第112話 太平洋を行く豪華客船
夜の大平洋を、一隻のクルーズ船が航行している。所属国籍は日本で、大阪港を出発して1時間が経過していた。
大平洋をクルージングしながら、2泊3日の船旅を提供するプランとなっている。今はディナータイムとなっており、多くの客達がレストランに集まっている。
音楽隊がクラシック音楽を演奏しており、モダンな雰囲気の中で食事をしている人々が大勢居た。日本人が中心だが、海外の旅行客も含まれる。
円安を利用して、船旅を楽しんでいるのだろう。そんな人々を見守りながら、1人の男性スタッフが、空いた食器を客席から回収して行く。
短く切り揃えた黒髪に、優しそうな顔立ち。姿勢が良いお陰で、高い背がより大きく見えている。彼は次の席へ向かい声を掛ける。
「失礼いたします」
楽しそうに会話している4人家族は、彼へ不要になった食器やスプーン等を手渡す。受け取った食器を、厨房へと運んで行く。
彼は島崎康介という乗組員の1人だ。今月で28歳となった彼は、もう何度もこの船に乗っている。慣れた足取りで、スイスイと進む。
トパーズ・プリンセスというこの船は、希望を意味する宝石を名前に使われている。もう初航海から10年以上経つベテランの客船だ。
改装も行われたが、そろそろ引退を考える年数が経過している。この船は接客スタッフとして、康介が初めて乗った船でもある。
引退という話が流れ始めて、少々複雑な気分だった。しかし同時に、誇らしくも思っていた。いい経験になったと、胸を張って言える。
新人の頃から数年掛けて、自分を成長させてくれたという感謝の心を持っていた。そんな康介が、厨房へと食器を運び入れる。
「後ろ通ります」
声を掛けながら康介は進み、食洗器へとセットしておく。あとは厨房のスタッフに任せておけば良い。
厨房を出た康介は、交代の時間が来たので後輩と代わる。乗組員専用のエリアへ移動して、船員用の食堂へと向かう。
そこでは既に食事を始めている乗組員達が大勢居た。殆どが康介の知る顔ばかりで、お疲れ様と声を掛けながら自分の分を取りに行く。
食堂のカウンターで夕食を受け取り、康介は空いている席を探す。同じく接客スタッフの先輩を見つけた康介は、そのすぐ正面に座った。
「お疲れ様です、御堂先輩」
康介の対面に座っているのは、30歳の女性スタッフである御堂玲香。康介からすれば、十分ベテランと言える相手だ。
彼女は康介が初めてこの船で働く事が決まった日から、教育係を担当してくれた先輩だ。年上のスタッフで、一番仲が良い存在でもある。
茶髪に染めたショートカットと、程よい大人の色気。平均的な身長と、女性らしい丸みのあるボディライン。泣きボクロがチャーミングな女性だ。
「あら島崎君、お疲れ様」
「今日も人が多いですよねぇ」
夏休みの最中という事もあり、子供連れの乗客が多い。他にも旅行好きの夫婦や、大人のカップルなど多くの乗客が乗っている。
この船はそこまで料金が高い船ではない。海を楽しみたい一般客が多く、富裕層はそう多いとは言えなかった。
それもあって迷子のアナウンスや、ちょっとしたクレーム対応がどうしても起きる。普通の観光地よりはマシなのだが。
安い方とは言っても、一度の利用で10万円台から30万円台まで掛かる。その額すら出せない層までは、乗船していない。
コンビニやスーパーで起きるレベルの、厄介なクレーマーはそう多くない。全く居ないとまでは言えないとしても。
「流石にこの時期はねぇ……仕方ないわよ」
夕食をつまみながら、玲香は康介と雑談に興じる。従順で気が利く康介を、玲香は少し気に入っている。年齢も近いので、会話も弾み易い。
何より康介は、下心を露骨に向けて来ない。異性としては認識していても、変に食事へ誘う事もない。無害という意味で、安心出来る。
それなり魅力的である玲香は、下心を向けられる事が多い。美人過ぎないが故に、俺でも行けるのでは? と考える男性が多いのだ。
今も彼女は、航海士の中年男性から言い寄られている。同じ船に乗る以上、あまり邪険にも出来ない。だからこそ面倒でもある。
「もう聞き飽きたでしょうけど、俺ってあんまり子供が得意じゃないんですよねぇ」
「そうね、何度も聞いたわ」
玲香もまた、子供があまり得意ではない。だからこそ康介は、彼女を相手にこんな愚痴を溢している。もはや定番の会話ですらあった。
色々と愚痴や他愛のない話をしながら、夕食を済ませた2人。これからまだ30分程の間、玲香と康介は休憩が残っている。
食堂を出て2人は、何となく夜風に当たる事を決める。というのは建前で、2人で隠れてタバコを吸う為だ。どちらも喫煙者なのだ。
「あっ、ごめん、ライター貸してくれない?」
「良いですよ」
デッキの端で物陰へ隠れて、2人で喫煙をする。接客のストレスを発散出来る、2人にとっての至福の時間だった。
康介が新人の頃に玲香が誘い、康介もタバコを吸うようになった。それから約6年、こうして良く隠れてタバコを吸っている。
タバコ仲間であり、先輩と後輩でもあり、友達以上恋人未満の関係性。何度か2人は、肉体関係を持った事があった。
始まりは好みでない男性から、しつこく言い寄られた玲香のストレスだった。従順な後輩を、美味しく頂く事にしたのだ。
しかしお互いに恋心までは発展せず、こうして今まで中途半端な関係が続いている。お互いに恋人が出来なければ、結婚しても良いかな。
その程度のぼんやりとした好意が、お互いの中にあった。康介が30歳になっても未婚なら、結婚しようかと話している。
「そう言えばさ~聞いた? 最近の変な噂」
少しイタズラっぽい表情で、玲香が康介へと尋ねる。何の事か分からなかった康介は、思い当たる事がないと首を横に振る。
「最近この辺の海域でさぁ、行方不明になる船が出ているって話よ」
「また怪談ですか? 先輩も好きですねぇ」
タバコを吸いながら、玲香が話す噂について康介は聞く。漁船が帰って来なかった、タンカーが霧のように消えた。
豪華客船が一夜にして連絡がつかなくなってしまった。全てこの辺りで起きた事件だという事だ。そんな話、康介は聞いた事がない。
大体そんな危険な何かがあるなら、海上保安庁が調べている筈だ。これと言って、ニュースにもなっていない。
バミューダトライアングルだとか、ドラゴントライアングルだとか、船が消えたという噂は昔から存在している。
人間の知らない化け物が居る。クラーケンが実在するとか、メガロドンが生きていたとか。胡散臭い噂は沢山あるのだ。
「今度は何です? 巨大なタコでも出ました?」
「私はリヴィアタン・メルビレイが生きていた説を推したいわね」
リヴィアタン・メルビレイ、かつてこの地球の海にいた巨大な頂点捕食者。クジラの一種とされており、体躯は20メートル近い。
現在のマッコウクジラと、そう変わらないサイズだったと言われている。その上、肉食の獰猛な生物であったとも。
海が好きだった康介は、大学時代に海洋学を学んでいた。だからその手の話を良く知っている。オカルト好きな玲香とは、少し違う理由で知識が豊富だ。
「その説は厳しいですって。深海で生きていたって?」
「ロマンがあって良いじゃない」
深海で滅んだ筈の生物が生きていた。オカルト関係では定番の説だ。人間は海の8割を解明出来ていないと言われている。
だからこそ、現代になっても可能性だけは残り続けている。まだ見つけていないだけで、深い海の底でまだ生きているのではないかと。
そんな雑談をしている2人は、陰に隠れていたせいで見逃してしまった。大きな影が、月明かりの下を泳いでいる姿を。




