第3話 新しい生活
またこの夢かと、少年は思った。もう見飽きた夢で、今更無かった事には出来ない過去。
両親が妖異に喰われ、自身も死にかけた経験から2週間が経過していた。
大江イブキに保護された少年、高校1年生の碓氷雅樹は悪夢から目覚めた。
「はぁ……」
毎日のように夢で見るあの日の惨劇。思い出したくもない両親の死。
平和な日常が呆気なく破壊され、色々なものを失った。幸せな日々も、ありきたりな平穏も、知りたくなかった仮初の平和も。
妖異などという人外のバケモノがあちこちに居て、当たり前の様に社会に溶け込んでいる。
雅樹から見れば先程見た悪夢よりも、よほど悪夢みたいな現実だ。
とは言えそんな現実を、生きている以上は受け入れるしかない。
時計を見れば朝7時、起きるには丁度いい時間だ。雅樹は与えられた部屋のベッドから降りた。
最近まで住んで居た家と違い、私物は殆ど室内にない。今更剣道を続ける気にはなれず、漫画やゲームも素直に楽しめない。
「今日も嫌な朝だ」
また過酷な現実を受け入れる所から始まった朝、雅樹は寝間着から私服に着替えて部屋を出る。
現在の雅樹が暮らしているのは、新築の2階建てから雑居ビルの3階に変わっている。
大江イブキが所有する、京都市北区の紫野にある商店街の一角。大江探偵事務所の上にある居住スペース。
その建物は1階が空きテナントで、2階が探偵事務所となっている。そう珍しくもない外観の3階建てビル。
それなりの築年数を感じさせる経年劣化により、壁面には塗装の剥がれた部分があちこちにある。
新たな仮住まいで暮らし始めた雅樹は、毎朝起きたらリビングに向かう。
そこには少しだけ見慣れた、絶世の美女がいる。
「やあマサキ、起きたみたいだね」
非の打ち所がない美しい正座で、座布団に座っているイブキがそこに居た。
いつも通りのパンツスーツ姿で、丸テーブルに置かれた緑茶を穏やかな雰囲気で飲んでいた。
「……おはようございます、イブキさん」
恐ろしく整ったパッチリとした睫毛も、日焼けを知らない白い肌も、朝日を浴びて艶々と輝く黒い髪も、全てが人間のそれではない。
それを雅樹は知っている。もしこれでイブキが普通の人間であったなら、美女と暮らす幸せな毎日と思えたかもしれない。だが彼女は、人間ではない。
「どうかしたのかい?」
「…………夢を見ただけです」
本当なら悪い夢とか、ストレートに悪夢と言いたい。しかしそれを伝えれば、嬉々としてイブキが感情を喰らいに来る。
それをこの2週間で嫌という程に雅樹は思い知った。だから濁したのに、隠し方が下手過ぎた。
いつの間にか雅樹の目の前まで来たイブキが、雅樹を抱き寄せて感情を喰らおうとする。
思わず雅樹は、イブキの両肩を抑えて抵抗をした。意識してではなく、本能的に反応した結果だ。
本当ならその程度でイブキを止める効果なんてない。筋力の差は凄まじい程にある。
だがどうしてかイブキは動きを止めて、雅樹を正面から見据える。
身長が175cmの雅樹と、180cmのイブキは殆ど顔の位置が変わらない。
「おや? 抵抗するのかな?」
「いえ……そういうつもりでは……」
これは鬼にとっての食事と同様の行為でしかなく、性的な意味でのキスではない。
だがまだ多感な年齢である雅樹にとっては、非常に複雑な気持ちにさせられるのだ。
「ど、どうぞ……」
「それで良いんだ。契約だからね」
鬼だと分かっていても、相手は麗しい大人の女性。どうしても気にはなってしまう。
そして同時に、また感情を喰われるあの感覚が気持ち悪い。雅樹は全然慣れる気がしなかった。
悪夢を見て抱いた感情と、現実を受け入れた時の感情、そして現状について抱いている感情が雅樹から消えていく。
イブキが唇を離すと、また雅樹の心は強制的にフラットになっていた。
何も感じない虚無が心を満たすというよりも、全てを吸い出された無である。
「こんなに悩むぐらいなら、素直に渡せば良いのに」
そう言いながら唇を舐めるイブキは、感情の高ぶりに合わせて目が紅く輝いていた。
どうやら妖異は人間の感情を喰らう時、何を考えていたかも分かるらしい。それは雅樹も早い内に理解させられた。
つまり雅樹の内心や葛藤は、イブキに喰われた時点で全て伝わる。16歳の高校生にとっては、とんでもないプライバシーの侵害と言えよう。
例えばイブキに情欲を掻き立てられたとすれば、それも相手に伝わってしまう。
「別に……ただ、自分で悩む事も必要かなって」
それは偽りならざる雅樹の本心であるが、心情を知られる羞恥心の様なものもある。
だがイブキはそれを分かっていて、行動している節がある。それをこの2週間で、雅樹は何となく感じた。
「ははは。殊勝な心掛けだけど、今の君には難しいよ」
そしてイブキの言い分は正しい。16歳の少年に、両親を目の前で喰われた苦しみを処理する強さはない。
普通なら雅樹は、今頃心を壊して入院生活をしていただろう。精神病院で怯えて暮らす日々だ。
そもそも大人でも精神が保つか、怪しいレベルの事件である。
「勘違いして欲しくないのだけど、私は君を弄びたいのではないよ? 私は人間が好きだからさ」
それは餌としてでしょうと、雅樹は言いたかったが止めておいた。どうせ答えは分かっている。
彼女は人間ではなく鬼で、自分とは価値観が違う事を分かっている。
「さてそれでは良い時間だ、朝食にしようか」
「……はい」
今食べたじゃないかというツッコミは、先週を最後に言わなくなった。
どうもイブキは、人間の食べる料理も食べるらしい。なんなら自分でも作る事が出来る。
人間を食べるのではないのかと、初めて知った時に思わず雅樹は尋ねた。そして返って来た回答はこうだ。
「妖異が喰らうのは人間だけじゃないさ。ただ1番栄養になるのが人間というだけでね。基本的には雑食さ」
雅樹には良く分からない話であったが、そういうモノかと納得する事にした。
人間よりも牛や豚の方が、可食部位が多い筈なのになぁと思いはしたが。
何より鬼の伝承を調べれば、人間が作った料理を食べたり酒を飲んだりする話は幾らでもある。
「さて雅樹、今朝はパンと米のどっちが良い?」
「…………じゃあパンで」
朝7時半過ぎ、スラックスにカッターシャツを着たイブキが台所に立っている。
恐ろしい怪物を瞬殺出来る鬼が、エプロンをつけてスクランブルエッグを作る姿は何なのか。
毎朝この姿を見ている雅樹は、未だにこの光景が見慣れない。この鬼は何がしたいのだろうかと。
「何でイブキさんは、料理が出来るんですか?」
「長生きしてるとさぁ、暇な時間がとても多いのさ」
システムキッチンで調理を続けながら、イブキはそう答えた。
映像としての違和感は凄いが、理由は理解出来たので雅樹はとりあえず良しとした。
正直雅樹は契約した時、家畜の様に飼われるのかと思っていた。しかし実際は、あまり生活が変わっていない。
イブキの気分次第で感情を喰われるのは変化だが、人間らしい生活を許されている。
家畜や奴隷の様に、尊厳も何も無い生活ではない。プライバシーは一切無いけれども。
「さあ出来た。食べようか」
「ありがとうございます」
毎日こうして、雅樹はイブキと食事を取る。朝昼晩と3食を2人で食べる日々。
たまにイブキは用事があると言って、出ていく時があるけれども。その時は作り置きが用意されている。
被害者保護という観点で見れば、そう悪くはないのかも知れない。強制的で暴力的なメンタルケアが付随するだけで。
「あの……今日も良いですか?」
食事をしながら雅樹は、イブキの様子を伺いながら控えめに尋ねた。
ここ数日、雅樹はとある講義をイブキから受けている。その事についての質問だった。
「構わないよ。妖異について知りたいのでしょう?」
「はい、お願いします」
それは妖異とは何か、どういう存在なのか。自分を狙う存在について、知る為のもの。
ただ怯えて暮らすだけじゃなくて、相手を知る事で対策を自分なりにしようと考えた結果だった。