6 彼岸花
一度気になってしまうと、答えを知りたくなる――それが人間の性だ。
昨日の出会いがどうしても頭から離れず、気づけば私はまた海岸へ足を運んでいた。
第一印象では関わりたくないと思っていたはずなのに。
足元には霜で少し滑る道が続き、息を吐けば白い蒸気が冬の空気に溶けていく。
遠くの山々は淡く青く霞み、瓦屋根の霜が朝日にきらめく。
その景色を見ながら歩くうちに、冷たかった空気が少しだけ柔らいでいく気がした。
祖父母の家から海岸までは徒歩で約三十分。
通り沿いの神社では、風に揺れる鈴の緒がかすかに金属音を奏でる。干し柿のぶら下がる軒先には、まだ白い霜が残っていた。
枯れ葉が足元でかさりと音を立て、風に舞い上がる。
それぞれの音が微かに混ざり合い、冬の朝の散歩には心地よいリズムを作り出していた。
歩くたびに、足元の感触が指先や足裏に伝わり、冷たさと柔らかさが交互に押し寄せていく。
海岸が近づくと、白い砂の上に小さな貝殻が点々と散らばり、波がそれをさらってはまた置いていく。
潮の香りが風に混ざり、頬を軽く刺す冷たさの中に、ほんのりと湿った砂の匂いが漂った。
波打ち際では小石同士がぶつかる乾いた音が微かに響き、遠くから聞こえる海鳥の鳴き声が空気に透明感を与えている。
防波堤には早起きの釣り人が立ち、竿先だけがゆらゆら揺れていた。
潮風に吹かれるたびに、冬の冷たさが心までしゃきっと引き締める。
昨日と同じ場所を見やると、そこに彼の姿があった。
こちらに気づいた彼は、冬の光の中で大きく手を振った。
「ミト、おはよー」
「おはよう」
私は挨拶を返し、彼のそばに行くために足を進める。
赤い遊歩道の下には、魚の鱗のように重なった岩の階段が白砂へと続いていた。
風が吹き抜け、砂が足元をさらう。
それでもアオバは寒さを気にする様子もなく、指先で横髪を耳にかけただけだった。
同じ人間に見えるのに、どこか別の生き物のようで――その対照的な姿に、私は薄ら寒い違和感を覚えた。
胸の奥で小さな緊張が走る。
どうして昨日まで全く興味のなかった彼に、こんなにも心が向かうのだろう。
思考の端で、心臓の奥がそわそわと鼓動を増すのを感じる。
「改めて、おはようミト」
「おはよう」
昨日は名前を聞きそびれたまま別れてしまった。
遠ざかる背中を見つめながら、胸の奥で「知りたい」という思いばかりが強くなったのを覚えている。
だから今日は、最初にそれを確かめようと心に決めていた。
「なあ、あんたの名前は?」
「あれっ、言ってなかったっけ?」
「聞いてない」
「えっ、ごめん!自分から名乗らずに、相手の名前聞いちゃうなんて、僕、失礼だよね」
一人慌てる彼を見て、昨日の自分の姿を思い出す。
心の中でくすりと笑い、少し和らぐ気持ちを感じた。
「いや、別に気にしなくて大丈夫だから」
「それならよかった」
彼は安心したように一息つき、微笑む。
肌にあたる冬の風にも動じないその笑顔に、思わず目が吸い寄せられた。
その笑顔は、冷たい空気の中でも暖かく、心をほんのり温める光のようだった。
「僕の名前はアオバ。花の葵に葉っぱの葉で葵葉。葵葉って呼んでね」
「ああ」
葵葉は微笑むと、後ろに組んだ手に力を込めた。
その仕草には、どこか少年のような無邪気さが混じっている。
その無邪気さが、冷たい朝の空気の中でさらに鮮やかに見えた。
話が長くなりそうだと察して、私たちは海沿いのカフェへと歩いた。
海が見えるテラス席が人気の店で、開店間際の店内には柔らかな光が差し込んでいた。
木製のパーテーションで仕切られた半個室の二階席に座ると、足元のラタンマットの感触が少し温かく、外の冷たい空気との対比で安心感があった。
微かに漂うコーヒーの香りも、心を落ち着ける効果があった。
窓の外では波がキラキラ光り、砂浜を歩くカモメの影がゆらゆら揺れる。
海面が朝日に照らされて輝き、軽い潮風がカーテンをわずかに揺らした。
潮の匂いと波の音が、室内にまでかすかに届き、外の世界と内側の空間をゆるやかに繋いでいた。
「ちょっと辛いけど、美味しいー!」
ロングコートを着た葵葉はカレーを口に運び、二口目を頬張る。
ミトは思わず心の中で「味覚はあるんだな」と呟く。
視覚も聴覚も問題なさそうだと分かると、触覚や温度感覚に何か特異なものがあるのかもしれない、と無意識に分析してしまう自分に苦笑した。
仲のいい友人以外には興味が湧かない自分が、出会って二日目の彼に惹かれている。
変だと思いつつ、衝撃的な出会いだったことを考えれば、自然なことなのかもしれない――そう思った。
彼は今日も半袖に半ズボンという、冬の空気には不釣り合いな服装だ。
もしもの可能性に備え、持ってきたロングコートを手に取り、さっと羽織らせたのは先ほどの出来事だった。
まさか、冬だと分かっていても、この格好で来るとは思わなかったのだ。
場違いな服装の彼は、通りすがりの人々の視線を集めてしまうかもしれない。
変な注目を浴びることを考えると、やはり持ってきてよかった、とミトは内心ほっとした。
ミトはカフェオレを口に含み、視界に入る彼の手元の花数字に目をやる。
昨日は“7”だったのに、今朝は“6”。
花数字は着実に減っている。
「それね、カウントダウン」
「カウントダウン?」
「僕がこの世界にいられる日数なんだ」
信じられない話だと思いながらも、アオバの真剣な瞳を見つめると、自然と受け入れざるを得ない気持ちになった。
目の奥に宿る真摯さが、理屈では説明できない説得力を持っていた。
「僕の世界には、別の世界へ行ける手段があるんだ。行ける人は限られてて、僕はその一人。そして、パラレルワールドにいられる期間は1週間で、今日であと6日。この数字はその残り日数を示しているんだ」
葵葉の視線につられるように花数字を見る。
“異世界転移”……まるでフィクションみたいな説明だ。
話の内容は理解しているつもりだが、やはり現実味がなくて信じられない。
葵葉はミトの心中を察したように、困った笑いをした。
「まあ、こればかりは信じて、というしかないんだけどね」
嘘をついているようには見えないアオバの様子に、ミトは心を整理するように大きく呼吸をした。
「んー。美味しい。久しぶりに食べたなー」
続きを食べ始めたアオバを横目に、ミトはとりあえず彼の話を信じることにした。
信じた前提でなければ、話が進んでいかないからだ。
“パラレルワールド”、“1週間”、“カウントダウン”……
重要なキーワードを繰り返しながら、彼の話を頭に落とし込んでいく。
そして、特に疑問に思ったことだけを聞くことにした。
「……なあ」
「ん?」
「なんで、私の手にもこれがあるわけ?」
話を聞く限り、葵葉の滞在期間ならミトには関係ないはずだ。
無関係な自分が巻き込まれた理由がわからない。
「あー、それはミトが“しるべ”だからだよ」
「標?」
「そう。僕がこの世界に来るための目印となったのがミトなんだ。
だから、しるべであるミトにも花数字があるってわけ」
「私が標に選ばれた理由は?」
「それは……なんでだろうね?」
「はあ?」
「そういう運だったからとかかな」
あやふやなことを言われ、ミトはため息を吐きたくなった。
運でこんな非現実的なことに巻き込まれてたまるかと思うが、受け入れるしかないのだろう。
「……じゃー、この花模様は何?これ、彼岸花だろ」
真っ赤な細い花びらが、火花みたいに広がって咲いてる花。
「うん、僕も彼岸花だと思う。
花模様は……何を基準に選んでいるんだろう?」
葵葉は特に気にしてもいなかったようで首をかしげた。
花のイメージ……そう言われて思いつくのは限られてくる。
「パッと思いつくのは花言葉か。この模様に意味があるならだけど……」
さっきみたいに偶然選ばれたのなら、考えても無駄だが。
「確かに一番可能性が高いのは花言葉だね。
色も昨日と同じだから意味はなさそうだし」
彼岸花は“怖い、“”不吉”といったネガティブなイメージがある。
墓地や彼岸の時期に咲くことから、死や別れを連想させる意味合いが強いからだ。
でも、葵葉はどちらかというとポジティブなイメージを持っているようだった。
「彼岸花って面白いよね」
「面白い?」
「うん。色鮮やかで綺麗だし、形も独特で唯一の花って感じ。なんか特別感があるよね。それに国によって印象が真逆なのも面白い。日本ではマイナスなイメージを持たれやすいけど、海外だとプラスなイメージを持たれる花だ。文化的背景や民族信仰とかの影響だろうね」
花に詳しくないミトからしたら、初めて知る情報だった。
「ミトはさ、彼岸花の花言葉知ってる?」
「いや……」
「1つも?」
「ああ」
「なら、調べてみなよ。彼岸花っていろんな花言葉があるんだよ」
葵葉に催促されたミトは言われるがままにしまっていた携帯を取り出すと、検索アプリを起動した。
“彼岸花”、“花言葉”。
キーワードを記入して、検索するとトップに4つの花言葉が表示された。
「独立、情熱、悲しい記憶、諦め」
それぞれ読み上げると、葵葉は「うん」と頷いた。
「代表的な花言葉はそれだね。あとは、色によっても変わるかな。陽気や妖艶、楽しむとかあるよ」
「詳しいな」
「まあね。よく本を読んでたから」
葵葉がカレーを食べ終えたのを見届けると、ミトは店員を呼びそれぞれ食後のドリンクを注文した。
「じゃあ、昨日は?」
「昨日はね、シオンっていう花だと思うよ」
検索欄を“彼岸花”から“シオン”に切り替える。
すると、背の高い、薄紫の小菊がいっぱい咲いた写真が出てきた。
「……追憶、あなたを忘れない、遠くにある人を想う」
「あとは、時が経つのを忘れて。ごきげんよう。どこまでも清くって意味もあるね」
「なるほどね……シオンは“別れと記憶”、彼岸花は“別れと縁”って感じを持つ花だな。
共通するのは、別れか。これがアオバと別れのカウントダウンとすると、意味は合うか」
「そうだね」
注文したドリンクが届くと、一旦脳内を整理するように一息をつく。
カップを両手で包み込むと、微かな温もりがじわりと指先に伝わった。
アオバは何かを言いたげに、カップの縁を見つめたまま沈黙していた。
表情は穏やかなのに、どこか迷っているようにも見える。
私が口を開く前に、彼は小さく息を吸い込んだ。
「ミトにお願いがあるんだ」
その言葉に、彼は一瞬言葉を探すように視線を泳がせた。
窓の外では冬の光が白く揺らめき、店内の静けさだけが二人を包み込んでいる。
アオバはカップに視線を落とし、指先でそっと縁をなぞった。
何か大切なことを言おうとしているのが、仕草の端々から伝わってくる。
「何?」
私はそっと問い返した。
「僕がこの世界にいる間は毎日会って、話をして欲しいんだ」
アオバは少しうつむき、両手のカップを包む指先にわずかな力を込めた。
その声は普段より低く、迷いと決意が混じっている。
私は思わずまばたきをし、静かに耳を傾けた。
しばらく沈黙が落ちたあと、アオバは小さく息を吸って続けた。
「僕がこの世界に存在できるのは、君という“しるべ”から得られるエネルギーのおかげなんだ。
君と会うことで、僕の存在は安定する」
ミトは思わず息を詰めた。
自分が誰かの「存在」を支えている――その事実が、現実の輪郭を少しだけ歪ませた。
「エネルギー……?」
「うん。まるで火が燃え続けるために灯りが必要なように、君は僕にとって生きるための“燃料”であり、存在の礎なんだ。逆に会わなければ、存在が揺らいでしまう」
その説明を聞きながら、ミトは胸の奥で何かが重く動くのを感じた。
それは驚きや恐怖とは違う、説明のつかない感覚だった。
声を出そうとしても、喉の奥で絡まってしまい、ただアオバを見つめるしかできなかった。
「カウントダウンの数字は、毎日君に会えた場合に維持できる日数なんだ」
「……つまり、私と会わなければ短くなるということか?」
アオバは静かに頷いた。
ミトは唇を噛み、思わず聞き返した。
「もし、私が会わなくて……滞在日数が減ったら、どうなる?」
アオバは一瞬だけ目を伏せ、静かに答えた。
「本来の滞在日数を維持できなかったら、僕は元の世界に戻ることもできず、そのまま消える」
ミトはしばらく黙ったまま、カップを握りしめていた。
胸の奥で、ずっしりと重い感覚が広がっていく。
標の存在がそこまで重要だなんて思いもしなかった。
「まさかそんな重要な役割だったなんて……」
思わず小さく呟く。
運でそんな大役に選ばれるなんて、想像もしていなかった。
小さな声だったが、アオバにははっきり聞こえたらしく、彼は申し訳なさを滲ませた静かな微笑みを見せた。
「……突然こんなことを頼んでごめん」
胸の奥で、理解と恐怖が入り混じる感覚が波のように押し寄せる。
ミトはカップを握りしめ、静かに息を整えた。それでも、心の奥にはざわつきが残った。
「ミトが応えてくれたら……僕にとって、何よりの救いになる」
その言葉は真っ直ぐで、胸にじんわりと染み入り、自然と心が緊張するほど真剣だった。
ミトは一瞬、息を止め、心臓が早鐘のように打つのを感じる。
戸惑いながらも、アオバの瞳に映る揺るぎない意志に、自然と視線を奪われた。
言葉が見つからず、胸の奥では重みと温かさが同時に広がっていった。
不意に訪れた責任感に肩をすくめそうになったが、アオバの表情に浮かぶ柔らかな光が、不思議と怖さを和らげてくれた。
気づけば、自分の中で小さな答えが形を取り始めていた。
「……わかった。毎日、会おう」
一瞬、アオバの瞳が揺れた。
それから、彼はほっとしたように笑った。
その笑顔は無邪気で、どこか頼りなげで、そして確かに生きている――そう思わせる力があった。
「ありがとう、ミト」
その瞬間、ミトの心の中で何かがゆっくりと、でも確かに動いた。
彼を支えたいという気持ちが、言葉にできない形で胸に宿ったのだ。
ふっと、二人の間に静けさが落ちる。
重たい話を終えたばかりなのに、アオバは急に声の調子を変えて、少し照れくさそうに笑った。
「じゃあ、明日はいつ会える?学校終わり?」
拍子抜けするような問いに、ミトは思わず瞬きをした。
「えっ、学校終わり?」
少し驚きながら答える。
すでに長期休みに入っているから、学校に行く必要はない。
「うん、学校あるでしょ?昨日も今日も休みだったから、てっきりあると思ってた」
アオバは戸惑ったように言葉を継いだ。
「いや……冬休みだから、学校はないよ」
ミトが肩をすくめて答えると、アオバはぱちりと目を瞬かせた。
「冬休み……そうなんだ」
返ってきた声はわずかに遅れ、言葉を確かめるような響きを帯びていた。
そのわずかな“反応のずれ”に、ミトは説明のつかない居心地の悪さを覚えた。
カフェの外では、午後の日差しが少し傾き、ガラス窓に淡い金色を落としている。
カップの中のカフェオレも冷めかけ、表面に薄い膜が張っていた。
時間の流れだけが静かに二人の間を満たしているようだった。
けれど、アオバはすぐに柔らかな笑みを浮かべてこちらを見つめた。
その表情には、いつもの無邪気さと、どこか遠くを見ているような静けさが混ざっている。
「じゃあ、明日の都合のいい時間は?」
「14時がいい」
特に予定はないが、朝はゆっくりしたい。
そんな考えを見透かしたように、アオバはくすくすと笑う。
「朝はゆっくり寝たいから?」
「……そう」
もともと朝が弱いミトは、休日ともなれば二度寝が常だった。
起きるのはいつも昼近く。朝昼兼用の食事が習慣のようになっている。
そんな自分を少しだけ情けなく思いながらも、
アオバの前ではなぜか、それを隠す気になれなかった。
「じゃあ、昼の二時にしよう」
アオバがにっこり笑い、手を軽く振った。
その笑顔は、冬の午後の光に溶けていった。
ミトの胸の奥で、かすかな期待が小さく息づく。
明日という約束が、静かに彼女の心の輪郭を照らしはじめていた。




