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嘘の世界1

我慢は音になる

作者: ハル
掲載日:2026/02/15

その世界では、我慢は音だった。


出さなければ、溜まる。

溜まるほど、静かになる。


朝、工場の前で二人が並んでいた。門はまだ閉じている。


「遅いね」

若い方が言った。

声は小さかったが、空気がわずかに揺れた。


「待つだけだ」

年上の方はそう返した。


口は動いたが、音は出なかった。

足元の砂利が、少しだけ沈んだ。


若い方はそれを見て、何も言わなかった。



門番が来た。


「今日は点検だ」

そう言った瞬間、門番の背中で、何かが鳴った。


鈴のようでもあり、割れる前の氷のようでもある。


門番は肩をすくめた。

「我慢が足りないな」

誰に向けたでもない言葉だった。


工場の中は静かだった。

機械は動いているのに、音がない。

働く人たちは口を閉じて、手だけを動かしていた。


若い方が、指を挟んだ。


「あ」

声が出た。


短く、軽かった。

床がわずかに跳ねる。



年上の方が見た。


「出したか」

「少しだけ」

「溜めておけ」


若い方はうなずいた。

指から血は出なかった。


代わりに、胸の奥で、かすかな震えが始まった。


昼、食堂で向かい合って座った。

「なんで、そんなに溜めるんだ」

若い方が聞いた。


年上の方は、箸を置く。

「出すと、割れる」


「割れると?」

「周りが気づく」


それ以上は言わなかった。言わなかった分、空気がさらに静かになる。



午後、機械が止まった。誰かが間違えたらしい。


監督が来た。

「誰だ」

その声は大きかった。


天井から、細かい粉が落ちた。


誰も答えなかった。

答えなかった分、工場全体が、深く沈んだ。


若い方の胸が、限界まで静かになっていた。


「俺です」

そう言った瞬間、若い方の背中で、はっきりとした音が鳴った。

割れる音だ。


監督は眉をひそめた。

「出すなと言っただろう」


「溜めきれませんでした」

若い方はそう言って、立っていた。


床はもう沈まなかった。

年上の方は、何も言わなかった。言わないことで、さらに静かになっていく。

静かすぎて、自分がどこにいるのか、分からなくなり始めていた。



帰り道、若い方が振り返った。

「あなたは、いつ出すんですか」


年上の方は立ち止まった。


「出さない」

「ずっと?」

「割れるまで」


その声は、最後まで音にならなかった。

家に着く前、遠くで何かが大きく鳴った。

雷でも、崩落でもない。


誰かの我慢が、ついに割れた音だった。どこの誰のものかは、分からない。


二人はそれぞれ、歩き続けた。

静かさの重さだけが、少しずつ違っていた。


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