第14話 怨念
花山一正が大江イブキの忠告を無視し、院長室を出てしまった。危険だと知らずに。
放置出来なかった碓氷雅樹は、慌てて彼の後を追う。トイレへ向かった花山は、呑気に用を足す。
夜の病院は薄暗く、どこか不気味な空気が漂う。天井のLED照明と、窓から差し込む月の光が頼りだ。
時間としては19時半で、まだ消灯時間ではない。その分まだマシだが、21時を過ぎれば廊下も消灯される。
真っ白で真っ暗な病院は、更に恐ろしい雰囲気を纏う。しかしまだその時間ではない事が救いか。
幽霊が居ると分かっている雅樹は、出来るだけ早く院長室に戻りたい。
「早くして下さい! 本当に危険なんで!」
雅樹の指摘は事実でしかないのだが、ペテンだと思い込んでいる花山は呑気なものだ。
「まだ言うてるんかいな? どうもないて、幽霊なんて」
上手く言いくるめられたバカな学生。花山は雅樹をそう評価している。
彼は自分に都合の良い事しか、まともに考えられない状態へと陥っている。
良く考えれば、すぐに分かる話。単なるペテン師では買えない高価な調度品が、幾つも探偵事務所には置かれていたのに。
「信じて下さいよ! 後で後悔しても遅いんですよ!」
雅樹は良く知っている。妖異という存在の理不尽さを。容赦なく人間を殺す姿を見た。
嗤いながら人間の肉を喰らう姿を見た。イブキに感情を何度も喰われた。
人間なんかでは、とても対抗出来ない存在だ。甘く考えて良い相手ではないのだ。
今回の幽霊は、少なくとも1人殺している。先程イブキの説明で、雅樹も聞いていたから知っている。
だと言うのに呑気な花山は、危機感をまるで抱いていない。持つ事が出来ていない。
「危険なんかあるかいな。実際どうもないやんけ」
花山は手洗い場で手を洗いながら、自分の体を示して大丈夫だと言い張る。
「今はまだ、というだけです。既に1人亡くなったでしょう!」
それは変わらぬ事実なので、花山も流石に反論が思い浮かばない。ペテンである事と、部下の死はまた別だ。
厄介な時に死んでくれたと、花山は内心で部下を扱き下ろす。面倒な事をしてくれたとも。
これで幽霊騒ぎは更に加速してしまうだろう。どうしたものかと、頭を抱えたい気分だと花山は思う。
「ほらもう済んださかい、戻ればエエんやろ? あんまり騒ぐなや」
「早く行きますよ」
院長室のあるA棟の5階、男子トイレはちょうど廊下の真ん中辺りにある。
トイレの入口を出れば、左右に長い廊下が続く。どちらに行っても下に降りる階段があり、人の行き来は自由だ。
真っ白な夜の廊下は、照明で照らされてまだ明るい。だが夜は妖異の時間だ。
のんびりしている暇は無いと、雅樹は花山の背中を押そうと背後に回る。
しかし次の瞬間には、全てのLED照明がチカチカと明滅し始めた。
「な、なんやコレは? 停電でもするんか?」
ズレた発言をする花山に、雅樹は慌てて注意を促す。
「周囲を警戒して下さい!」
10秒ほど明滅が続き、遂には完全に照明が落ちた。何故か今、雅樹達が居る廊下だけ。
他の棟は問題なく照明が、煌々と輝いているというのに。何かが起きていると、雅樹はすぐに察した。
左右に伸びる長い廊下からは、他に人の気配は感じられない。でも何故か、嫌な空気が漂っている。
一度最悪の経験をしたからか、雅樹の本能が危険を訴えている。本人的には嬉しくないだろうが、あの日の出来事が雅樹の第六感を覚醒させた。
イブキに素質があると言われたのも、この鋭敏な感覚を指しての事だ。
「どないっとるんや?」
「シッ! 静かに!」
雅樹は周囲をしっかり観察する。院長室に早く戻りたいが、幽霊が左右どちらの階段から現れるかによる。
右から登って来たら、院長室は左だから逃げられる。しかし左から迫っているなら、今慌てて動くと非常に危うい。
暫くの沈黙が続き、冷や汗が雅樹の額から流れ落ちる。どこから来るのか……それは分からない。
ふと有名なホラー映画を何作か思い出し、天井や窓の外に張り付いていないか確認する。
しかし発見は出来なかった。なのに何故か、嫌な空気がどんどん濃くなっている。
逃げ出したいが動けない、そんな時間がただ過ぎて行く。雅樹の緊張感と集中力は、剣道の試合中を超えていた。
ふと雅樹は、廊下の右側から刺す様な視線を感じた。ゆっくりと顔をそちらに向けた。
「ミ ツ ケ タ」
雅樹の耳には、その小さな呟きが確かに聞こえた。そこに居たのは、長い黒髪をダラリと垂らした女性。
真っ白な病衣を着た彼女は、髪の隙間から雅樹達をジッと見ている。
「走って! 早く!」
「な、なんやねんな!」
花山はまだ理解出来ていない。ちょっと怪し気な女が現れただけ。そうとしか捉えていない。
「良いから早く!」
雅樹が引っ張る様に、強引な方法で花山を急かす。まだ奥にいる女性は、遠くに居るままだ。
あまりにも必死な雅樹に当てられて、渋々花山は廊下を走り始めた。
雅樹が後ろを確認するが、まだ幽霊らしき女性に動きは見られない。
これならまだ何とかなるかと、脳裏で雅樹は考える。彼女はイブキの護符を知らない。
脅かして恐怖心を抱かせようとしているなら、付け入る隙になると雅樹は考えていた。
だがしかし、そうでは無かった。雅樹と花山が走っていると、突然後方に居た筈の女性が目の前へと現れた。
「な、何やお前……」
つんのめる様に停止した花山と雅樹。明らかに普通の状況ではないと、漸く花山は気付いたらしい。
「ヤバい!」
雅樹が花山を連れて反対に逃げようとするも、強烈な衝撃波が叩きつけられ雅樹と花山は吹き飛ぶ。
ゴロゴロと廊下を転がった雅樹は、廊下に設置された長椅子の角で額を打った。
強烈な衝撃を受けて、雅樹の頭は朦朧としていた。結構な距離を転がったらしく、体のあちこちが痛む。
骨折などはしていなかったが、打ち身を負ってズキズキと痛んだ。
徐々に意識がハッキリとして行き、雅樹は起き上がりながら現状を確認した。
「な、なんやこれ!? どういう事や!?」
廊下の壁に、花山が見えない力で磔にされている。1mほど高く浮かび上がった状態で、ジタバタと藻掻く花山。
しかし妖異の力を前に、人間が対抗しようとしても無駄でしかない。
やっとイブキや雅樹の話が、真実であると気付いた花山。しかし時すでに遅し。
「ユ ル サ ナ イ」
真っ黒な長い髪の隙間から、異様に充血した目が花山を見ている。
人間では無い何かから、初めて視線を向けられた花山は根源的な恐怖を味わう。まるでライオンや熊と遭遇したかの様に。
もし彼が先にトイレを済ませていなければ、今頃は盛大に漏らしていただろう。
怯える花山を真っ直ぐ見据えた幽霊が、ゆっくりと首を傾げて行く。その動きは壊れた人形みたいに歪な動き方だ。
首が90度右に傾いた時、どういう理屈なのか花山の右腕がへし折れた。
「ぐああああああああああ!?」
実体を得ているかも知れないと、イブキから雅樹は聞いていた。
しかしどう見ても彼女は、それ以上の力を得ている様にしか見え無かった。
そして彼女が花山を甚振る姿が、あの日雅樹が遭遇した餓鬼と重なる。怖がらせて、楽しんでいる。
恐ろしくて仕方ない。明らかに異常な存在で、見ただけで妖異だと分かる。
同時に雅樹の心には、怒りの感情が浮かび上がって来た。両親を殺され、恐怖を与えられ、好き放題された。
怯えて怖くて外に出られなくて、雅樹の人生は滅茶苦茶にされた。
こんな存在に、何故こうも弄ばれねばならないのか。今日までに溜まった鬱憤が、雅樹の中で爆発した。
「やめろおおおおおお!!」
花山に守る価値があるのか、そんな事は雅樹にとってどうでも良かった。
彼を助けたいというのではなく、横暴な妖異達にただ怒っているだけだ。
全速力で駆けた雅樹は、全力のタックルを幽霊に向けて敢行した。
抱き着く様に幽霊の腰辺りへ雅樹は突撃。衝撃で右肩を痛めたが、大量のアドレナリンが痛みを感じさせない。
雅樹は分かっていた。こんな方法では止められないと。ダメージなんて与えられない。
だけど気付けば体が動いていた。いい加減にしろよと、ただそれだけを示したくて。
当然突撃された彼女には、一切の痛痒を与えられなかった。虫でも払う様に、再び雅樹は吹き飛ばされた。
「クッソ! だったら、これならどうだ!」
雅樹は近くの長椅子を支えに立ち上がり、首から御守りを外して座面に置いた。
雅樹を守るイブキの妖力が離れ、彼が持つ妖異を強く引き寄せる魂が晒された。
幾ら怨念を元に生まれたとは言え、彼女とて妖異でしかない。抗い難い欲求を感じて、幽霊はぐるりと顔を雅樹へと向けた。




