第2話 契約
助けを求めて思わず手を伸ばした少年に、謎の美女は問いかける。
「これはどういう事かな? まだ何か?」
「あ、いや、その……」
少年としても、中々ストレートに言い辛い話である。何者か分からない見知らぬ女性を相手に、男性でありながら助けてくれなんて。
そんな事を恥ずかしげもなく言える男性が、世の中にどれだけ居るだろうか。少年は地元で剣道を習っていたので、それなりに戦う事が出来る。
しかしその力も全く通じず、言い訳のしようがない完敗だった。相手がバケモノだったとしても、負けは負けだ。もちろん剣道を習ったからと言って、熊でも何でも勝てる様になるわけではない。
あくまで人対人の競技でしかなく、崇高な精神を育む為の武道なのだ。決して人外のバケモノを倒す為に習うのではない。
それはそうなのだが、無様な敗北を見られた上で庇護を求めるというのは、少年にとってプライドを投げ捨てる様な行為だ。確かに両親を失い、他に頼る相手が思い当たらないとしてもだ。
「ああ〜。もしかして、助けて欲しいのかな?」
「いや、その……」
今まさに葛藤していた事を、そのまま言い当てられて少年は慌てた。指摘は事実でしかなく、都合の良い言い訳は思い浮かばない。
ただ両親の死という悲劇を味わっただけでなく、理解できない事件に巻き込まれた。混乱する脳内を冷静に落ち着かせる余裕なんて、今の彼には無かった。
「君はまだ分かっていないらしい。妖異にとって君は、魅力的な餌なんだって」
「え、餌って」
困惑する少年に対して、謎の美女は腰をかがめる。恐怖で腰が抜けてしまっている少年を、彼女は助け起こした。
つい癖で正座をした少年の両肩を掴んだ美女は、ふいに少年の方へ向かって顔を近付けた。一瞬キスでもされるのかと、少年が状況に見合わない勘違いをしたのは思春期故か。
実際には抱き寄せる様に、彼の首元に顔を寄せただけ。ふわりと漂うタバコの香りと、美女が纏う濃密なフェロモンに少年は赤面した。しかし次の瞬間、首元に刺す様な痛みを感じた。
「いっ!?」
そして理解した、この美女は自分の血を啜っていると。貧血になる程ではないが、多少の血液を吸われた事実が少年を怯えさせた。
まさかこの美女も、自分を喰らう存在なのか。だからバケモノを簡単に倒せたのか。先程までに感じていた恐怖が、再び少年の心に蘇る。
この女性は、親切心や正義感で助けてくれたのではない。少なくともそれだけは、間違いないのだろうと直感が訴えていた。
「私はあまり血に興味がないけど、君みたいな人間の血は悪くないね」
少年の首元から口を離した美女は、ペロリと唇を舐めて付着した血を拭った。その仕草は非常に妖艶であり、同時に彼女が人間ではないと示していた。
何故なら彼女の口元から、人間では持ち得ない鋭い犬歯が伸びていた。それはまるで吸血鬼、ヴァンパイアを想起させるには十分過ぎる。
「あ、え……」
「吸血鬼ってのは鬼の一種でね。だからまあ、私達も血は嫌いじゃないよ」
まるで自分が鬼だとでも言う様な、妙な発言を美女が行う。そこまで言われて、少年はようやく彼女の正体に思い至る。
「あ、貴女は……」
「私も妖異なんだ。私の種族は鬼でね」
日本において鬼と言えば、2本または1本の角を額に生やした怪物である。優れた肉体を持つ、恐ろしい存在だ。ただの人間では太刀打ち出来ず、決して対等な戦いは出来ない。
そんな伝説的なバケモノが、鬼という存在だろう。そうであるならば、先程のバケモノと化した女性を瞬殺したのも理解ができよう。圧倒的な力を持つとされている鬼だというなら、そのパワーは凄まじい筈だ。
「鬼は妖異の中でもかなり強い種族なんだ。そして私はその中でも、特に強い方でね。君1人の命を守るぐらい簡単だよ」
美女は少々自慢げに、その様な話をする。きっと確かな自信があるのだろう。そう思わせるだけの何かを少年は感じた。
「だ、だったら」
思わず助けて欲しいと言い掛けた少年を、遮る様に美女は問いかける。この話の、核心となる問題について。
「だけどさぁ、君は対価に何を差し出す?」
美女は少年に求めた。守る代わりに何を支払うのかと。ここまでの流れは、全て美女の狙い通りだ。少年の価値がどこにあるのか示しておいて、敢えてこうして聞いている。
妖異にとって何が魅力で、妖異にとって少年がどういう存在なのか。金を払えという話ではなく、彼女にとって欲しいモノを差し出せと言っているのだ。
「言わなくても分かるよね? 君が何をすれば良いのか」
「俺を、た、食べるのですか?」
結局喰われるのかよと、少年は思った。それじゃあ自分は死ぬしかないのかよと。しかしそんな彼の考えを、美女は否定した。
「ん~肉や臓物は喰らわないよ? ただ君という存在は食べるけどね」
美女の言っている事が、少年には良く分からない。どうやらあのバケモノの様に、直接食い散らかすという事ではないらしい。
では血を吸うという事なのかと、一瞬少年は考えた。しかし、あまり興味はないと発言していた事を思い出した。であるならば、美女の発言の意味がいまいち理解できない。
困惑する少年に向かって、美女は再び顔を近付けた。今回は思春期男子の勘違いではなく、美女の唇が少年の唇に吸い付いた。
思わぬ展開に少年は驚いたが、次の瞬間には感情が薄くなっていくのを感じた。初めて女性とキスをしたのに、ドキドキする気持ちも薄れている。
先程から感じている恐怖心も、この状況への困惑も全てが吸い取られていく。両親を失った悲しみさえも含めて、何もかも全ての感情が喰われていった。
「こういう事さ。君の感情や精気を、私に全て差し出すなら……君の命は保証しよう」
「あ…………はい」
「同意した、という事で良いのかな?」
いつの間にか美女の瞳は赤色に怪しく輝き、額には肉食恐竜の鉤爪に似た黒く鋭い角が2本生えていた。何もかも初めての出来事に、少年は呆然としていた。
鬼なんて初めて見た。実在すると今日知った。感情を食われるという経験なんて、これまでに知らなかった感覚だ。全てがフラットになってしまい、感動も興奮も恐怖も、何もかもが無くなっている。
ただ理解出来たのは、こうして自分の感情等を差し出せば守ってくれるという事。精気というのが良く分からないが、こういう事なら構わないと思った。
こうやって良い様にされるだけで良いなら、もうバケモノに怯える必要もなくなる。妖異なんて存在に、命を奪われる事も無い。
そうであるのなら、もうこのまま流されても良いかと少年は判断した。非日常の連続に疲れ果て、少年はそれ以上深く考え無かった。
ただ両親の様に、無残に食い散らかされずに済むのなら。その必死な思いだけで、美女の提案を受け入れる。結局それは死なないだけで、妖異に関わり続けるのだという事に気付かず。
「守って、下さい」
思わず少年は呟いていた。庇護を求める言葉を。妖異という理解不能の存在を恐れるあまり、結局はプライドも何もかもを捨て去っていた。
「ならここに契約しよう。私の名は大江イブキ、イブキで構わないよ」
まるで普通の自己紹介をする様に、イブキと名乗った美女が自身の名前を明かす。
「お、俺は……碓氷雅樹です」
釣られて少年も、己の名前を告げていた。この様な状況でも、律儀に応える所に彼の素直な性格が表れていた。
「ではマサキ、君の命は私が保証する。その代わりに、君は君自身を私に差し出す。いいね?」
雅樹はコクリと頷き、ここに契約は成立した。ただの口約束ではなく、妖異との契約は簡単に解消できない。そんな事を知らない雅樹は、言われるがままに契約をした。
契約をしてしまった。そのせいで、様々な困難に巻き込まれる日々を、これから送る事になるとは思ってもいなかった。




