第6話 転校
大江イブキが所有するビルで、碓氷雅樹が暮らし始めて約1ヶ月が経過した。
世間はGW明けのやや複雑な気分で溢れているが、雅樹はそれ以上に複雑な気分だ。
なんせ事件以降は一度も外出しておらず、久しぶりに外へ出て1人になる。
餌扱いとはいえイブキの存在は大きく、強者に守られている安心感が失われるのは雅樹にとって不安要素だ。
しかしいつまでも引き篭もりたくはないし、学校にも行きたいという気持ちはある。
「ふむ、どうしたんだい? 行かないのかな?」
「いえ……その、行くつもりではあるんですけど」
紺色のブレザーに着替えて、スポーツバックを持ち登校する準備はした。
しかし雅樹には、ビルから出る勇気が足りていない。怯えながら隠れ続けるのは、嫌だと思っているのに。
「まだ怖いかい? ならこれを持って行くと良い」
そう言うとイブキは、懐から小さな御守りを取り出し丸テーブルの上に置いた。
「これは?」
「私の妖力が詰めてある。これがあれば、弱い妖異は君に近付かない」
妖異は妖力と呼ばれる特別な力を所持している。格の高い妖異ほどその量は多く、濃さも変わって来る。
妖力は西洋ファンタジーの魔力に似た性質を持っている。その力を使って、様々な事を妖異は行う。
支配圏を主張する為の線引きに使ったり、鬼であれば鬼火を出したり。
周囲に巡らせて、イルカのエコーロケーションの様な使い方も出来る。
だが全ての妖異が同じ事を出来るわけではない。雅樹を襲った餓鬼の様に、身体の強化しか出来ない者も少なくない。
その妖力を高める為に1番効果的なのが、妖異や人間を喰らう事だ。より多くを喰らった妖異ほど、蓄えている妖力は多くなる。
妖力は生命線でもあり、枯渇すると死んでしまう。ただ自然に消耗する量は僅かであり、頻繁に人間を喰らう必要はない。
そして妖異同士なら、お互いの妖力を感じ取れる。相手がどれぐらい強いかもそれで分かる。
「そんなモノがあるんですね」
「そうだよ。そして私の妖力は濃くて多いからね。弱者は怖がって君に触れないよ」
強力な妖異はこうやって、他者に渡したくない人間へのマーキングに似た行動を取る事がある。
自分より強そうな妖力を感じる人間には、殆どの妖異が近付こうとはしない。下手に手を出すと、飼い主と争いになるリスクがあるからだ。
「何か犬や猫の玩具になった気分……」
雅樹としては有り難いものの、何とも言えない気分になった。ペットの犬がお気に入りのボールに、自分の匂いをつけるみたいで。
「おや要らないのかい?」
受け取ろうとしない雅樹を見て、要らないのかと思ったイブキが片付けようと手を伸ばす。
「い、要ります要ります!」
慌てて雅樹は丸テーブルから御守りを掴み、首から下げておいた。自分の命を守ってくれるなら、細かい事は気にしないで良いやと。
それにあくまでイブキは善意でくれると言うのだ、不意にしてしまうのも失礼だろうと雅樹は考えた。
「そ、それじゃあ行って来ます」
「気をつけて行くんだよ」
キセルを片手にイブキは雅樹を送り出した。勇気を出して玄関を出た雅樹は、久しぶりに陽の光を浴びる。
妖異なんて存在が当たり前に居る世界が、怖くて仕方がなかった。
心がおかしくなりそうになっては、イブキに感情を喰われて過ごす日々。
それがいざ太陽の光を浴びてみれば、清々しい気分に包まれて行く。
「陽の光に当たるのが、メンタルに良いって本当なんだな……」
雅樹が外に出ても平気なのは太陽のお陰か、それともイブキから貰った御守りのお陰か。
いずれにしても雅樹は、妖異を恐れ震えて眠る生活を脱してみせた。
イブキの強引なメンタルケアもあったとは言え、元々精神力は強い方なのだろう。
どうにか日常生活を取り戻した雅樹は、新しい学校に向けて歩きだした。
(上京学園か、どんな学校なんだろう? 学校案内は読んだけど)
京都市上京区紫野、落ち着いた雰囲気のある土地にある私立の高校。上京学園と名付けられた高校は、文武両道の進学校である。
運動部と文化部共に、良い成績を残している。また大学進学率も高く、京大への進学者もそれなりに居る。
だが雅樹としてはもう剣道を続ける意欲が薄まり、部活動に明け暮れる日々を送る予定はない。
普通で平凡な1人の高校生として、特に目立たずそれなりに楽しく過ごせたら良いと思っている。
ただド田舎の辺鄙な村に生まれた関係で、体育祭や学園祭への憧れは強い。外部からのお客さんが来る様な、漫画やドラマで観た憧れの舞台。
友達と帰りにカラオケへ行ったり、ラーメン屋に入ったりしてみたい。等身大の男子高校生として、昔から憧れていた事を全力で楽しみたいと雅樹は思って来た。
予定とは大きくズレてしまったが、これから再出発をするのだと考えたら元気も湧き出す。
(思っていたより外は普通だ)
イブキから教わった妖異の知識の1つに、妖異は人間と比べれば総数はかなり少ないというものがある。
妖異には寿命がなく、子孫繁栄の必要性が薄い。種族によっては勝手に発生する。妖狐などの動物から妖異になったタイプなら、子孫を残す習慣があるぐらいか。
なお現在は食糧難を解決する為に、妖異はあまり子孫を作らない傾向がある。下手に増えて人間が足りなくなると、また食糧難と絶滅の危機を迎えてしまうからだ。
そんな現状がある為に、妖異は劇的に増える事もなく、急激に減る事もない。
(殆ど歩いているのは人間だって、イブキさんが言ってたよな)
何よりこの地はイブキの支配圏であり、ここに住まうのは彼女に従う妖異ばかり。
イブキが雅樹を自分のモノとした以上は、彼が襲われる可能性はかなり低い。
どちらかと言えば妖異の活動が鈍る昼間より、イブキの助手として動く夜の方が危険度は高い。
その事実に気付いているのかいないのか、雅樹は期待を胸に学園へと歩みを進める。
(この感じだったら、大丈夫そうだ)
思っていたよりも平気だったからか、雅樹は少し浮かれていた。
理不尽で横暴で人間に対するデリカシーに欠けるイブキだが、雅樹の心を救うという意味では役立っていた。
人外の存在に感情を喰われ続けて、感覚が麻痺したというのもあるだろう。
(あ、同じ制服だ)
5分ほど歩いていると、チラホラと同じ制服を来た生徒達の姿が見られ始めた。
大人しそうな男子生徒や、ギャル風の派手な女子生徒達も歩いている。
明るい雰囲気の男子生徒達が、何人も自転車で駆け抜けていく。
(高校生、なんだよな。俺も)
滅茶苦茶になった高校生活が、自分の所に戻って来た事を雅樹は感じ始めた。
当たり前の登校風景が、物凄く有り難いものに見えてくる。ただ通学路を歩いているだけだというのに。
もしイブキがこの場に居たならば、喜びの感情を喰われていただろう。
しかし今イブキは近くにおらず、雅樹は存分に噛み締める事が出来た。
(友達、出来るかな? 恋愛もするのだろうか?)
陰鬱とした日々から解き放たれ、雅樹の心に希望と期待が満ちていく。
高校生らしい青春の日々を、自分にも送れるのかという思いが膨らむ。
そろそろ暑くなって来た5月の日差しを浴びながら、雅樹は少しずつ学校へと近付いていく。
住宅地を抜けると、良く手入れの行き届いた校門と、綺麗な校舎が雅樹の視界に映った。
転校前の公立高校よりも、私立だからか全体的にお金が掛かっている印象を雅樹は感じた。
(ここが、俺の通う学校なんだ……)
校門の前まで来た雅樹は、真っ白な校舎を見上げる。これから約3年間を、過ごす事になる建物だ。
先ずは職員室に行って、それから皆の前で自己紹介をしないといけない。初めての転校に、雅樹は緊張をしていた。
(よし、行くぞ!)
学校に妖異が居る事も忘れてはいない。その点はやや引っ掛かるものの、雅樹は校内に入っていく。
新しい学校生活の始まりに、期待と不安を抱えながら雅樹は歩みを進めた。




