第5話 青春を送って貰うよ
大江イブキの保護下に入り、碓氷雅樹が生活を初めて3週間が経過した。
日々感情を喰われているが故か、本来なら病んでもおかしくない雅樹はある意味立ち直っていた。
強引に苦しみを吸い出された状態を、真っ当な精神状態と言って良いのかは分からないが。
ただ結果的に普通の生活を送れているのだから、雅樹にとっては良かったのかもしれない。
余裕が出来たからこそ雅樹は、ただ養われるだけの状況を良しとは考えなかった。
いつもの様にリビングで朝食を済ませた後、雅樹はイブキに声を掛けた。
「あの、イブキさん。俺も何か手伝います。家事とか、仕事とか」
お互い座布団に正座した状態で、丸テーブルを挟んで向き合う。
雅樹が命を守って貰う対価は、自らを差し出す事。しかし衣食住を保証する対価は、現状何も払っていない。
両親は不慮の事故で死亡という事になっており、保険金や遺産、家を売却した資金が雅樹にはある。
だがそれも無限にある訳では無いので、バイトをするなりして払うつもりで居た。
「急にどうしたのかな?」
一体何の話をしているのか、イブキは分かっていない様子だ。
「生活費とかの、対価を払ってないなと思って」
稼いでもいない癖に、対価を払うなんて偉そうな事を言うべきではない。それは雅樹とて分かっている。
ただ意思表示ぐらいはしておこうと、彼なりに考えた結果だった。
「……ふむ、なるほどね」
愛用しているキセルを取り出したイブキは、火を付けてタバコを吸いながら考え込む。
正直イブキとしては、お金に困ってはいない。掟を破り人間を食い散らかしたり、不当な扱いをする妖異から人間を守る。
それがイブキの現在担っている役割であり、国からその報酬を貰っているので資産は潤沢。
おまけに献上品として色々と送られてくるので、食品や物に困る事も殆どない。
ただ雅樹との関係はあくまでも契約者であり、家族や番になったわけでもない。
養う必要性は特になく、妖異の被害に会った人間を保護する施設だってある。
それでも雅樹を保護したのは、イブキの私欲である。だから生活費の支払いなんて気にしていない。
もちろん雅樹が人として、無償で養われるのを嫌った心情は理解出来た。
これまでに雅樹の感情を喰らって来た事で、彼の人間性は伝わっているから。それに改めて考えれば、雅樹を使う意味もある。
「そうだねぇ……なら助手でもやって貰おうかな」
キセルでタバコを吸いながら、イブキはそんな提案をした。
「助手、ですか?」
「君は妖異を引き寄せる。妖異を探す時に役立つだろうし」
「…………それって、要するに囮って事ですよね?」
そうだよと笑いながらイブキは返した。雅樹としては複雑な気分だが、イブキの仕事を思えば納得は出来る。
普段何をしている鬼なのか、既に聞いたから知っている。イブキの仕事を手伝うという事は、人助けにも繋がる。
自分の様な被害に会う人を、減らす手伝いをする。それは雅樹にとって、とても大きな意味がある。
それが例え囮役だったとしても、過去を乗り越える為に頑張ってみようと雅樹は思った。
このまま妖異に怯えて引き篭もるよりも、幾らかマシな人生に思えたから。
「厄介な奴が相手だと、探すのが面倒くさくてねぇ」
イブキが対峙する様な妖異達は、掟を理解した上で破る者達が多い。もしくは掟を知らない孤独な者か。
後者であればあまり逃げ隠れをしないので、わざわざ探して回る必要がない。
しかし前者の場合は粛清を逃れる為に、あれこれと対策をする事がある。
「そんな妖異も居るのか」
「そりゃあ私達にも個性があるからね。全員が真面目に掟を守りはしないさ。君達人間だってそうでしょう?」
元々妖異という存在は、好き勝手に生きている者が多い。掟なんて守る気はないと、無視する者は珍しくない。
イブキの様に自らまともに守ろうとする方が、どちらかと言えば珍しい。渋々従っている場合が殆どだ。
そもそもイブキにしても、雅樹を囲うという行動に出ている。掟を破ってはいなくとも、まあまあグレーな行為だ。
妖異の間で交わされた掟は、無闇に人間を喰い荒らさない。ただそれだけなので、厳密に言えば破ってはいないと言える。
人間を囲い養ってはいるが、無闇でもないしイブキは喰い荒らしてもいない。
掟の緩さを突いた行為であり、詭弁と言えばその通りでしかない。
だが似たような事をしている妖異は多く居るので、問題視される事はないだろうとイブキは言う。
「それよりマサキ、そろそろ大丈夫そうだから学校に行って貰うよ」
「えっ!? な、なんで?」
突然告げられた、学校に行けという発言。ずっとここで暮らすだけだと思っていた雅樹には、突然過ぎて意味が良く分からない。
「何故って、学生は学校に行くのが本分だろう? 諸々の手続きは済ませてある。君は両親と共に事故に遭い、入院していた。そして知り合いに引き取られて、転校する事になった。そういうシナリオさ」
通う高校はイブキの持ちビルから、徒歩10分程度の距離にある私立の高校である。
イブキの支配圏に含まれているので、そう簡単に雅樹が襲われる事はないとイブキは主張する。
「支配圏って、何ですか?」
それはまだ知らされていない知識であった為、雅樹は確認を取る事にした。自分の命に関わる問題でもあるから。
「まあざっくり言えば、縄張りみたいなモノさ。私が線を引いた範囲内では、私に許可なく人間を喰えない。勝手な事をしたら、殺されても文句は言えない」
「それって、大丈夫なんですか?」
「支配圏内の妖異が、どこで何をしたか私は把握出来る。それでも破る馬鹿は居るけどね、暗黙の了解だからさ」
妖異の掟が出来た後に生まれた、独特のルールである。強力な個体が示すテリトリー内は、その妖異が支配する狩場である。
京都はイブキの支配圏であり、雅樹の事件はその暗黙の了解を破った馬鹿という事だ。
それ故に問答無用で殺されてしまったというのが、雅樹の事件に関するあらましである。
「…………破られているじゃないですか」
「あの時は君を守る契約をしていなかったでしょう? それにあの餓鬼はよそ者だった」
京都で暮らしいている妖異の殆どが、イブキに従う配下の者達だ。強い妖異はそうして集団を作る。
秩序がある程度担保された土地では、人間を喰らう行為が非常にやりやすくなる。
上手に隠蔽されるので、人間が妖異の存在を知る事はない。強大な妖異は、人間の権力者を抑えているのが普通だ。
少々何らかの事件が起きた所で、問題になる事はない。徹底的に情報統制が行われる。
そこまでするのは妖異の側にも人間の側にも、相応の理由があるからだ。
不審な事件が多発すると、怖がって別の土地に逃げ出す者が出てしまう。
しかし平和な土地なら、出て行く事はない。それが例え仮初の平和であったとしても。
妖異達が人間を管理する経験から得た、ノウハウが積み重なっていった結果だ。
「それに君が行く学校には、私に従う妖異が居る。だから安心して良いよ」
「…………その妖異、大丈夫なんですよね? どんな妖異なんですか?」
「細かい事を気にするねぇ。知ってどうするのか分からないけど、居るのは鬼と雪女だよ」
一度は命を狙われたのだから、慎重になる雅樹の反応は普通である。
しかし絶対的強者であるイブキは、そこまで理解してやる事が出来ない。妖異と人間では、価値観が違うという所が如実に出ていた。
「鬼はともかく雪女? 普通山奥に居るものでは?」
雪女と言えば、雪山で男を喰らう妖怪で、太陽の熱を嫌う筈。それが雅樹の認識だった。
「偏見は良くないなぁ。彼女に失礼だよ。確かに暑いのは嫌うけどね、溶けて死んだりはしないよ。あれは人間が勝手につけたイメージだからね」
「そ、そうなんですか」
なんで俺は今若干怒られたのだろうかと、雅樹は少しだけ不満を覚えた。
しかしそれ以上に、外へ行く不安の方が大きい。餓鬼に襲われた事件以降、雅樹は外に出ていない。
「本当に、大丈夫なんですか?」
「君については周知徹底してあるよ。私のモノだから手を出すなと。この前とは前提が違う」
雅樹は進学をしたくて地元を出たのだから、学校に通えるなら通いたいと思っている。
しかし先日の事件以降は、ただ生きる事だけが目標だった。それが学校に通えるという話になり、雅樹の心は揺れていた。
僅か1週間ほどで、終わってしまった高校生活。もしまた再開出来るのなら、興味は当然ある。
「なんで、学校の手配を?」
そこも雅樹には分からない部分だ。何故転校の手続きまでしてくれていたのかと、疑問に思っても仕方がないだろう。しかしイブキの回答は一貫していた。良くも悪くも。
「青春をしている時の人間はね、1番美味しいからだよマサキ。ちゃんと青春を送った人間と、送れなかった人間では味の深みが違うんだ」
嬉々として人間の味について語り始めたイブキを見て、雅樹は溜息をつくしか無かった。
不安は残るものの、とりあえず高校には通わせて貰えるらしい。その対価は、味が変わるらしいからそれで良いかと雅樹は考えた。
「あ、でも助手の話はどうするんですか?」
「そっちは基本夜だから問題ないよ。妖異が事を起こすのは夜だからね」
ここ最近は激動の日々だっただけに、雅樹の心労は多大なものがある。
ただもう少しだけ人間らしい生活を取り戻せると知り、沈んでいた雅樹の心は少しだけ前向きになれた。