第62話 碓氷雅樹という人間
碓氷雅樹は蛇女のアカギに囚われている。洞窟の中に作られた、体育館ぐらいの大きな広間の中で。
その奥にあるのは、床よりも高い位置へ置かれた石造りの玉座。アカギの座るすぐ横で、雅樹は胴と腕を纏めてグルグルと縄で縛られている。
彼は木製の小さな神輿に乗せられていた。まるで生贄だと言わんばかりに。これでは良い見世物だ。
アカギ達が作ったと思われる広場には、色々と装飾が施されている。壁に飾られた絵や、高そうな調度品が置かれている。
雅樹にはアカギ達の感性が良く分からなかった。屋敷ではなく洞窟を飾るのは蛇だからなのか。
人間でしかない彼には、あまり理解出来ない価値観を元に作られた空間だった。
「アカギ様、酒呑童子と玉藻前が我らの支配圏に入りました」
アカギの部下である蛇女が、女王に跪いて報告する。監視をしている者達から情報が入ったのだろう。
「こちらでも確認した。ノコノコとやって来おって」
アカギの目には視えている。いつも通り黒のパンツスーツ姿をした大江イブキと、真っ白な剣道着を着た那須草子の姿が。
栃木と群馬の県境を越えて、猛スピードで走って来ている。人間は夜目が効かないので、2人が夜道を爆走していても気付かない。
人の少ない場所を選びつつ、真っ直ぐにアカギの待ち構えている洞窟へと向かう2人。
全てが計画通りに進んでおり、アカギは気分が非常に良かった。対して雅樹の気分は最悪だった。このままでは自分が足手まといになってしまう。
「これで後はあの女共を殺すだけだ」
「くっ……」
雅樹は歯噛みする。もしこれで本当にイブキと草子が殺されてしまったら。そんな未来は受け入れられない。
アカギの様な妖異がイブキと草子を喰らい、強力な妖異となって日本を支配する。人間にとって最悪の未来でしかない。
故郷の幼馴染達が脳裏をよぎる。上京学園の友人達、そして永野梓美。アカギの勝利を許せば、皆が良い様にされてしまう。
それだけは認められないと、雅樹は決意を固める。どうせ自分は両親の死を招いてしまった身。
死にたくないとイブキに縋って今日まで生きて来たけれど、せめてここで足を引っ張らずに済むのなら。
このまま人質として利用され、イブキと草子に迷惑を掛けるぐらいなら死を選ぶ。それが雅樹の意思だった。
「アカギ様! その男!」
「甘いわ小僧」
舌を噛み切ろうとした雅樹だったが、アカギの長く太い尾が頭部を締め付け口が動かせない。どうやら見抜かれていたようだ。
そのまま無理矢理玉座の前に連れて来られた雅樹は、部下の蛇女が持って来た布を口に押し込まれてしまった。
これでは自殺を図る事も出来ず、アカギの作戦通りに事が運んでしまう。何とかしないといけないが、雅樹に出来る事は少ない。
まだ足は縛られていないので、岩に頭部をぶつけて出血死を狙う。それぐらいしか道はないと雅樹は腹を括る。
「まだ何かしようとする意思があるか。その気概だけは認めてやるが面倒だ」
アカギの尾で拘束された雅樹の首元に、後ろからアカギが顔を寄せる。次の瞬間、刺す様な痛みが雅樹を襲う。
かつてイブキがやった様に、アカギの牙が雅樹の首の皮を貫いている。そのまま死なない程度に、アカギは雅樹の血を吸った。
結構な量の血を抜かれた雅樹は、貧血状態となり動きまわる事が出来ない。もう雅樹には打てる手が残っていない。
「なるほど、貴様は随分と美味いな。酒吞童子と玉藻前を喰った後に、楽しませて貰おうか」
神輿に放り投げられた雅樹の心を、悔しさが満たしていく。彼は自分の無力さを痛感している。結局人間では、妖異を止められ無い。
分かっていた事だったが、こうも無力なのかと雅樹は苦しむ。どれぐらいそうしていたのか、少しだけ雅樹の貧血症状が緩和した。
それでも勢い良く岩に頭部をぶつける程の元気はない。無力さに苛まれながら雅樹は何とか正座の姿勢を取った。
「来たか」
アカギが広間の入り口を睨む。1分ほど経った所で、イブキと草子が広間へと入って来た。
「マサキ!」
「まー君!」
聞き慣れた美女達の声が、雅樹の耳に届く。来て欲しくなかったのに、ここまで来てしまった。雅樹の望まぬ展開が始まろうとしている。
広い空間の中で、大勢の蛇女や大蛇が蠢いている。イブキと草子を殺す為に集められた戦力だ。
妖異達の権力闘争に巻き込まれて、イブキと草子が死んでしまう。他ならぬ自分のせいで。雅樹はそんな結果を望んでいない。
「うー! うー!」
自分は無視して戦ってくれと、雅樹は伝えたい。だけど口に布を突っ込まれていて言葉が出せない。
「貴様は大人しくしていろ」
アカギの太い尾が雅樹の頬を打ち据える。その瞬間に激しい怒りのオーラがイブキと草子から発せられた。
ただ攫われただけでも腹立たしいというのに、目の前で雅樹を傷つけられた。特に草子の怒りは大きい。
生まれた時から見守って来た、草子にとってとても大切な人。愛する男であり、特別な存在。草子にとってはただの人間ではない。
「アカギッ! 絶対にただで済まさないわ」
既に草子は狐耳と尻尾を発現させている。戦闘態勢で刀を構えている。隣に立つイブキも黙ってはいるが、こちらも戦闘準備は万端だ。
肉食恐竜の鉤爪に似た黒く鋭い角が、イブキの額から生えている。怒りに揺れる瞳は、紅い輝きを放っている。
イブキと草子の放つ威圧感に、下っ端の蛇女達が怯えた様子を見せる。だがアカギは怯えていない。余裕の態度を崩さない。
何故なら彼女の手元には、イブキと草子が取り戻したい男の身柄があるからだ。殺すも生かすもアカギ次第。
「分かっているのか? この男は私の手中にある」
縄で縛られた雅樹の首元に、アカギが鋭い爪を近付ける。プツリと爪の先が雅樹の首に刺さって、鮮血が滴り落ちる。
「チッ……」
悔しそうにイブキが舌打ちをする。アカギが言っていた様に、イブキが止まった事で雅樹は絶望する。
もしかしたらイブキだけは、気にせず戦ってくれるのではないか。そんな淡い希望を抱いていたから。
イブキが雅樹を大切にしている。それがもっと違うシチュエーションで知れたなら、どれだけ良かったかと雅樹は心を痛める。
「さあて、簡単に貴様らを喰い殺してはつまらない。少し遊んでやろう」
優位に立っている事を確信しているアカギは、イブキを草子を甚振ろうとした。状況に胡坐をかいて雅樹から離れたその瞬間だった。
「まー君!」
草子が手に持っていた刀を雅樹に向けて投擲した。綺麗な弧を描いて飛んだ刀が、雅樹を縛るロープを切り裂きながら神輿の床板に刺さる。
美しい波紋を持つ日本刀が、雅樹のすぐ近くにある。その意味を悟った雅樹は、急いで刀を床板から抜いて構える。
「ふん、血迷ったか。人間の小僧が、そんな刀1本で何が出来る」
アカギは知らない、草子の投げ渡した刀がどんな逸品であるのか。アカギは知らない、碓氷雅樹という人間の本質を。
刀をへし折ってしまえば良いだけ。こんな茶番に意味はないと、アカギは太い尾の一撃を放つ。ただの人間では防げない一撃を。
アカギの尾が鞭のようにしなり、鋭い打撃となって雅樹へと向かう。しかしアカギも、今はまだ雅樹を殺すわけにいかない。
普通の人間なら認識も出来ずに直撃する速度だが、手加減された威力ではあった。そしてそれは、アカギの油断が生んだ隙。
「小童! 左だ!」
「くっ!?」
雅樹は知らない男性の声に従い、必死で刀を振るう。すると豆腐でも斬ったかの様に、あっさりとアカギの尾は斬り裂かれた。
まだ貧血症状は残っていても、しっかりと反応して見せた雅樹。それは草子がこれまで彼に叩き込んだ技術の賜物。
妖異が教えた剣術と、厳しい鍛錬の成果。雅樹が若藻村で唯一勝てなかったのは、妖異でも最高位の力を持つ草子だけ。
最近鍛錬をサボっていたので少し鈍ってはいるが、玉藻前に磨かれた雅樹の剣技は本物だ。彼女が教えたのは現代の剣術ではなく、かつて戦の為に生まれた技。
現代を生きる人間の剣士としては、最高峰の技術を持つ雅樹が、妖異に通用する妖刀を握ったら。例え勝てなくても、負けない戦いは出来る。
「ぎゃあああああああああああ!?」
尾の先をバッサリと斬られたアカギの悲鳴が、洞窟内に響き渡った。
イブキは思ったより雅樹が戦えるから、防御特化の木刀を渡す。
草子はこうなると分かっているから、攻防一体の妖刀を渡す。
関係性の違いがここで出ています。




