第67話 知らない街
太田敦子はただのOLである。京都の運送会社で事務員をやっている。ごく平凡な32歳の女性だ。
特別スタイルが良いわけでもなく、太っているわけでもない。どこにでも居るただの一般人。
たまに男性から言い寄られる事もあるが、大体は下心から来る誘いばかり。
恋人が居た経験もなく、いつの間にか30を過ぎていた。仕事して帰宅、ただその繰り返し。
結婚願望は薄っすらとあるが、かと言って積極的に婚活をする事もなく。ただ漫然とした日々を過ごしている。
「はぁ……」
ため息をつきながら、敦子は会社を出る。時刻は20時を過ぎており、今日も残業が終わった所だ。
敦子は疲れが取れにくくなった自分の肉体から、若干の老いを感じている。運動不足もあるのだが、ジムに通うといった行動には出ない。
別に太ってはいないから、運動をするモチベーションは湧かない。帰宅後と休日は、推しの配信者を観て過ごすだけ。
何かを新たにチャレンジしようという気にはなれず、ただ容易く享受出来る娯楽を消費していく毎日。
「今日はリアタイ出来そう」
敦子の好きな男性Vtuberが、20時10分から今夜の配信を行う。帰りながらリアルタイムで視聴しようと、イヤホンを鞄から取り出して装着する。
コメント欄には敦子と同じファン達が集まって待機している。歩きながら敦子は適当なコメントを残しておく。
特に何か意味のある投稿ではないが、皆との一体感を得られるからそれで良い。ただそれだけの一言メッセージ。
(今月はもう1万円を投げられないよねぇ……)
推しに投資と称して、敦子は良く投げ銭をしている。特にこれと言って趣味のない彼女の、唯一と言って良い浪費先。
しかしそれも現代では珍しい話とは言えない。敦子と同じような生活をしている若い世代は、日本中のどこにでも居るだろう。
インターネットの普及により、娯楽コンテンツはどんどん増えて行く。限られた隙間時間を、消費する方法は幾らでもある。
その中の1つが推し活と呼ばれている行動だ。好きな何か、好きな誰か、そう言った何かに時間やお金を割いて行く在り方。
歪だと感じている昭和世代も多く居るが、若い世代の間ではそう珍しくない普通の事。令和の定番ともいうべき娯楽。
(あれ? まだ駅に着かない?)
スマートフォンの画面を観ながら歩いていた敦子は、違和感を覚えて周囲を見渡す。いつもなら人が居る筈の通りに誰も居ない。
イヤホンをしていたせいで気付かなかったが、車も全く通っていない。交通規制があるなんて話も聞いた事がない。
信号機や街灯は点いているし、コンビニやスーパーも明かりが灯っている。ただ人の気配だけが全く感じられなかった。
「えっ!? こ、ここどこ?」
目に映る風景は、どこにでもあるような日本の街並み。道路標識や店の看板に書かれているのも日本語だ。しかしまるで知らない異国へ来たかのよう。
自分が知っている道を歩いていた筈なのに、全くしらない場所に立っている。敦子は困惑するしかない。今居る場所がどこか知らない。
道路標識に書かれている大通りの名は、全く知らない土地のもの。まるで見知らぬ土地にワープでもしたかのようだ。
「あっ、あれ!? 配信が……」
このおかしな状況下で、唯一心の平穏を保てていた支え。推しの男性Vtuberが話している音声が突然途切れた。画面を確認すると圏外になっている。
どこか知らなくても、こんな街中で圏外なんて普通なら有り得ない。敦子はスマートフォンを再起動するも、やはり圏外のままだ。
機器のトラブルではないらしい。あまりにも静かな夜の街で、不安を覚えた敦子は近くにあったコンビニへ入る。しかし店内は無人だ。
「あ、あの! すいませーん!」
バックヤードにでも居るのかと、大きな声で呼び掛けるも反応はなし。不味いかもと思いつつ、敦子は関係者専用のスペースに入る。
やはりそこには誰も居ない。隣のドラッグストア、向かいのパチンコ店、地下鉄の駅、そして大通り。どこに行っても敦子以外に人は居ない。
「ど、どういう事なの!?」
まるで敦子以外の人間が、突然消え去ったかのように人の気配がない。まるでゾンビ映画に出て来る滅んだ街を思わせる。
どんどん増して行く不安な気持ちに、敦子は頭がどうにかなりそうだった。これが夢であったのなら、どれだけ喜べたか。
地面を歩く感触と、肌で感じる空気感はどう考えても夢ではない。これが現実なのは間違いないだろう。
もし本当に何か化け物でも居るとすれば、そんな思考が敦子の脳裏をよぎる。こんなシチュエーションは、ホラー映画で観た記憶がある。
主人公の目が覚めたら、誰も人が居なくなっていた。あちこち探し回った先で、突然現れる異形のモンスター。
「ち、違うよね……そんな事、あるわけ……」
改札の前で立ち尽くす敦子は、嫌な予感と寒気を感じている。ふと風が吹いて、バス停に置かれた空き缶が転がった。
「ひっ!?」
信号機と風の音以外は無かった世界で、突然発生した空き缶の音に敦子は驚く。硬質なカランカランという音が、車道を転がる空き缶から発せられている。
余りにも異様な状況で、もはや歩道に流れるメロディーすらも、彼女には不気味なものに思えて来た。膨れ上がる恐怖心と、圧倒的な孤独感。
自分の置かれた状況が、敦子には全く理解出来ない。誰か助けて欲しいと願いながら、縋る思いで街中を歩き回る。
そんな時、敦子の耳に人の声が聞こえた。正確には声ではなく、誰かの鼻歌だが。恐らくは女性のものだろう。敦子は鼻歌の主を探す。
少しずつ大きくなっていく鼻歌を追いかけて、買い物帰りの主婦らしき後ろ姿を敦子は発見する。
「あ、あの! すいません!」
歩き回って疲労を感じ始めている敦子の息は荒い。彼女の体力はそれほど多くないので、これ以上歩き回るのは厳しい。
誰かを見つける事が出来て良かった、敦子は胸を撫で下ろす。こんな状況で出会えた人間が、本当に信用して良い相手かも疑わずに。
「あ、あの!」
何の反応も見せない女性に焦れた敦子は、再び女性に呼び掛け女性の肩を叩く。振り返った女性の顔には、眼球がなく目から血が流れている。
そんな状態であるにも関わらず、女性は上機嫌で鼻歌を歌い続けている。あまりの光景に敦子は悲鳴を上げる事しか出来ない。
「ひぃっ!?」
明らかに普通の人間とは思えず、敦子は肩から手を離して後ずさる。そんな敦子を謎の女性が、少しずつ追いかけて来る。
少なくとも捕まるのは不味いと感じた敦子は、一気に振り返って駆け出した。ない体力と運動神経を総動員して、敦子は全力で疾走する。
しかし歩き疲れていた敦子では、そう長く走る事は出来ない。数分で限界が来た敦子は、躓いて転んでしまう。
「きゃっ!?」
何かが近付いて来る気配は感じているのに、もう立ち上がって逃げるだけの体力はない。絶望的な状況で、敦子は必死に足掻く。
「あの、お姉さん、大丈夫ですか?」
「こっちに来ないで!!」
敦子は全力で持っていたカバンを投擲した。大した威力は無かったものの、声を掛けて来た何者かには届いたらしい。
「…………何で俺、毎回こんなリアクションをされないといけないの?」
敦子のカバンを受け止めたのは、霊能探偵の助手をやっている少年。大江イブキと共に、この空間にやって来た碓氷雅樹だった。
彼は元々短めだった髪を、栃木から帰ってから更に短くした。ベリーショートが良く似合う、顔立ちの整った少年だ。
「あ、あれ?」
先程見た謎の女性ではなく、高校生らしき少年が地面に転んだ敦子を見ている。彼女が投げつけたカバンを持った状態で。
「そういう星の下に生まれたって事じゃない? アイツの村に生まれるぐらいだ、君に女運はないよマサキ」
更にその後ろには、恐ろしく美しい女性が立っている。腰まであるポニーテールが、背の高い彼女にはよく似合っている。
180センチの高身長は、パンツスーツ姿によってより強調されている。人間離れした整った顔、女性らしい完璧なボディライン。
彼女は大江イブキ、またの名を酒吞童子。人間ではなく鬼として生まれた、妖異と呼ばれる存在だ。
「全く、またこんなモノが出来るから、人間には困らせられるよ」
そうボヤキながら、イブキは指先から鬼火を生み出す。テニスボールぐらいの蒼い炎が、ゆっくりと地面に落ちて行く。
すると一瞬で炎が広がり、空間そのものを焼いていく。しかし敦子や雅樹に熱は感じられない。1分程すると、敦子の知っている場所に変わっていた。
「あ……え?」
困惑している敦子だったが、イブキが敦子の頭部に触れると彼女の意識は途絶えた。再び敦子が公園のベンチで目を覚ますと、少年と美女はもう居ない。
そもそも敦子は、会社を出た後何をしていたのか覚えていない。スマートフォンを確認すると、推しの配信は終わっていた。
「うわ! 最悪……」
疲れているのかなと思った敦子は、公園を出て帰路に着いた。
たまに少年漫画みたいな話も混ざりますが、これホラーなんですよねってエピソードから始まる3章です。




