第7話 とある病院での出来事
大阪市内にある総合病院の一室で、若い20代ぐらいの男女が居た。
女性の方がベッドに寝ているので、男性の方は入院している女性のお見舞いに来たのだろう。
「この手術が終わったら、退院出来るねん」
少し弱っているらしい女性は、長い黒髪がよく似合う儚げな美人だ。
彼女は心臓の病気を治す為に、何度か入退院を繰り返していた。それも漸く治る時が来たと、嬉しそうに笑っている。
「ああ、元気になって帰って来いよ。そうしたら、結婚式をやろうや」
どうやらこの男女は恋人同士らしい。茶色に髪を染めた短髪の男性が、励ます様に将来の話をする。
決して悲痛な雰囲気ではなく、明るい未来についての話題で溢れている。
この手術で彼女は元気になり、男性と結婚して幸せになるという素晴らしい未来を想像していた。この瞬間までは。
「残念ですが……」
彼女が元気になって出て来る筈の手術室からは、遺体となって出て来る事になった。原因は手術中の急激な容態の悪化だと男性は説明された。
膝から崩れ落ちる男性は、涙を流しながら死亡した恋人の亡骸の前で呻き続けている。
病院の関係者達が事後処理を進めて行く中で、一部の医者達が男性から遠く離れた部屋で話し合っている。
「こんなん、院長になんて話すんや?」
「大丈夫やて安心しろ、あの院長なら上手い事処理してくれるて。いつもそうやろ?」
不穏な雰囲気で交わされる会話。他に誰も居ない筈の空間で、淀んだ空気が集まり始める。だが彼らはそんな事に気付いてはいない。
そんな出来事があった日から、この病院ではとある噂が流れる様になった。
それは夜になると女性の幽霊が現れるというものだ。入院患者の格好をした、長い黒髪の幽霊だと。
最初は誰も信じていなかった。初めて幽霊を見たと言ったのは、痴呆症の老人だったからだ。
ただの見間違いと思われたが、次は別の老婆が幽霊を見たという。だがそんなのは病院だと良くある話だ。
どうしても静まり返った夜の病院は、怪談話にピッタリな雰囲気が漂っている。
霊安室もあるので、死体が動いたとか死体が消えたとか、妙な噂は定期的に流れる。
子供がイタズラをしていたなんて事もあり、ありきたりな幽霊の噂話として片付けられていた。
とある日、夜勤に出ている看護師達がスタッフステーションに集まっていた。
看護婦から看護師という名称に変わった事を受けて、ナースステーションではなくスタッフステーションの名称を使う病院もある。
現在深夜のスタッフステーションでは、複数の看護師達が仕事をしている。
その中でもベテラン看護師をしている40代の女性が、テキパキと指示を出していた。
「ちょっと柏木さん? 作業が遅れてるんちゃう? 次の巡回に間に合うん?」
彼女は看護主任を務めている黒田と言う女性の看護師で、まあ所謂ところのお局様だ。
「す、すいません! 急ぎます」
まだ若い看護師の女性が、備品の運搬作業を急かされていた。別に特別遅い訳でもないのだが、こうして小言をわざわざ普段から言っている。
若い世代からは敬遠されているが、本人はそんな事お構い無しだ。
「全くもう、田畑君を見習って欲しいなぁ。あら流石田畑君やね、仕事が丁寧で助かるわぁ」
田畑というのはイケメン看護師として、周囲から人気の若い新人看護師だ。
黒田のお気に入りであり、彼だけは特別扱いを受けイビリの対象にはされない。
20代や30代の女性看護師からは、影でその事を揶揄されている。年増の癖に面食いかよ等色々と。
若い世代限定のグループチャット内でしか話されないので、本人はその事を知らない。
表でやる場合はチャット内で生まれた隠語を使い、本人にはバレない様コソコソと話す程度だ。
最近の若い子はと、上から目線で見る中高年と若い世代の対立。
飽きる事なく続けて来た、人間達の視野狭窄な下らない争いがそこにはあった。
人は何故若い世代を相手に、いちいち粗探しをして見下したがるのだろうか?
鬼である大江イブキが見れば、理解出来ないよと不思議そうな表情をするだろう。
そんな人間同士のドロドロとした関係性の中で、ナースコールがスタッフステーションに入る。
たまたま端末の近くに居た、田畑が確認を取り対応をする為に動こうとした。
「田畑君、どこの病室なん?」
彼が動こうとするのを察した黒田が、ナースコールの発信元を尋ねる。
「えっと、305です」
「ああ……また林さん? 私が行くから、田畑君は残っててエエで」
黒田は呆れた表情で、対応を自分で行う事にした。305号室の林という人物は、幽霊を見たと騒ぐ老人の1人だ。
何度も繰り返し幽霊を見たと夜中に騒ぎ、看護師達を困らせている。
そろそろ自分が注意をするタイミングかと判断し、看護主任として動く事にした。自分が綺麗に解決して、有能さを見せようという魂胆だ。
この道20年以上、幽霊を見たなんて騒ぐ老人の相手は慣れたもの。
5分もあれば終わらせられると、意気揚々と黒田は305号室に向けて移動する。
スタッフステーションは2階にあるので、辿り着くまであっという間だ。
真っ白な廊下をツカツカと早足で進む黒田は、305号室に到着し入院患者の林老人と対峙する。
「林さん、また幽霊の話? 私は22年間病院で働いてるけど、幽霊なんて見た事あらへんで」
怯える様に布団の中へ隠れているお爺さんに、黒田は冷静に指摘をする。
これまで病院に勤務して来て、黒田は幽霊なんて見た事がない。まだ新人だった頃に、幽霊と勘違いならした事はあるが。
それだってなんて事はない話。誰かが窓を閉め忘れたせいで、揺れ動いていたカーテンの影を幽霊と見間違えただけだ。
黒田にとっては結構な黒歴史であり、大騒ぎして先輩のナース達に笑われたものだ。
まだ看護師なんて言われておらず、女性だけが就くナースと呼ばれていた時代の話だ。
そんな大恥をかいた若い頃の話を捨て置き、黒田は幽霊なんていないと諭す。
しかし林老人は頑なに認めようとせず、自分が目にした事を真実だと言い切る。
「ホンマや! ホンマに居た! トイレのとこに、髪の長い女の子がおったんや!」
老人はガタガタと震えながら、必死で幽霊を見たと訴える。
はぁと溜息を吐きながら、黒田は一応見に行く事を決めた。ほな見て来ますわと一言添えて。
この棟にあるトイレは305号室のすぐ近くで、少し歩いて行くだけで辿り着ける。
もしかしたら入院している若い女性の誰かがトイレに来て、幽霊と見間違えられた可能性はある。
3階に入院している若い女性は、数人居るのであり得なくはない。
黒田は3階のトイレに向かい、先ず男子トイレの確認を行う。中には誰もおらず、無人でしかない。
まあそんなものだろうと、黒田は続いて女子トイレへと向かう。
そちらでもやっぱり無人で、誰もトイレには居なかった。この階で亡くなった若い女性が居たからと、質の悪い噂が流れたのだろうと黒田は結論づけた。
単なる噂話だと黒田は思っていたのだが、突然誰かの話し声が聞こえた。
「誰か居るん? 消灯時間は過ぎてんで」
黒田は右手に持った懐中電灯を使い、周辺を照らしていく。でもやはり女子トイレは無人だ。
廊下に出てみても、やはり誰もいない。疲れているのだろうかと、黒田は女子トイレを出ようとした。
ふと人の気配を感じて、黒田は足を止めた。彼女は何となく、手洗いスペースの鏡を見た。
すると自分しか居ない筈の女子トイレで、すぐ背後に長い黒髪の女性が鏡越しに見えた。
有り得ない、そんな筈はない、幽霊なんていない。思考を巡らせる黒田は、思い切って背後を見た。
そして見た、長い黒髪の女性の姿。だらりと垂れた前髪で、女性の表情は良く分からない。
「……あの、何でしょうか?」
恐る恐る黒田は女性に向かって問いかけた。幽霊なんている訳が無い。そう思っていても、不気味な雰囲気は払拭出来ない。
髪の隙間から見えた瞳は、異常なまでに充血していた。彼女はブツブツと何かを呟きながら、黒田の方を見ている。
違う、これは幽霊なんかじゃない。質の悪いイタズラで、若い看護師か入院患者が驚かせようとしているだけ。
そう考えているのに、凄まじいまでの寒気が黒田を包む。
「オ マ エ ジ ャ ナ イ」
今まさに目の前に居た女性が、霧の様に消え去ってしまった。年甲斐も無く黒田は、出来うる限りの絶叫を上げて意識を失うのだった。




