ep9 忘れるということ
時刻はユウがサトミとの昼休憩を終え、午後の仕事が開始した頃に遡る。
情報収集室のメンバーたちはどこかソワソワしていて、落ち着きがない。室長が皆を集め、真剣な面持ちで話し始める。
「皆も薄々気付いていると思うが、昨日の夜、ボウトの襲撃があった。『亀路都』という料亭で行われた重役と取引先の会合にボウトが襲撃、警護に当たっていた第3,9部隊が全滅、援護に向かった第7部隊も全滅、その後、さらに第2,5部隊が援護に向かったが、すでに敵は退避しており、行方は不明。当初我々は、敵の数は30人程度と予測していたが、その倍以上の60人程はいたと見ている。今も情報班が勢力を上げて調査中だ。
報告が遅くなってすまない。今後このような犠牲が出ないよう、君たちにも頑張ってほしい。以上。仕事に戻ってくれ」
午前中ずっと資料室に籠って作業をしていたせいで、このソワソワした空気に揉まれなかったのは案外幸運だったかもしれない。いつも室長から正式な報告がある前、特に作戦失敗で殉職者が出たときは、心配や不安が空気伝染して皆仕事に身が入らなくなる。今回の事件は既知も既知なので、特段気にすることも不安になることもないのである。が、しかし……
待って、第3,9部隊そして、7部隊も全滅!? 最強と名高いあの7部隊が!?
全滅……てことは……。
急ぎ自分の机のモニターで社員データを確認する。
そこに書かれていたのは……。
『熊谷ワタル 死亡 享年26
現場は近くの山林。現場からは部隊全員のIDと血痕が発見される。支給武器は未発見。犯人の特定には至っておらず。死亡と推定』
ユウが高校を卒業して就職した4年前に、大学を卒業しBBに就職した4つ上の同期。彼は配属された部隊で破竹の勢いで成果を残しており、将来を期待されていた。入社して1年が過ぎたころに話しかけられたことから顔見知りになって、2年目の途中に彼が部隊長になったタイミングで告白をされた。
男だらけの職場に窮屈さを感じつつあった社会人2年目にユウにとって、十分すぎるほどの実力を備えていた彼は防御壁に最適だった。ワタルのことを嫌いになる理由なんてどこにもなかった。むしろもったいないくらいの絵に描いたような良人だった。もちろん、自分を好きでいてくれる相手と一緒にいるのはなかなかに気持ちがよかった。
走馬灯のように脳内で彼氏との記憶がフラッシュバックする。しかし、込み上がってくるものはあっても、ユウの目からは1ミリの涙も競り上がってこなかった。その理由もここが職場だからでも、強がりでも決してなかった。
ユウは、本当は、こうなることを予想していたのかもしれない。
将来のことを本気で考えるなら、命の危険のある部隊兵士という職業は勘案せざるを得ない。この業界、世界に居れば殉職はよくあることだし、少なからず少しは覚悟していた。どれだけ彼が強いとは言っても、だ。
それに、失礼な話なのだが、彼と付き合うことにした理由も得られる利益が大きかったことが否定できない。彼氏のことはなにかと断る理由にしやすくて、情報も得られた。今回の襲撃だって事前に彼から聞いていたおかげで、確信が持てた。ユウにとって最大の優先事項は会長捜索であって、彼氏のことは二の次、三の次になっていた。今思い返してみても、本当に酷い女だと思う。自分のことを振り向かせようと頑張っていた彼は可愛かったし、尊敬できた。そんな自分を好きになってくれて、彼は理解をしようとしてくれていた。しかし、ユウはそれに応えられなかった、いや、応えなかった自覚すらある。
今になってようやく気付く。
ユウが求めていたのは、追う恋愛でも追われる恋愛でもなかった。もちろん物理的メリットでもなかった。母と自分を置き去りにしたと聞く父親への当てつけのように、自分のもとを離れないという安心感を心の底から求めていた。彼には本当に申し訳なかったと思う。彼へのこんな誠意の欠片もない本心は口外できるわけもなく、墓場まで持っていくしかない。むしろそのくらいの責任は負うべきだ。まあ、この世界に前時代的な墓などないのだけれども。
夕方。周辺よりひときわ高い本社ビルからは、他のビルに遮られることなく、黄色い太陽がまだ低い空に浮かんでいるのが見える。
勤務を終え帰宅するときに、室長に声をかけられた。
「失礼します」
室長の部屋はいつ見ても綺麗という感想が出てくる。モノはそれなりにあるし、極度の几帳面かつ潔癖症の片鱗は一切ない。だが、机上の山積み資料や備品は整っている。頭の良さやセンスはこういうところにこそ体現されるのかもしれない。「部屋がきれい」は物が無いことでも過度な几帳面でもなくこういう管理の行き届いたことへの賛辞であるべきなのだろう。
「呼び止めてすまない。熊谷君のことはすまないと思っている」
「いえ。謝らないでください。部長の責任ではありませんし。危険とは隣り合わせですから」
「九鳥、こんなときに聞くべきことでもないし、掘り返すようで悪いが、熊谷君から何か連絡はなかったか?」
「ええと。連絡はなかったですね。どうしてですか」
「彼の訃報がいまだに信じられていなくてな。あれほどの腕前だ、綺麗に消されるなんてありえないと思いたい。恥ずかしい話だが、こちらは手がかりを掴めていなくてな。力不足で申し訳ない。せめて手掛かりくらいは考えてしまう。それが君に聞くしか思いつかないのも本当に情けない」
「そんなに謝らないでください。私のことはお構いなく」
「冷静なのだな君は」
「自分でも驚いています。そういえば、サトミは明日はいつでもいらっしゃって大丈夫だと言ってました」
「そうか。ありがとう。今日はお疲れ様。ゆっくり休みをとってくれ」
「室長こそ休んでください」
上司というのは、部下にも気を回さないといけないそうで、気苦労が絶えないのだろう。焦燥感からか、精神がすり減っているような室長はとても新鮮だった。
彼氏の死を仕方がないことと割り切れてしまう自分が恐ろしい。こんな状況で気丈に振舞えている自分が信じられない。
父親のことをどう思っているのか、生前、母親に一度だけ聞いたことがある。
「忘れるんだよ。忘れて前に進む。前に進むのに労力がかかるんだから、他のところではセーブしないと。忘れるのが簡単。それでもたまに思い出したりもするんだけど」
母の表情は心持ち笑っていて穏やかだったのが記憶に焼き付いている。