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5

 冬休み三日目の朝。

 目を覚ました瞬間、昨日のアオバの言葉がよみがえった。


 「本来の滞在日数を維持できなかったら、僕は元の世界に戻ることもできず、そのまま消える」


 ――あの言葉が、まだ頭の中に残っている。

 夢だったのかと思っても、手の甲に浮かぶ“5”が現実を突きつけてくる。

 指先が冷たい空気に触れて、やっと「今ここ」に引き戻された気がした。

 私はひとつ息をつき、布団を蹴って起き上がった。


 台所に行くと、祖母が味噌汁を温めながら、小鉢を手際よく並べていた。


 「おはよう、よく眠れた?」


 柔らかな声に、私は曖昧に笑って「うん」とだけ答える。

 本当は眠れなかったけど、心配をかけたくなかった。

 理由を聞かれても、きっと上手く答えられない。


 「じゃあ、熱いうちに食べようね」


 湯気に包まれた味噌汁の香りと、祖母の穏やかな動きに、心が少しだけほぐれていく。

 祖母の皺だらけの手を見つめながら、自分の手の“5”を指でなぞる。

 祖母に「それは何?」と問われなかったので、この花数字は彼には見えないらしい。


 朝食を終え、茶碗を流しに置くと、部屋に戻った。

 家を出るまでの時間、布団の上でごろごろと過ごす。


 やがて約束の時間が近づき、私はそっと祖母に声をかけた。


 「散歩してくるね」


 「寒いから、あったかくして行くのよ」


 「うん」


 コートを羽織り、ポケットに手を突っ込む。


 外に出ると、冬の朝の空気は澄んでいて、吐く息が白くほどけた。

 凍った道を踏むたび、足音が小さく響く。

 そのたびに冷たい空気が胸の奥まで届き、背筋が自然と伸びるようだった。


 海岸に着くと、アオバはすでに待っていた。

 潮風に揺れる髪が、淡く透けて見えた。

 その姿を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 昨日の言葉が、思い出すまでもなく心のどこかでずっと鳴っていた。


 アオバは私に気づくと、ゆっくりと微笑んだ。


 「おはよう」


 その声は思ったよりも穏やかで、冬の海風よりも柔らかかった。


 「おはよう」


 私も同じように返す。

 それだけで、胸の奥の重さがほんの少しだけ和らいだ気がした。


 「今日も寒い?」


 アオバが私のコートの袖をちらりと見ながら尋ねる。


 「寒い。風が冷たい」


 「そっか」


 アオバは笑うと空を見上げ、気持ちよさそうに大きく息を吸った。

 澄んだ冬の空に、薄い雲がゆっくりと流れている。


 「うん。今日もいい天気だ」


 その横顔を見つめながら、私は小さく息を吸い込んだ。


 風が吹いて、アオバの髪がふわりと揺れる。

 彼の視線は海ではなく、遠くの空を見ていた。

 やがてゆっくりと歩き出し、足もとに寄せる波を見つめる。


 しゃがみ込むと、指で砂の上に何かを描きはじめた。

 ただの落書きのように見えるけれど、その指先の動きはどこか丁寧で、迷いがなかった。


 私は少し離れた場所から、その様子をただ見つめていた。

 描いては波にさらわれ、また描く。

 もっと波から離れた場所で描けばいいのに。


 砂をなぞる音だけが、波の合間に小さく響く。


 「……何を描いてるの?」


 気づけば、声をかけていた。


 アオバは顔を上げ、少し照れくさそうに笑う。


 「海の音。見えないけど、形にしたらどんなかなって」


 その言葉に、胸の奥がかすかに震えた。

 波の音が一瞬だけ遠のき、代わりに懐かしい父の声が蘇る。

 ――“描くっていうのは、見えないものを見ようとすることだよ”


 幼い日の記憶がふっと蘇る。

 あのときの私は、ただ嬉しくて、何も考えずに絵を描いていた。

 けれど、画家だった父がいなくなってから、絵を描くたびに母の顔が曇るようになった。

 以前は、私の絵を見るたびに嬉しそうに笑っていた母が、今は悲しそうに微笑むようになった。


 だから私は、描くのをやめた。

 描かない方が、傷つかないと思った。

 母も――私も。


 波に消されていくアオバの指の線を見つめながら、心の奥に小さな痛みが広がる。


 アオバが立ち上がり、私の方を振り返った。

 冬の光の中で、その笑みは不思議なほど穏やかだった。


 「僕、絵を描くのが好きなんだ」


 少し間をおいて、アオバは私を見た。


 「ミトは?」


 「私は……好きだったな」


 「そっか」


 アオバは再びしゃがみ込み、波が届かない位置に今度は海の生き物を描き始めた。

 タコ、ヒトデ、カメに貝、フグ――さまざまなものを。


 その絵を見て、思わず声がこぼれた。


 「上手いな」


 その言葉に、アオバは嬉しそうに笑った。


 「ありがとう! 僕、絵を習ってたんだ」


 「どのくらい?」


 「六年間くらい」


 アオバは手を止め、こちらを見た。


 「これが僕がいちばん好きな海の生き物」


 「クラゲか」


 「そう。ミトは?」


 「私は……」


 「あっ、言っちゃダメ! ミトも描いてよ」


 「はあ?」


 アオバは今し方描いたクラゲの絵を消し、丁寧に地面をならして「どうぞ」と顔を上げた。

 期待に満ちた瞳に流されるように、ミトは地面に手をつけた。


 ザラザラと砂が指にくっつく感覚が懐かしい。

 昔はよく、父と絵しりとりをしながら遊んだものだ。

 テーマを決めて、それぞれ好きなものを描き、当てあって笑い合っていた。


 楽しかった記憶がよみがえり、ふっと笑ったミトには、その笑顔に息を呑むアオバの視線には気づかなかった。


 人差し指で線を描いていく。

 描き終えると同時に、アオバが言った。


 「イルカ」


 「正解」


 呟くように答えると、アオバはじっとイルカの絵を見つめた。


 「すごい、上手いね」


 アオバはなぞるように指を動かし、ヒレの部分で止める。


 「ここ、先生と同じだ」


 「同じ?」


 「うん。先生も、線の入りは太くて、終わりは細いんだ。角も一筆で済ませず、二本線で交わらせるんだよ」


 アオバはその部分を指で示し、懐かしそうに笑った。


 「懐かしいなあ」


 「もう会ってないのか?」


 「うん。先生は三年前に亡くなったから」


 「そうだったのか……」


 アオバの「うん、病気で」という声が、波の音に紛れてかすかに震えていた。

 二人の間に、しばらく沈黙が落ちた。


 やがて波が押し寄せ、イルカの輪郭がほどけていく。

 砂の上には、もう何も残らない。

 それでもアオバは微笑んで言った。


 「消えちゃったね」


 そして軽く手を払って立ち上がる。


 「次は、形に残るものに描こうね」


 「そうだな」


 ミトは立ち上がり、波にさらわれた跡を見つめながら呟いた。


 「……私もだ」


 「え?」


 「私の絵の先生も、三年前に病気で亡くなった」


 背伸びしていたアオバの手が、静かに下ろされる。


 「一緒だね。どんな人だったの?」


 「私に絵を教えてくれたのは父さんだった。物静かだけど、感情がよく顔に出る人でね。優しい人だった」


 「そっか。ミトはいつから教わってたの?」


 「いつからだろう……物心ついたときにはもう、父さんの後を追いかけてた。父さんは画家だったから。今思うと、鬱陶しいくらいくっついてたな」


 「それじゃあ、僕よりずっと長いね」


 アオバが笑った。


 「ミトのお父さん、きっと優しい人だったんだね」


 「……うん」


 返事をしながら、私は視線を落とした。

 足もとの砂が、波に濡れて色を変えていく。


 ほんの少し前まで、父の話をするのは苦しかった。

 もう会えない寂しさに押し潰されそうな日もあった。

 それでも周りに気を遣わせたくなくて、平気なふりをしてきた。

 けれど今は、胸の奥に小さな痛みと一緒に、あたたかさが残っていた。


 アオバが海の方を指さした。


 「ねぇ、ミト。ミトならあの波をどんな色で描きたい?」


 「え?」


 突然の問いに、言葉が詰まる。

 アオバの指先を追って視線を向ける。


 冬の海。

 灰色の空。

 冷たい風。

 けれど波の内側には、太陽に反射した光があった。


 「……白、かな。透明に近い白」


 「うん、分かる」

 アオバが頷いた。


 「消えてるようで、ちゃんとそこにある色」


 その言葉に、胸の奥が小さくふるえた。

 まるでアオバ自身のことのように思えて、目を逸らせなかった。


 しばらく波を眺めたあと、アオバが静かに笑った。


 「ねぇ、また絵を描きたいって思う?」


 「……思うよ。でも」


 「でも?」


 「怖い。描いたら、また悲しませる気がする」


 アオバは少し考えてから、穏やかに言った。


 「悲しませたくないって思うのは、優しさだよ。でもね、描くことで大切な記憶を残せるんだ」


 その言葉の意味は、すぐには分からなかった。

 けれど波の音の奥で、心がかすかに揺れた。

 風が頬を撫で、遠くの空がわずかに白む。


 「……アオバは、絵を描くの、辛くないの?」


 アオバは少し息をついて、海を見つめた。

 波打ち際に残る足跡が、ゆっくりと消えていく。


 「うん、辛いよ。特に先生と一緒に描いた絵は。でも、描かずにいる方がもっと怖いんだ。先生と過ごした時間を、なかったことにしてしまいそうで。好きだった気持ちまで消えちゃいそうで。」


 アオバの声がかすかに震えた。

 彼の指先が砂をすくい上げる。

 光の粒がそれに混じって、風にさらわれていった。


 「……描かないでいたら、本当に先生がいなかったみたいになっていった。だから描いた。悲しくても、描くことで先生のいた時間を残せると思った。」


 その言葉が波に溶けていく。

 私は俯いたまま拳を握りしめた。


 ――描くって、見えないものを見ようとすることだよ。


 父の声が、遠い記憶の底からゆっくりと浮かび上がる。

 胸の奥がじんと熱くなった。


 アオバが軽く笑いながら言った。


 「ミトもさ、何か描きたいものが浮かんだら教えてよ。」


 その言葉は、冬の光よりもやわらかく響いた。

 胸の奥に、ほんの小さな灯がともる。


 「そろそろ帰ろっか。風が強くなってきたし。」


 「うん。」


 私は頷き、もう一度だけ海を見た。

 足もとには、もう何も残っていない。

 けれど、砂の感触だけは確かに掌にあった。


 ――描くのが怖い。

 でも、もう少しだけ見てみたい。


 あの白い波の色を、もう一度筆でなぞってみたくなった。

 その想いを抱えたまま、私はアオバの背中を追って歩き出した。


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