プロローグ
アルキヤ王国の塔の上に、双月がゆっくりと昇り始めるころ、宮殿は黄金の光に包まれていた。王家のバルコニーを抜ける暖かな風が、ユウイの銀髪をそっと揺らしながら、彼女は静かにティーカップを取った。
「五手で負けるぞ」と、ウィンターが静かにナイトを動かす。
「四手だよ」とユウイが微笑み、ビショップを滑らせる。
ウィンターは瞬きをした。「……え?」
「チェック。」
彼はしばらく盤面を見つめたあと、芝居がかったため息をついて背もたれに寄りかかった。「君のこと嫌いだ。」
「そんなことないでしょ」とユウイはお茶をすする。
彼らはよくこうして過ごしていた。巡回の合間に、剣の稽古の後に、あるいは王都が静まり返った日の長い午後に。
王国は今、平和に満ちていた。戦の太鼓は沈黙し、城壁の外には緑豊かな大地が広がっている。
ウィンターは腕を組み、沈みゆく空を見つめていた。
「ユウイ、善とは何だと思う?悪とは?」
ユウイはまばたきをした。「急にどうしたの?」
「答えてくれ。」
カップを置き、ユウイは眉をひそめた。「そうだね……善は優しさ、慈悲、弱き者を守ること。悪は残酷さ、理由もなく命を奪うこと。まあ、当たり前のことだよ。」
ウィンターはゆっくりと頷いた。「うん。」
ユウイは目を細めた。「その顔、なに?」
「別に。」
「絶対、今私のこと見下してたでしょ。」
「してないよ」と彼は机をトントンと指で叩いた。「でも、君は“本当の答え”を言ってない。」
「へぇ?」ユウイは挑むように笑う。「じゃあ教えてよ、チェス盤の賢者様?」
彼は笑わなかった。声は静かに落ちていった。
「善は、生き続けるための力。悪は、立ち止まらせる力。」
ユウイは首をかしげた。「曖昧すぎるよ。」
「生存の話だ、ユウイ。命にとって、優しさなんて関係ない。風は高潔さに無関心だ。海は残虐さに動じない。大事なのは——続くものと、終わるもの。」
「……冷たいね、それ。」
「それが、論理の中で見つけた唯一の温もりなんだ。」
ユウイは前屈みになり、彼を見つめた。「最近、どうしたの?何かあった?」
その時、ウィンターはユウイをじっと見つめた。
「僕たちが“善”と信じているものは、間違って受け継がれた定義かもしれないと思わない?敵とされる者たちが、自分たちこそ正義だと信じていたら?」
ユウイは一瞬黙った。「そしてもし、力こそが全てだと信じるようになったら?」
彼は躊躇った。
やがて、「それが真実だったら?」と答えた。
ユウイの指が机の端を握りしめる。「それなら私は、たとえあなたが親友でも、あなたを止める力を持っていたい。」
ウィンターは微かに笑ったが、その瞳には笑みはなかった。「矛盾だな。」
沈黙が流れ、空の最後の光が血橙色に染まっていった。
ユウイは静かにチェスの駒を並べ直す。「あなたの手番よ。今度は四手で負けないでね。」
ウィンターは目を伏せたまま、ポーンを一つ前に出した。
そして、冷たい風が吹き始めるなか、彼は小さく呟いた。——
「いつか、もう一度同じ問いをする。そのときは、僕自身が“問い”になる。」
ユウイにはその意味がわからなかった——あの時は。
だが、いつか理解することになる。