけ、聖女様よりも丁寧すぎるかもしれない。

 聖女様ならもう少しくだけた言い回しをするだろう。

 でも角の立たない文書としてはこのくらいがちょうどいい。


 明日、聖女様に見せれば「これでいい!」と即決するだろう。

 あの人は私の下書きをほとんど直さない。

 たまに「ここ、もう少し優しい言い方にできない?」と言うくらいだ。


 そして、その「もう少し優しく」が、毎回正しいのだから困る。

 大人の思惑と言葉の技巧なら、私のほうが聖女様より詳しい。

 でも、人の心に届く言葉に関しては、聖女様には敵わない。


 それでいいのだ。


 聖女様が太陽で、私は日傘。

 ——いや。日傘は横にいる。


 私はナナメ後ろだ。

 太陽の光がまぶしすぎるときに、そっと陰りを作る程度の存在。

 それくらいが、ちょうどいい。


 ***


 翌朝。


 返書の下書きを持って聖女様の部屋を訪ねると、ソファで寝ていた。

 ベッドがあるのにソファで寝るのは、聖女様の悪癖のひとつだ。

 昨夜も遅くまで、信者からの個人的な人生相談の手紙を読んでいたのだろう。


 あの人はみんなのことを知りたいと言って、届く手紙を全部読もうとする。

 嫌がらせの手紙は私が弾いている、と何度言っても聞かない。


「聖女様。朝でございます」

「……ん」

「朝です」

「……あと五分」

「五分後にもう一度参ります」

「……嘘。ノエルの五分はだいたい三分」


 正確には二分半だが、指摘が鋭いので何も言わずに退室した。

 二分半後に戻ると、聖女様は上体だけ起こして髪がすごいことになっていた。


「……おはよ、ノエル」

「おはようございます、聖女様。本日は午前に信者代表の面会、午後に孤児院への慰問がございます。あと髪がすごいことになっています」

「鏡見せないでよぉ」


 見せていないが、窓に映っている。

 聖女様は毛量が多いせいで、毎朝の寝癖はさながら見事な綿毛だ。

 これを丁寧に梳かし、正面から見てもわかるほど高い位置で、ボリュームたっぷりのポニーテールにまとめ上げる。


 結び目のてっぺん部分がふんわりと立ち上がるこの完璧な仕上がりが、私は密かに大好きだった。

 髪を整え終えた聖女様が、窓の外をちらりと見る。


「今日は晴れる?」

「朝焼けが出ていないので、崩れません」

「よかった。慰問があるもんね」


 毎朝のこのやりとりが、いつからか二人の日課になっていた。

 髪を整え、着替えを手伝い、朝食を運び、その合間に返書を見せた。

 聖女様は焼きたてのパンをくわえたまま読み終えると——。


「——あ、ここだけ」


 指差したのは、「皆様の崇高な救済の理念には深い敬意を抱いております」の一文。


「ここ、『深い敬意を抱いております』じゃなくて、『心から素晴らしく思います』にしたい」

「……聖女様。書簡としては格調が——」

「いいの。だって本当にそう思ってるんだもの。王都の教会の救済事業自体は本当にすごいって資料に書いてあったし。罠は罠として断るけど、活動自体を褒めるのは嘘じゃないでしょう?」


 また、これだ。


「……承知いたしました。そのように修正します」

「ありがとう、ノエル」


 何度でも言うが、聖女様の「もう少し優しく」は、毎回正しい結果を生み出していた。

「深い敬意を抱いております」は定型文で、つまりは空文からもんだ。

 誰もその言葉を本気だとは思わない。


 でも「心から素晴らしく思います」は、聖女の言葉として読めば、本気の響きを持つ。

 断りの手紙の中に、一箇所だけ本音を入れる。

 それだけで手紙全体の印象が変わる。冷たい拒絶ではなく、惜しみながらの辞退になる。


 これは技巧ではない。聖女様は技巧として言っていない。

 ただ本当にそう思っているだけだ。

 なのに結果的に、最上のお断り文になる。


 ——やはり、この人の言葉の勘は、ちょっとおかしい。


 ***


 午後。街の保護施設への慰問。


 聖女様はこの行事が好きだ。

 子供たちに囲まれると、大人のしがらみを全部忘れて、ただのお姉さんに戻る。

 私はナナメ後ろで、聖女様が子供に配るお菓子の袋を持って立っている。


 ある女の子が、聖女様の足元に駆け寄ってきた。


「聖女さま、聖女さま!あたし、字がよめるようになったの!」

「本当?すごいじゃない!何が読めるようになったの?」

「えっとね、——『ひかり』!」

「一番いい言葉を覚えたわね!」


 聖女様が屈んで女の子の頭を撫でる。

 この光景を見るたびに、私は過去を思い出す。

 自分もああだった。


 字が読めるようになったとき、嬉しくて誰かに言いたかった。

 でも、私がいた劣悪な孤児院には褒めてくれる大人はいなかった。

「下働きの分際で生意気だ」と殴られ、最後には追い出された。


 私がかつていた場所とは違い、ここの大人たちは子供に優しい。

 それでも、孤児がいつか理不尽な大人から身を守り、搾取されずに自立して生き抜くための唯一の武器は「文字を読む知恵」だと、私が一番よく知っている。


 ——だから、この施設の識字教育に、なけなしの自分の給料から寄付をしている。

 未来の子供たちに、腐った大人と戦うための『武器』を密かに配るために。


「ヤドカリ(宿借)」という偽名で。

 自分の家を持たず、聖女様という他人の殻を借りて生きている自分への皮肉だ。

 本物の生き物は見たこともないけれど。


 ……我ながらひねくれた偽名を選んだと思う。

 でも名付けたのはもっと陰気だった頃の自分なので、今更変えるのも面倒だ。


「ノエル」


 聖女様が、子供たちに囲まれたまま振り返った。


「あなたも来なさい。子供たちがお菓子ほしがってるわよ」

「お持ちします」


 私は袋を持って近づき、子供たちに一つずつ手渡した。

 ある男の子が、私の手をじっと見た。


「おねえちゃんの手、インクで汚れてる」

「ええ。お手紙を書くお仕事をしているので」

「聖女さまのお手紙?」

「そうよ!」


 聖女様が横から割り込んできた。

 やめてほしい。


「この人がね、ワタシのお手紙を書いてくれるの。すっごく上手なの」

「聖女様」

「だって本当のことじゃない!」

「事実ではありますが、大っぴらに公言されると私が教会関係者などから疎まれて処分されかねないので、控えていただけると──」

「──誰があなたを処分するっていうの。ワタシが許さないわよ?」


 聖女様が胸を張って言う。

 子供たちがきゃっきゃと笑う。

 私はため息をついた。この方の無防備さは、いつか本当に問題になる。


 でも——。

 子供たちに囲まれて笑う聖女様の横で、インクに汚れた手でお菓子を配っているこの瞬間が、私の一日で一番平和な時間だということも、また事実なのだった。


 ***


 夜。

 聖女様の部屋で最後の業務報告を終え、退室しようとした時。


「ノエル、今日も一日ありがとう」

「お礼を言われるようなことは何も」

「あるに決まってるでしょう」


 聖女様はベッドの端に座って、いつもの顔をしていた。

 いつもの顔、というのは、柔らかいのに少しだけ寂しそうな顔だ。


「ノエルはさ、いつも『私は何もしていません』って言うけど」

「事実です」

「事実じゃないよ。お祭りの裁定も、あの手紙も、孤児院でのことも——」

「すべて聖女様のお力と人徳です」

「それ、それがズルい」


 ずるいと言われてしまった。


「あのね、ノエル。ワタシはあなたに正当な評価をしたいの。あなたがやってくれてることを、ちゃんと『あなたがやったこと』だって言いたいの。ワタシだけの功績になるのは嫌なの」

「……聖女様のお気持ちはありがたいのですが、メイドは表に出ない方が——」

「わかってる。わかってるけど」


 聖女様が、少し黙った。


「……ナナメ後ろにいてくれるのは、嬉しい。でも、たまには隣に来てほしい」


 私は——少しだけ、返答に詰まった。

 こういう時、気の利いた言葉がすぐに出てこない。


 大人の汚い嘘を見抜くことなら誰にも負けない。

 他人の手紙なら何百通でも、完璧な距離感で書ける。

 聖女様の言葉なら、本人より上手に紡げる自信がある。


 でも、自分の気持ちを自分の言葉で言うのは、今でも下手くそだ。


「……聖女様、今日はソファではなくベッドでお休みください。寝癖の処理に毎朝八分かかっています」

「話をそらした!」

「そらしていません。業務上の要望です」


 聖女様が笑った。

 笑ってくれたので、よしとする。

 私は一礼して、扉に手をかけた。


「——聖女様」

「うん?」

「ナナメ後ろが一番よく見えるのです。聖女様のことを」


 それだけ言って、部屋を出た。

 廊下を歩きながら、今の自分の顔がどうなっているか、少し気になった。

 たぶん、いつも通りの無表情だと思う。


 でも、もし聖女様がナナメ後ろから見ていたら、何か読み取ってしまうかもしれない。


 ——この位置でよかった。


 窓から夜空が見えた。

 雲ひとつない。明日も晴れる。


 ——聖女様が「星を見るのが好きだ」と言ったのは、いつだったか。

 今度、夜の庭へ連れて行ってもいいかもしれない。


 聖女様のナナメ後ろ。

 聖女様からは見えない位置。

 私の表情が少しだけ緩んでいても、誰にも見つからない位置。


 聖女様のポニーテールのてっぺんを特等席で眺めていられる位置。


 明日もここに立つ。

 聖女様の純真さを守るために言葉を整え意地の悪い手紙を直し、お菓子をポケットに忍ばせ子供たちにお菓子を配り、寝癖を直し朝を三分早く呼びに行く。

 それが私の仕事だ。


 聖女のナナメ後ろにいる、ただのメイドである。


お読みただきありがとうございます。

活動報告に追記した内容の短編がこちらとなります。

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― 新着の感想 ―
良いお話でした。泣ける。
看板からー てえてー
単純に世情に疎い聖女様と優秀メイドと思ってたら、違ってこのメイドさんを自分で見出して、側近くにし、相談役にしてる段階で聡明な聖女様だね。
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