ep62 闇空の下で
「なにか用か?」
「あれ、気付いた?」
「まあ、それはな」
「盗み聞きしちゃってごめんね」
「どの辺から聞いてた?」
「んーと、キスの辺からかな」
「ほぼ全部じゃないか」
「だからゴメンって」
ショウが振り返ると、後ろにユウがいた。背景の暗い夜空と、夜風に吹かれてたなびく髪、屋上で少し内股気味の佇まい。ショウの目に映ったその姿はあまりにも美しく、目が離せなくて、思わず見蕩れてしまうものだった。
ユウは星の見えない夜空を眺めながら近づいて、ショウの隣に来た。屋上の手すりに腕を載せて、2人並んで見えない地平線を目で追う。ごめんとは言っているが、それが口先だけなのがなんとなくわかった。まあ、別に聞かれて困ることなんてなかったし、情報収集は運であり能力であるという認識を持っていたから大して気にならなった。もしかしたら、ネイが話を切り上げたのも、ユウの存在に気付いたからかもしれない。
「それで用事は?」
「用事がないと来ちゃいけないの?」
「そんなことはないけど」
必死に保っているポーカーフェイスが崩れそうで、心臓が縮み上がっている。一瞬でも綺麗だと思ってしまった女が隣に来たのだ。年頃のシャイボーイなら、緊張で胸が張り裂けそうに、頭が真っ白になりそうにもなる。
「まあ、用事って言う用事はないんだけど、へこんでないかなって」
「へこむ? 俺が?」
「これでも、BBにいた頃は、ガードのメンタルケアの講習とか受けてたんだよ。何かを奪ったり失ったりってのは、精神へのダメージが大きいからって。でも、今考えてみたらガードの人たちは自分たちを正義と信じて疑わないから、それで精神も強靭だったから、あんまり必要そうじゃなかったけど」
「あんたも失ったばっかりだろ」
「私は出会えただけでラッキーだったくらいだし、大丈夫よ。やっぱり、ショウはあの2人に対しては思うことがあるんじゃないかなって」
「ないよ、そんなの」
「嘘、絶対ウソ。年下ばっかりじゃそういうところ見せられないだろうし、私しかいないときは甘えてもいいんだよ」
ショウはクスっと吹き出してしまった。緊張がほぐれたといったほうが近いかもしれない。
何を隠そう、この男は年上の美人に弱いのだ。とてつもなく弱いのだ。年上に魅力を感じるのは男女関係なく年頃の若者にはよくあることである。そして、この男はその中でも選りすぐりの頂点を取れるレベルである。ドストライクの人物からこんなことを言われたら、確実にフォーリンラブしてしまう。しかし、どこか冷静になれたことに胸をなでおろしたのだった。
「しょうがないことだったんだけど、それでもね。あいつらが不憫だなって勝手に同情してただけ。でもそれも迷惑だろうなって」
「優しいのね」
「それに、なんか不憫な奴等が集まるなあって。良いことなのか悪いことなのかよくわかんねえ」
「人の出会いは奇跡だよ。それがどんな形であっても。数十億といる人の中で出会うんだから。あとは、いい関係が築けるように祈るだけね」
「それと、牛飼や弦木みたいな怪物を倒さないといけないと思うと、気が引けてな」
「らしくないね」
「俺は最強でも全知でも全能でも万能でも天才でもないんだ。ほんで、しくじったら死ぬ。怖くないと言ったら嘘になる」
「ネイちゃんが『私が一度負けたくらいで次も負けると思いますか?』って言ってたし。力比べだけが勝ち負けを決めるわけじゃないんだし。次はショウらしく、頭を使うんだよ」
「言われた通り甘えたつもりなんだけど」
「じゃあ甘えるのが下手ね」
「話はそれだけか?」
ユウはショウから視線を外して真っ暗な夜空を見上げる。そのまま顔を合わせることなく、独り言のように呟いた。
「あんまり大きな声では言えないんだけどね、生きててくれてありがとうって」
「それは大声では言えないかもな」
「私決めたんだ。今日色々なことがあったけれど、予想もしてなかったけれど、だから決心できた。とりあえず私はあなたで妥協するから、あなたも私で妥協して」
「告白の台詞にしては少々失礼じゃないのか」
「だって、この世には私よりも綺麗で、聡明で、欲しい言葉をかけてくれて、尽くしてくれる女の人がいると思うわ。もちろん、私にももっといい人がいるでしょう。でも、出会えるかなんてわかんないんだから、早く妥協してってこと」
「そのままの意味かよ」
「まあ、判断を急かしてるわけじゃないし、7割冗談、3割本気ね。ネイちゃんと勝負しないといけないし。選ぶにしてもそれ以外はナシだと助かるわ。それだけ、釘を刺しておきたかったの」
「一夫多妻、多夫一妻、多夫多妻、この先どーなるかわからんからな。結論を急ぎたくはないかな。ネコがなにかしでかしそうな気もするし」
「私はしばらくはあなたに付き纏うつもりだから。時間はあるわ。どこも行くとこないんだし。心配しなくていいわ」
「俺の癖が変わらない限りは、今のところユウは1位独走中だから。心配すんな」
「そういうことしれっと言えちゃうの、尊敬するわ。本心じゃなかったら、説教じゃ済まさないからね」
世界には、自分よりも優れて、恵まれて、愛されている幸せな人物がいると思い知った。同時に、劣って、失って、蔑ろにされる不幸な人物もいると思い知った。今日のそういった事実が、ショウをいつも以上に冷静で客観的でセンチメンタルな思考にした。いつも以上に理性が働いていたからこそ、落ち着いていたからこそ、感情が少し置き去りに、事務的に思ったことを口にしていたのだろう。
「あ、説教で思い出した。女の子に手を上げちゃダメ」
「ええっ⁈」
いきなり別の説教が飛んできてショウは困惑する。
「説教は後って言ってたでしょ」
「急ハンドルすぎないか。落差がすげーよ」
「あれは、あの状況じゃ、あれが一番効果的ってのはわかった上でね。でも、相手は女の子だから。女の子は優しくしといて損はないわ。男なら特に、ね」
「女の子じゃなかったらいいのか?」
「そうねえ、年をとるごとに女は醜くなっていくから、ケースバイケースよ。でも、今度から手を上げるのは、金輪際かかわりのない子だけにしなさい。どうしようもないときは私が代わりに引っ叩くから」
「今度からは任せるわ。あんたの仕事な」
「まかせとけぃ」
会話が一息ついたので、ショウは息抜きついでに大きく息を吐いた。
「今日はもう寝ましょうか。ここでひとつお姉さんからのサービスをしてあげてもいいんだけど、抜け駆けは気乗りしないから、ごめんねっ」
「安心しろ。節操のない女は嫌いだ。関係ないけど、生物ってさ、死期が迫ると、子孫を残そうと性欲が強くなるらしいが。俺、まだ死ぬ気ないんだよね」
「やっぱり、そうでなきゃショウは。そう、そう。皮肉のひとつもあってこそ、よ。いつもの調子を取り戻したようで安心した」
そして、フゥーっとユウはショウの耳元に空気を吹く。
ショウは全身が震えあがり、ここ一番の身震いをした。
「急に目を逸らしだすからよ。いじわるしたくなっちゃった」
「汚い夜風だった」
「あら、ショウもいじわるね」
「おやすみ」といって、ユウは屋上から去っていった。
そこからショウは屋上で1人、仰向けになって考え事をした。
自分の身のあり方、ユウのこと、ネイのこと、アキのこと、ミサとミヤのこと、これからのこと、エトセトラ……。
考えられることの多い中で、ただひとつだけわかったことは、結局どれだけ考えても、未来は何一つわからないということだった。
少し不幸で、でも案外幸せで、強くて優しい年相応の青年は1人廃ビルの屋上で空を眺めていた。暗幕のような夜空の双月は主張が強い。目を凝らせば無数に輝いている星が発見できるが、それは選択肢の多さを仄めかすと同時に、それゆえの迷いや怖さを降らせているようだった。
ショウはそのまま目を瞑ってそれらをシャットアウトし、静かに羊を数えた。




