第71話 知らなかった先輩の顔
碓氷雅樹を見て微笑んでいる永野梓美は、人間ではなかった。男を喰らう女性の妖異、雪女が彼女の正体だ。
大江イブキの代理として、雅樹の護衛を任されている。大江探偵事務の中で、両者は改めて対面している。
応接用のソファに座り、向き合う雅樹と梓美。質のいいソファの柔らかな感触は、今の雅樹にとってはただのノイズだ。
衝撃の事実を知った事で、雅樹はまだ混乱をしている。色々と聞きたい事もある。何から聞くべきか、整理でついていない。
「あの、色々と聞きたいのですが……」
「うん、何でも聞いてくれてエエよ」
自分の正体を明かしても、梓美はいつもと変わらない。これまで雅樹に接して来た態度と、一切の違いを感じさせない。
だからこそ雅樹は、梓美の気持ちが分からない。自分の事を好みだというが、じゃあどうするというのか。
「梓美先輩も、男を喰らうの?」
雪女と言えば、男性を雪山で襲うイメージが雅樹にはある。ただ悪いイメージだけではない。
雪女が男性を救う物語も見た記憶があるので、雅樹としては判断に困る。良い妖異なのか、悪い妖異なのか。
だが梓美からは悪意のようなものを感じない。学校でも優しい先輩として慕われている。
「そうやなぁ、ウチも妖異やさかい。異種族の男性をモノにして生きて行く」
「い、今もそうなの?」
雅樹としてはそこが気になる。妖異として人間の男性を喰らっているのかどうか。イブキが自分へするように。
イブキから配下の妖異達も、物理的に喰らう事は殆どないと聞いている。人間が死ぬ間際なら喰らうけれども。
もし自分が知らない所で、梓美がそういう事をしていたら。そう思うと何故か雅樹は嫌だと思った。
「もちろんそうや。基本的に学園の子らをね。皆を守っている対価に頂いてるんや」
雅樹は梓美へ恋に似た感情を抱いていた。だから梓美が、誰かの感情を喰らっているのはモヤモヤする。
付き合ってもいないのに、そんな事を思う資格はない。でもそう思ってしまう心は止まらない。
自分だって散々イブキに喰われているのに、どうしても思ってしまう。雅樹はそんな心の動きが気持ち悪いと思った。
明らかに自分の感情が間違っているのに、何故か嫉妬心が熱く滾ってドロドロと溢れる。
「……俺が何もされていないのは、どうしてなの?」
「そらイブキ様の男やしなぁ。勝手に手ぇは出せへんよ」
理不尽な嫉妬心をぶつけてしまい、雅樹は後悔をしている。聞かなくても想像がついた筈の理由。
いつも身に着けている御守りが、雅樹をイブキの所有物だと示している。上司の私物を好き勝手にする部下は、処分されるのがオチだ。
那須草子や蛇女アカギのように、支配者クラスでなければ普通は雅樹に手を出さない。
そんな簡単な事も忘れてしまうぐらい、雅樹にとって衝撃は大きかった。好意自体は持っていたから。惹かれていたと言っても良い。
「せやけどな雅樹君、今日からは違うねん……」
対面に座っていた梓美の表情が、高校生とは思えない妖艶なものに変わる。雪女としての顔を、梓美は隠さず魅せ始めた。
梓美は立ち上がると、ゆっくりと雅樹の方に近付いていく。まるで金縛りにあったかのように、雅樹は動く事が出来ない。
狩りの対象を見つけた山猫を思わせる眼光で、梓美は雅樹を見つめている。そのまま雅樹の膝の上に梓美は跨った。
「せ、先輩?」
雅樹はそれだけ呟くのが精一杯だった。梓美から感じる冷気は、間違いなくエアコンの風ではない。
首元に触れた梓美の手は、普段と比べ物にならない冷たさをしている。人間なら間違いなく異常に低い温度だ。
梓美の目が、雪原の様な輝きを放つ。イブキが雅樹を喰らう時に良く似ている。ペロリと梓美は唇を舐め、雅樹の耳元に口を近づける。
「今日からはエエねんて、雅樹君を頂いても」
梓美の冷たい手と放つ冷気、そしてそれ以上に彼女の妖艶さが、雅樹の背筋をゾクゾクとさせた。妖異としての本性が、雅樹に怯えの感情を抱かせる。
これが本当の梓美なのかと、雅樹は恐怖を覚えている。魅力的で神秘的で、悍ましい何かを感じさせる。
雪女としての顔を見せた梓美は、ゆっくりと雅樹に正面から顔を近づける。そして重なる唇は、とても冷たかったと雅樹の記憶に焼きつけられた。
最初は試す様に少しずつ、感情と精気が吸われていく。微弱な性的快楽と共に、抜け落ちていく雅樹の感情。
少量だった吸引は、徐々に強くなっていく。まるで取っておいた好物を楽しむ様に、梓美は雅樹を喰らっていく。
「ああ……こんなにも美味しいなんて……」
恍惚の笑みを浮かべる梓美と、精気を抜かれて体力が殆ど残っていない雅樹。余程美味であったのか、少々勢い余ってしまったらしい。
「よ、容赦とか……ないんですか……」
「あ、ごめんなぁ。雅樹君が想像以上やったから」
何より雅樹の感情が、梓美にとっては堪らないご馳走だった。自らに向けられた淡い恋心と、葛藤と恐怖の入り混じった複雑な感情。
雪女としての本能が、目の前の男を虜にしようと駆り立てる。異種族の男性が自らに魅了される瞬間が、雪女にとって最も美味しい。
イブキの所有物だと分かっていても、本能には抗えない。それにイブキからは、雅樹と番になっても良いと許可を貰っている。
今まで諦めていた事が、急に許されてしまった。その理由を梓美は知らないが、許されたのだから構わないと考える。
「雅樹君、やっぱりウチに、好意を持ってくれてたんやなぁ。もっと好きになってエエねんで。愛してくれてエエんやで」
「あ、梓美先輩……」
あまりにも異様な姿。人間には出せない異常なまでの妖艶な雰囲気。男を吸い寄せるフェロモンが振り撒かれている。
雅樹の男性としての本能が、理性を上回りそうになる。突然雅樹の中で、梓美を押し倒してしまおうという考えが浮かぶ。
そんな事をして良い筈がない。例え相手が妖異であっても、同意も得ず行為に及べば犯罪だ。やってはいけないこと。
だというのに、雅樹の本能が激しく主張する。目の前の女性を抱いてしまえと。今日一番の混乱が雅樹を襲う。
どうにか抗おうとする雅樹の脳内に、イブキと草子の顔が浮かぶ。すると突然体の自由が効くようになった。
「む~! 雅樹君、ウチ以外の誰かの事を考えたやろ!」
「え、ど、どうして……今のは一体……」
梓美が使ったのは雪女が使う妖術で、房中術に似た効果を持っている。雪女の事しか考えられなくなり、性欲を爆発させる。
そうして虜にする事で、男性を自分の好きなように操ってしまう。自らへと引き寄せ、男性を絡め捕る妖術。
ただし対抗策があり、意中の女性を思い浮かべると拘束から解放される。雪女達は何度も改良を試みたが、そこだけは解決出来なかった。
妖術は万能だが全能ではない。何かしらの欠点が、どのような妖術にも存在している。お陰で雅樹は解放された。
「やっぱり雅樹君、ウチよりイブキ様が好きなん?」
「い、いや、別に……誰が好きとかは……」
雅樹はその自覚がまだ出来ていない。ただしイブキは雅樹の好意に気付いている。恋と呼ぶまでの強い想いではないが。
そしてそれは、草子に対しても同じ事が言える。魅力的な女性達が、雅樹の周囲に3名も居る。その全員が妖異なのは何かの運命か。
異性として意識しているのが全員妖異で、雅樹も正直どうかとは思っている。何故こうなったのかと、頭を抱えたいぐらいだ。
恋心なのか、誰が一番好きなのか、雅樹は今ここで決める事なんて出来ない。自分の気持ちに、全然整理がついていないのだから。
「まあエエわ、これからチャンスは幾らでもあるし。改めて今日からよろしくなぁ、雅樹君」
長い時を生きて来た雪女の永野梓美は、妖艶な笑みで雅樹の事を見ていた。捕食対象を眺める肉食獣のように。




