第115話 海難事故について
冷泉翠の来訪により、これまで以上の険悪な空気となった大江探偵事務所。那須草子が不愉快そうに翠を見ている。
翠が人魚だと聞いた碓氷雅樹は、少し緊張していた。以前に大江イブキから聞いた人魚の、生態を思い出したからだ。
ミイラになるまで性的に搾り取られてしまうという、男性からすれば恐ろしい相手。雅樹は警戒心を強めている。
そしてこの場の責任者というべきイブキは、呆れた表情で翠を見ていた。その行動力だけは、認めても良いと思っているが。
「どこかの九尾のお陰で忙しくてさあ、翠の事を忘れていたよ。こうも早く反応するとは」
一言草子への不満を漏らしつつ、翠の方へ視線を向けるイブキ。とうぜん草子から視線が飛ぶが、イブキは無視しておいた。
「当たり前だろ? アンタらが注目する男なんて、気になるじゃないか」
豪快な雰囲気を纏う翠が、特徴的な歯を見せながら笑っている。その言い分で、目的が自分だと雅樹は察した。
どうしてこうも急に、自分の周りに妖異の女性が集まるのか、雅樹は頭を抱えたい気分だ。彼は何かをしたつもりが無い。
しかし本人の知らないところで、噂話は既に広まっているのだ。人間達の間でも、妖異達の間でも。
酒吞童子が人の子を連れ歩いているとか、その人間が半妖にしては有能だという話とか。情報の拡散する速度が早い現代だからこそだ。
「……お前は流石にダメだよ。マサキを殺してしまいかねない」
「何だい? 生かしておくなら喰っても良いのかい?」
雅樹が玉藻前と結婚されるのが嫌とは言え、かと言って翠なら良いかと言えばそうではない。それがイブキの下した結論だ。
しかし翠はこの程度では諦めない。何より興味が湧いた男を、彼女は今まで逃がした事がない。全員必ず喰らって来た。
だがそんな事を、草子が認める筈も無い。ただでさえ雅樹の初めての捕食を、イブキに奪われてしまったのだから。
「接触する事すら、ダメに決まっているでしょう。九州へ今すぐ帰りなさい」
不愉快極まりないという表情で、草子は翠へ出て行けと手で示す。彼女の美しい顔は、嫌悪感で満ちている。
人魚と妖狐はどちらも好みの男性を囲いたがるが、妖狐は人間へ寄り添う傾向がある。しかし人魚の方は、大体が悲恋で終わる。
人間はどう足掻いても、海の中で暮らす事は出来ない。同じ空間で暮らす事は出来ないのに、人間の男性を喰らう為に囲う。
その在り方は草子から見れば、身勝手な振る舞いに映るのだ。囲うならば最後まで愛する。それが草子達のポリシーである。
「お前に関係ないだろう? アタシがどうするかなんて、こっちの自由だからね」
再び睨み合う草子と翠だったが、思わぬ乱入者が到来して空気が変わる。入り口から入って来たのは、イブキ達程ではないが美しい女性。
肩まである長い黒髪が似合う大和撫子、ビジネススーツを着た妖異対策課のエリート。京都支部室長の東坂香澄だった。
「……イブキ様、これは一体どういう集まりでしょうか?」
流石の香澄も、最高位の妖異が集まっている事に驚いている。草子までは予想出来ても、翠までは想定していなかった。
翠と直接会うのが初めてだった香澄は、挨拶する事すら忘れてしまう程の衝撃だった。イブキの方を見たまま、固まっている。
「知らないよ、私が聞きたいぐらいだ。それよりカスミ、何か用かな?」
「あ、はい。実は相談したい事がありまして」
硬直が解けた香澄は、翠と草子へ頭を下げてからイブキの下へ向かう。ビジネスバッグから書類を取り出して、イブキへと渡す。
彼女が持って来た資料に書かれているのは、和歌山沖で起こったとある海難事故の資料だ。現場の写真も添えられている。
大平洋に浮かぶ無人となった豪華客船、トパーズ・プリンセス号の現場写真が印刷されている。乗客と乗組員の全員が、消えてしまったと書かれている。
所々に血痕が残されており、何かしらの事件が起きたと思われる。これが果たして妖異によるものか、ただの海賊行為なのか。
もしくは人身売買を目的とした、大規模な誘拐事件なのか。妖異対策課では判断に困っているらしい。
「ふぅん……妖力の反応はあったのかな?」
「いえ、数日経ってからの発見でしたので――」
妖異が何か起こした場合、現場に妖力が残っている事が多い。上手く隠されてしまうと発見は難しいが、突発的な事件なら大体は残る。
雅樹が良く事件現場で、嫌な空気として感じているものに妖力も含まれる。死の気配に残滓として、妖力も混ざっているからだ。
ただ今回の件のように、時間が経っていると消えてしまう事が多い。特に海上だと、余計にややこしい事情がある。
陸上のように、ハッキリとした支配圏が少ないからだ。海は陸地以上に縄張り争いが激しく、明確な線引きが出来ていない。
お陰でいつどこを妖異が通ったか分かり辛く、関係ない妖異の妖力を拾ってしまう場合があるのだ。特定するのは陸上より難しい。
「他の船舶もやられているのか……なる程、それで私に相談が回って来たと」
「……はい、お手を煩わせてしまうのは恐縮なのですが――」
申し訳なさそうにしている香澄は、手詰まりの現状を嘆いている。何せ妖異対策課の船舶も、行方不明になっているからだ。
海上で調査を行っていた巡視船が数隻、突然音信不通となり誰も帰って来なかった。もちろん他の漁船なども、複数被害に遭っている。
海賊行為ならば相当の手練れであり、妖異ならばかなり強力な可能性がある。判断するには情報が不足しているのだ。
故に最後の頼れる相手として、イブキが選ばれたというわけだ。沖で起こった事件だと、和歌山の支配者でも把握は難しい。
捜査協力はしてくれていても、詳しい事までは分からないままだ。支配圏の外で起きてしまった以上は、どうしようもない。
「うーん……マサキのいい勉強にもなるかも知れないね。良いよ、引き受けよう」
「ありがとうございます、イブキ様」
海の妖異と複雑な支配圏の状況について、雅樹へと教える良い機会だとイブキは考えた。そして雅樹が行くならば、当然草子も同行を決める。
ただ今回は少し、タイミングが悪かった。話を聞いていた翠も、着いて行くと表明したからだ。イブキは額に手を当てて問う。
「……どうしてそうなる?」
「だって海に出るんだろ? ならアタシも居た方が有利だよ」
そんな事は分かっていると、イブキはため息を吐く。そうではなく、自分の支配圏でもないのに、何故首を突っ込むのか聞いたのだ。
翠は普段から他所の出来事に、あまり興味を持つタイプではない。だからその理由を聞いているのだと、イブキは再び問い掛けた。
すると翠は豪快に笑いながら、雅樹の方を指差した。差された雅樹は、困惑するしかない。何故今のタイミングで自分なのかと。
「アカギを斬った男が、どれだけ出来るのか見てみたいんだよ」
「……はい!?」
翠は漢気のある強い男が好きだが、雅樹はそんな事を知らない。おまけにアカギを斬ったと言っても、ほぼ妖刀のお陰である。
勝手に期待されても困る雅樹は、慌てて事情を説明するも翠は気にしていない。妖刀の類を使わないと、人間は妖異を斬れない。
そんな常識は、翠とて理解している。彼女が見たいのは、雅樹が戦う姿だ。妖異を斬る所を直接みたいという事では無かった。
「た、戦いにならないかも知れませんよ?」
「その時はその時さ。最終的にアンタを喰えれば、それでアタシは満足さ」
雅樹は出来るだけ翠と共に居たくないのだが、翠の方からどんどん距離を詰めて来る。イブキの方を見ても、首を振られただけだ。
翠は言い出したら聞かないと、イブキは示しているのだ。これはもう草子に守って貰うしかないと、雅樹はなるべく草子と共にいるように決めた。
そんなやり取りを目にした香澄は、また妖異の女性を追加で取り込んだのかと呆れていた。妖異ハーレムを形成する雅樹を、奇妙なモノを見る目で見ていた。




