我慢は音になる
その世界では、我慢は音だった。
出さなければ、溜まる。
溜まるほど、静かになる。
朝、工場の前で二人が並んでいた。門はまだ閉じている。
「遅いね」
若い方が言った。
声は小さかったが、空気がわずかに揺れた。
「待つだけだ」
年上の方はそう返した。
口は動いたが、音は出なかった。
足元の砂利が、少しだけ沈んだ。
若い方はそれを見て、何も言わなかった。
門番が来た。
「今日は点検だ」
そう言った瞬間、門番の背中で、何かが鳴った。
鈴のようでもあり、割れる前の氷のようでもある。
門番は肩をすくめた。
「我慢が足りないな」
誰に向けたでもない言葉だった。
工場の中は静かだった。
機械は動いているのに、音がない。
働く人たちは口を閉じて、手だけを動かしていた。
若い方が、指を挟んだ。
「あ」
声が出た。
短く、軽かった。
床がわずかに跳ねる。
年上の方が見た。
「出したか」
「少しだけ」
「溜めておけ」
若い方はうなずいた。
指から血は出なかった。
代わりに、胸の奥で、かすかな震えが始まった。
昼、食堂で向かい合って座った。
「なんで、そんなに溜めるんだ」
若い方が聞いた。
年上の方は、箸を置く。
「出すと、割れる」
「割れると?」
「周りが気づく」
それ以上は言わなかった。言わなかった分、空気がさらに静かになる。
午後、機械が止まった。誰かが間違えたらしい。
監督が来た。
「誰だ」
その声は大きかった。
天井から、細かい粉が落ちた。
誰も答えなかった。
答えなかった分、工場全体が、深く沈んだ。
若い方の胸が、限界まで静かになっていた。
「俺です」
そう言った瞬間、若い方の背中で、はっきりとした音が鳴った。
割れる音だ。
監督は眉をひそめた。
「出すなと言っただろう」
「溜めきれませんでした」
若い方はそう言って、立っていた。
床はもう沈まなかった。
年上の方は、何も言わなかった。言わないことで、さらに静かになっていく。
静かすぎて、自分がどこにいるのか、分からなくなり始めていた。
帰り道、若い方が振り返った。
「あなたは、いつ出すんですか」
年上の方は立ち止まった。
「出さない」
「ずっと?」
「割れるまで」
その声は、最後まで音にならなかった。
家に着く前、遠くで何かが大きく鳴った。
雷でも、崩落でもない。
誰かの我慢が、ついに割れた音だった。どこの誰のものかは、分からない。
二人はそれぞれ、歩き続けた。
静かさの重さだけが、少しずつ違っていた。




