第120話 異変の原因
「イブキさん! アレ!」
碓氷雅樹は発見した海霧を指差す。巡視船の進行方向、前方の一部海上に、広範囲に渡る謎の海霧が広がっている。
まるでそこだけが別世界のように、真っ白な濃い霧が不思議な空間を形成していた。明らかに異様な光景だった。
海域全体に渡って霧が出ているのではなく、雲のように一部分でだけ発生しているのだ。そこに何かがあると、示しているかのよう。
「妖力を感じる。行ってみようか」
雅樹が指差す方を見て、大江イブキは調べに行く事を決める。那須草子と冷泉翠も反対せず、次の行動はあっさりと決まった。
ただし妖異対策課の人間は、まだ連れていけない。何が起きているか分からない以上、雅樹より戦えない者は足手まといだ。
この巡視船に乗っている乗員は、妖異と戦う能力は低い。あくまで海上の調査と、多少の戦闘力を持つだけの人間ばかり。
大人顔負けの剣技を持つ雅樹と比べれば、実力不足は否めない。彼らには待機を命じて、小型のボートで霧の中へと向かう事に。
調査に向かうのはイブキと雅樹、そして草子と翠だ。イブキの運転で海霧の中へと向かいながら、周囲を警戒する雅樹達。
妖異組は海霧の中から強い妖力を感じ取っている。先ず間違いなく、何らかの妖異が存在している。まだ何者かまでは、分からないが。
「マサキ、中では私達から絶対に離れないように」
「はい!」
妖力までは感じ取れていないものの、雅樹は既に嫌な空気を感じている。霧の中が安全だなんて、全く思っていない。
むしろ気を引き締めて、いつもの木刀を握っている。いつの間に取り出したのか、草子も妖刀小鴉を腰に差していた。
師弟で剣技を使う雅樹や草子と違い、イブキと翠は素手で戦うタイプだ。特に武器を用意する事は無い。
パワフルで剛腕を持つ鬼のイブキと負けず劣らず、シャチから進化した翠もフィジカルに秀でた妖異だ。
技術で戦うタイプと、圧倒的なパワーを用いるタイプで綺麗に分かれていた。
彼らの乗るボートが霧に近付くにつれて、異様な気配が漂って来る。
「……何だ? 一体何が居る?」
イブキは訝しみながら、慎重にボートを進めていく。完全に霧の中へ入ると、周囲は全く見えなくなる。
ボートの周囲を鬼火と狐火が照らし、最低限の視界は確保された。見えている範囲は狭いが、何もないよりはマシだった。
更に進むと大きな影が前方に見えて来た。全員が警戒していると、大きな影の正体はタンカーだった。複数のコンテナを積載しているのが見えた。
人の気配は感じられず、会話も特に聞こえて来ない。既に襲われた後なのか、何処かへ隠れて息を必死で殺しているのか。
「どうするの酒吞?」
草子がこれからの方針を尋ねる。このままボートで進むのか、それともタンカーへと乗り込むのか。
「……乗り込もうか。私が先に行く」
ボートに積まれていたロープの先端を持って、イブキが跳躍してタンカーの甲板へと乗り込む。適当な位置でイブキはロープを固定する。
意図を察した草子がボートにロープを結んでおく。これで流されてしまう事はないだろう。続いて翠が飛び上がり、タンカーへと向かう。
最後に草子が雅樹を片手に抱いて、タンカーへと飛び移る。草子に抱き締められた事を、雅樹は喜ぶ余裕がない。脳内で警鐘が鳴り続けている。
明らかにここは危険地帯と分かり、雅樹は冷や汗をかいていた。得体の知れない何かが、確実に霧の中から気配を発している。
木刀を握る力が、無意識に強くなる雅樹。この緊張感は、蛇女アカギに捕まった時と似ている。それが雅樹の感じた事だった。
「気配を隠していやがるねぇ。かくれんぼのつもりかい?」
翠が周囲へ響く声量で、叫んでみるが変化はなし。姿を見せるつもりは無いらしい。様子を窺っているのか、逃げるつもりなのか。
ここに居るのは京都の支配者、福岡の支配者、そして元栃木の支配者だ。巨大な妖異が3柱も居る為、恐れをなしているのか。
縄張り争いが激しい海の妖異だけあり、気にせず襲いかかるつもりなのか。相手の出方がまだ良く分からない。
高く積まれたコンテナと霧のせいで、視界はかなり悪い。死角となる場所があまりにも多過ぎる。相手が甲板に居るのかすら、判断が出来ない。
環境を変化させる為、イブキが巨大な鬼火を空中に放った。甲板の上空20メートル程に、疑似的な太陽が浮かんでいる。
「……お食事中だったわけだ」
イブキが前方に人間の遺体を発見する。下半身が引き千切られたのか、無残な姿で甲板を転がっている。少し周囲を探索するだけで、死体が幾つも見つかった。
血の匂いを妖異組は感じていたので、今更驚きはしない。雅樹も濃密の死の気配を感じていたが、凄惨な現場を見て目を逸らした。
乱暴に妖異が喰い散らかした現場は、人間の尊厳なんて一切ない。飛び散った臓物と血痕、恐怖に染まった表情で固まった遺体。
ただ餌として、消耗品扱いを受けた虚しい姿。妖異の食べ残しが、あちこちに転がっている。食べきるつもりが、果たしてあったのだろうか。
遊び感覚で喰い荒らされた、そう表現する方が適切じゃないか。人間でしかない雅樹には、そんな風にしか見えなかった。
「……先生、あそこ!」
雅樹が何かの気配に気付き、霧の奥を指差す。太い柱のような影が、薄っすらと見えている。徐々にこちらへ近付いて来ている。
警戒する雅樹達の前に現れたのは、頭足類を思わせる大きな触腕だった。打ち据えるように叩き付けられたが、全員が回避していた。
「まー君、貴方はコレを使いなさい!」
「は、はい!」
雅樹のすぐ近くまで来た草子が、妖刀小鴉を手渡す。代わりに握っていた木刀を、雅樹は草子へと渡しておく。
幅だけで3メートルは有りそうな触腕を、木刀で捌くのは厳しいと草子は判断したのだろう。久しぶりに小鴉を握った雅樹は、懐かしい声を聞いた。
「また小僧のお守りか! この女狐め!」
まだ未熟な雅樹と組まされた事を、小鴉に宿った魂が抗議する。彼は使い手として、雅樹を認めていない。未熟な子供としか見ていない。
「黙ってまー君を助けなさい! 良いわね!」
「……ケッ。しゃーねぇなぁ」
不満そうにしながらも、小鴉は雅樹を守護する事を決める。僅かなやり取りを終わらせた頃、触腕による猛攻が始まった。
霧の中から大量の触腕が、雅樹達に向けて殺到する。迫る触腕の数は明らかにおかしい。10本をゆうに超える量が振るわれている。
頭足類の腕はタコなら8本で、イカなら10本が普通だ。頭足類で触腕を持つのはイカだけで、その本数も通常は2本しかない。
だが明らかに鋭い爪のようなものが付いた、触腕としか表現出来ない物体だ。赤黒い大きな触腕が、雅樹達を襲う。
「小僧! 右だ!」
「は、はい!」
小鴉の指示に従って、雅樹は妖刀を振るう。アカギと戦った時と違い、今の雅樹はコンディションが良い。あっさりと触腕を斬り飛ばす。
粘液のような何かを撒き散らしながら、巨大な触腕が後方へと飛んで行く。同じような光景が、周囲で繰り広げられている。
草子はどうやっているのか、木刀で触腕を斬り飛ばしている。鋭い爪と剛腕を持つイブキも同様だ。そして残る翠はというと――。
「海でアタシとやり合おうなんざ、1万年早いんだよ!」
パワーに物を言わせて、受け止めた触腕を腕で千切り捨てている。この中で一番豪快な戦いをしているのは、間違いなく翠だった。
迫りくる触腕を真っ向から受け止めている姿は、言動と合わせて非常に頼れる姉御であった。次々を触腕を千切っては捨てている。
しかしそれでも、触腕の数は減らない。潰しても復活しているのか、常に20本以上の触腕が襲い掛かっている。
これが本体なのか、それとも別の所に隠れているのか。まだ詳細は分からないが、事件の犯人と思われる妖異との戦いが始まった。




