ep4 日常の間奏
次の日の朝。
ユウは、休みを取っておけばよかったと思いつつも、今日も変わらず勤務日なのが少し嬉しかった。会社にはボウト関連のまだ使えそうな調査のための資料が揃っているというごく単純な理由である。しかし本当のところは、脳内のドーパミンが過剰分泌されっぱなしのせいで、少しおかしくなっているのだ。普通なら死にそうになったんだから、フラッシュバックの1つや2つあって、夜も眠れなくなることだってあり得る。しかし、事が前進しているという感覚が、あまりにも気持ちが良かった。これまで幽霊とすら噂されていた会長が実際にあの場にいたという事実、いつも映像や資料でしか見ることのないボウトと実際に会話して、あろうことか生還までしたこと、これまでが本当に何も進んでなかったゆえ、ユウにとってはとても大きな進歩だった。
成長が、コツコツと地道に積み上がっていくものではなく、きっかけをつかんだ次の瞬間に勢いよく形になっていくものであるとするならば、まさにその瞬間の一歩前というのを察知しているのだ。楽しくて仕方がないわけである。
「おはようございます。室長」
「あっ、おはよう、九鳥」
会社のエレベーターで室長に遭遇したので、挨拶をした。
シャワーを浴びて休憩を終えたところなのだろうか。爽やかなオーラが飛散していた。しかし、いつもなら爽やかな返しがすぐに返ってくるのだが、少し微妙な反応だった。きっと、昨日はあんな襲撃事件もあって、家にも帰れてなくて疲れが残っているのだろう。
情報収集指令室室長 藤鹿トシヤ。
ユウの直属の上司にあたる。この部署での主な仕事は、実働隊に指示や情報を伝え、隊員からの報告を受けることや、監視カメラや衛星映像の見張りなどである。映像の解析や作戦の立案はまた別の部署の管轄で、雑務の多い部署である。その中でも、ユウは下っ端も下っ端なので、やっていることはコールセンターの事務員といったほうが近い。電話で報告を受けては、その内容を報告書に書き起こしてばかりである。
そして、この藤鹿という男は、目を見張る勢いで出世街道を駆け上がっている、言わばスーパーエリートである。作戦の指揮立案に関わるようになっており、いずれ社長になるとも噂されているような人物である。スーツの似合う高身長で、スタイルよく小奇麗で、なにより頭の回る切れ者である。仕事一筋で、職場を住処にしているという泥臭い一面もある。女性社員からの人気は断トツで一位であると聞く。ただ、そもそも女性の少ない職場であるし、こちらも仕事熱心なキャリアウーマンみたいな人ばかりなので、女たちの内戦はまだ表面化してはいない。
ユウからしたら、早くに大出世した憧れの的である。しかし、一応彼氏持ちで、会長捜索を第一に行動しているユウにとっては、さほど優先順位の高い男ではなかった。
一緒にエレベーターから降りて、指令室に向かう途中で室長から話しかけられる。
「ああ、九鳥。お前、研究開発部の望月主任と仲良かったよな。今度話がしたいから、予定を聞いておいて欲しい」
「わかりました」
わざわざ私に言わなくても、アポくらいできるはずなのにとも思ったが、まあ気にすることでもないかとスルーした。あとで行くつもりだったし、そのときに伝えておこう。それにしても、今日は室長に少し元気がないように感じる。
いつも以上に能天気なユウは、午前中の勤務時間を低燃費で終えると、昼休憩になってすぐ、ユウは研究開発部のある棟を訪れる。
「よっ、サトミ」
「なんじゃ」
その部屋は、壁一面にモニターが敷き詰められ、部屋のゴミ箱からはカップ麺のカラとエナジードリンクとコーヒーの空き缶が溢れ、床にも浸食しており、足の踏み場の確保もままならい。
ヨレヨレの白衣、ボサボサの長髪に、それに、まるっきり似合ってない丸メガネ。扉から入ってきたユウを振り返ってみることもなく、返事だけ。モニターに反射した顔には、たぶん忙しいと書いてある。
望月サトミ
BBの研究員。期待の新人(今もそうかはわからない)。情報研究の専門家。ハッキングもお手の物。短大を卒業してからBBに就職したため、ユウのほうが2年先輩になるが、同い年である。天才は変人という偏見を具現化したような人物。本人談によると、生活力がまるでなく、研究以外の能力は持ち合わせていない。会社からシャワーとベッド付きの研究室を与えられるくらいには出世していて、今は主任という肩書である。そして、ユウにとっては社会人になってからできた数少ない友人である。
「あんた、まーた不摂生な。体は大事にしないと」
「まあ、しばらく生きれるし」
「言い訳になってないわよ」
「うひょー。これこれこれ!」
サトミはユウは持ってきたプリンを見つけると、ようやくキーボードとマウスから手を離して飛びつく。天才いわく、脳内CPU をフル稼働させると、甘い物が欲しくなるらしい。会社前のケーキ屋のプリンであるが、サトミは研究室兼自室に籠って外に出ないので、時々こうしてユウが買って持ってきている。
サトミは、ユウが会長を追っていることを知っている社内で唯一の人間である。だから、こうしてときどき情報のプロの力を借りられている。ただ、知っているのはそのことだけで、確証のない血縁関係云々は誰にも漏らしていない。しかし、いつかは調べがついて、サトミにそのことを黙っていたことが発覚してしまうかもしれないという後ろめたさみたいなものがないわけではなかった。それでも、たとえ友達でも、格好がつけたくて、秘密を打ち明けられずにいた。
部屋の真ん中にあるテーブルの上に積みあがったゴミの山をユウが片づけて、ふたりで昼食をすっ飛ばしてプリンを開ける。このプリンの蓋を開けたときに香る甘ったる過ぎない匂いは、いつ嗅いでも幸せな気持ちにしてくれる。
「あんたも少しは気を使ったらいいのに。もったいないよ、せっかくいい原石を持ってるのに」
「原石は所詮原石よ。最初から美麗な宝石持ちに言われても説得力ないし。彼氏持ちは安全圏から攻撃してくるな」
「私にはあんたみたいな才能があるわけじゃないし、トータルで見たら私の負けだと思うのだけれど」
「じゃあ、私が髪色明るくして、『きゅーん♡』ってやったらいいわけ? あたしの身長じゃ、こんな戦略しか取れないんだよ、いいよな背の高いモデル体型ってやつは」
サトミは外面だけならば小柄で可愛く、モテるタイプではあるが、本人の気質が絶望的にマッチしていない。
自虐の後の称賛は攻撃力が2倍に跳ね上がる。2倍量の攻撃をうまく返せないと察したユウは、話題を変えた。
「そういえば、室長が話があるから、いつなら会えるかって聞いてたよ」
「ええええっ!」
この反応かあ、と妙に納得してしまう。以前から、室長の話をよく聞きたがっていたし、話すと恋する乙女のような反応をしてくれていた。今回の件を伝えると、予想以上に嬉しそうな反応をくれたので、つられてユウも嬉しくなった。
「明日の午後ならいつでもって伝えといて。準備しなくちゃ。ユウはどうなのよ?」
「どうなのって?」
「職場紅一点でしょ? 少しはモテてもいいんじゃない?」
いない、というのには少し語弊がある。確かに、ユウの部署に女性はいない。しかし、他の部所に行けば多少いる。ユウの所属する情報指令室は、様々な情報が集まってくる関係上、それなりに機密性が高く、いわば出世したエリートの集まってきやすい部署である。ユウは、職場で会長探しに精を出していたら、それ含めた勤務態度が必要以上に評価されたおかげで出世した。ユウ自身も、上に行った方が得られる情報が多くなるので悪くは思っていない。ただ、エリートの集まりなので、今の部署では下っ端を極めていた。現に、周囲に女子がいないから、こうしてこの研究開発部までやってきているのである。早々に出世したユウが嫉妬の対象にならないこともないし、女関係は面倒くさいことが多いので、友達が作りにくい状況でもあった。棟も違えば、分野も違うサトミとは競合することがなく、居心地が良かった。
「私は一応彼氏いるし。私はサトミのほうがお似合いだと思うのだけど。そこは安心して」
「彼氏マウントかよ。でも、嬉しいこと言ってくれるのね」
これは本心なんだけどなあ、とこれ以上勝手なことが言えないのがもどかしい。ユウは、平凡のラインを行き来する中途半端な自分よりも、仕事もそれ以外も完璧にこなせそうな室長と、研究にパラメーターを振り切ったサトミのほうが凹凸が噛み合ってお似合いなのではと思っている。
「内容はなんなんだろうね」
サトミの呟きに、ユウは「さあ?」と答えはしたものの、実際は、研究に関することだろうと薄々は分かっているはずだ。だが、そこにわずかな期待を抱いてしまうのが、女子というものなのかもしれない。
ユウは導入のための世間話から三行ほどの間を取って本題に移行する。