第113話 深海より来る者
太平洋を進むクルーズ船、トパーズ・プリンセスは1日目の夜を迎えている。航路通りに進み、順調な航海だった。
現在の時刻は23時。船内には夜勤シフトの乗組員と、夜を楽しむ大人達が居た。子供達は既に、客室で寝ているだろう。
トパーズ・プリンセスは日本国籍の船舶である為、遊戯施設はあってもカジノは無い。法律上、公海に出てもカジノは違法だ。
24時間営業の遊戯施設では、ビリヤードやダーツ等が遊べるだけだ。例えそれだけでも、大人達は楽しんでいる。
併設されているバーで、お酒を飲んでいる人々もそれなりに居た。今も若いカップルが、カクテルを2人で飲んでいた。
「どうだい? 良い船だろう?」
若くして起業に成功した実業家の男が、隣に座る女性へ自慢げに話している。派手に着飾った女性が、そんな彼に媚びを売っている。
「本当に綺麗だわ。流石ね、こんな船を知っているなんて」
彼女はお金持ちが好きなタイプで、本当はもうワンランク上の豪華客船へ乗った事がある。隣の若い男ではなく、もっと年上の男性と共に。
しかし今は、その相手と関係が切れてしまった。だから新しく捕まえた男性と、こうして船旅へ出ていた。
半年前まで関係のあった中年の男性は、失脚して資金力が落ちつつあった。未来が無いと判断した彼女は、早々に見切りをつけた。
もうすぐ30歳が見えている為、そろそろ身を固めたいと考えている。そのタイミングで見つけたのが、隣に居る男性だった。
まだ23歳と若く、将来性も十分。今はまだ財力が心許ないが、彼女の基準では富裕層と判断出来る相手である。
「君だけ特別に、連れて来たかったからさ」
「まあ本当? 嬉しいわ」
彼女としては、彼の顔はそこそこだと思っている。ギリギリ整っていると思える範囲。少し背が低めなのはマイナスポイント。
ただし資金力と将来性、そして若さを考慮して丁度良いと考えた。少し肉体関係を仄めかすだけで、簡単に釣れた相手だと思っている。
だが彼は彼で、秘めている事があった。アラサーの彼女とはあくまで遊びで、本命の若い女子大生を既に囲っている。
金を見せれば引っ掛かっただけの、都合の良い相手というのが彼女への評価だった。性格の悪さという意味では、お似合いの2人と言えた。
「どうかな? 少し夜風に当たらないか?」
「ええ、構わないわよ」
それはただの建前で、良い雰囲気を作ろうと男性が考えただけ。もちろん目的は、夜の楽しみを得る為。お膳立てに過ぎないかった。
資金力を目的に近づいた彼女だが、雰囲気は大事にするタイプだ。すぐにベッドへ誘われるのは、あまり好ましく思っていない。
だからこそ彼は、こうして様々なシチュエーションを用意する。正直面倒くさいと思っているが、都合と顔の良い女性を確保する為だ。
30歳を間近にして、ロマンティックな空気を求める姿を、彼は内心で馬鹿にしている。10代の少女じゃないのだからと。
「月が綺麗だね」
「そうね……」
後部デッキに出た2人は、夜の海を見ている。どこまでも続く暗闇に、月明かりが降り注いでいる。美しくもあり、同時に恐ろしくもある。
海面からは海の中がまるで見えない。トパーズ・プリンセスの証明と、天然の光しか明かりは無い。夜の大平洋が、周囲に広がっていた。
早く抱いてしまいたい男性と、安売りをするつもりがない女性。2人の思惑が交差する中で、突然船体が大きく揺れた。
「な、なんだ!?」
「きゃあ!」
驚く2人は、周囲を見回す。一体何が起きたのかと。座礁するような浅瀬ではないし、真夏の海に氷山なんてない。
考えられる可能性としては、船の故障か操舵ミスか。どちらであっても、2人としては興醒めだ。これまでの空気が霧散してしまった。
女性としては、手綱を握る為の大事な時間だった。男性としては、面倒な女を納得させる為の、前戯の最中だったというのに。
不満を覚えた2人は、船内に居る乗組員へ文句の1つでも言ってやろうと考えた。しかし2人は、何かの気配を感じ取った。
自分達しか周囲に居ない筈が、まるで誰かに見られているようで。先程とは違う理由で、2人は周囲を見回す。
「だ、誰か居るのか?」
「ね、ねぇ、早く戻りましょう」
不気味な何かを感じた女性が、男性の服をつまみながら船内へ戻ろうとする。だがそれよりも早く、周囲が霧に包まれ始める。
何もなかった筈の夜の海が、あっという間に真っ白に染まる。2人の周囲は、殆ど何も見えていない。
混乱する2人だったが、次の瞬間には霧の中へと連れ込まれてしまう。何かに捕まった2人は、悲鳴だけを残して消えた。
◆ ◆ ◆
一方その頃、島崎康介は眠りについてた。一度目の大きな揺れで意識が薄っすらと戻り、外の騒がしさで完全に目を覚ました。
隣で眠っていた御堂玲香もまた、一糸まとわぬ体を布団で隠しながら体を起こす。2人は周囲に隠れて、夜を共にしていた。
ただのセフレの関係と理解しつつ、お互いにストレスの解消として利用していた。度々こうして、肌を重ね合う事があった。
だが今夜は、それだけで終わらないらしい。何やら外が騒がしく、バタバタと廊下を走る音がしている。
「一体何なの?」
「分かりません。俺、少し見て来ます」
康介は素早く着替えて、一度部屋の外へ出て行く。何やらあったらしい事は玲香も分かったので、遅れて服を着始める。
玲香が着替え終わる頃には、慌てて康介が自室へと戻って来た。その表情は切羽詰まっており、急いで玲香を呼びに来たのが彼女にも伝わった。
どうやらただ事ではないと、察した玲香は先輩として行動を開始。何があったのかを康介に尋ねて、次の行動へと移って行く。
「何が起きたの?」
「そ、それが、良く分からないんですよ!」
どうやら船が動けなくなった事、周囲が霧で包まれている事。それ以外に詳しい事は何も分かっていない。康介の説明はそれだけだった。
そんなおかしな事が起きるだろうかと、玲香は首を傾げている。予報には無かった、異様に濃い海霧が周囲を包んでいる。
とにかく他のスタッフと合流しようと、2人は上司の指示を仰ぎに行く。暫く移動すると副船長と遭遇し、どうすれば良いか指示を仰ぐ。
だが副船長も慌てている様子で、とにかく乗客への対応をしろと命じられた。こんな半ばパニック状態で、接客は大変だと2人は嫌そうな表情を浮かべた。
しかし命令されてしまった以上は、対応するしかない。仕事だと割り切って、行動を開始しようとした時だった。
「うわああああああああ!?」
誰かの悲鳴が船内に響き、船体がガタガタと揺れている。揺れが収まったと思うと、今度は別の方向から悲鳴が届く。
何が起きているのだと、2人は顔を見合わせている。まるで玲香が言ったように、オカルトな何かが起きているのか。
嫌な予感が2人の間に生まれる。ただのシージャックであれば、まだ人間が相手な分幾らかマシだ。しかし銃声は聞こえず、ただ人々の悲鳴が聞こえるだけ。
どんどん悲鳴は増えて行く一方で、良くない何かが起きている事だけは伝わって来る。恐る恐る前へ進んで行く2人は、同僚の姿を見つける。
「お、おい! 何が起きて――」
「た、助けてくれ! 俺はまだ死にたくない!」
康介の同期が走って来ている。その背後から、巨大な何かの触腕らしきモノが迫って来ている。一瞬で同期の男性は絡め捕られ、通路の向こうへ消えて行く。
「な、何だ今の!?」
「と、とりあえず逃げましょう!」
康介と玲香の2人は慌てて引き返すも、どこへ行けば良いのか分からない。がむしゃらに逃げ惑うも、どこへ行っても似た光景が繰り広げられている。
船内を逃げ回っている内に、遂に康介と玲香も捕まってしまった。それから暫くして、無人となったトパーズ・プリンセスが海に浮かんでいた。
まるで巨大な何かに蹂躙されたような、破壊の跡だけを残して。すでに海霧は晴れており、どこにも異常は見られない。誰もいないクルーズ船以外には。
ちょっとモンパニ風味がやりたかったのです。




