ep3 刃と獣
物事の始まりは、いつも身構える間もなく、意識外から突然にやってくる。そのタイミングを逃してはいけない。
大きな爆発音も、たくさんの足音も、誰かの叫び声も聞こえなかった。ただ、なんとなく、空気が騒がしい。ユウは微細な「それ」をなんとなく感じ取った。この部屋に来てからずっと物音にはいつも以上に敏感になっていたが、初めての感覚だった。右腕に立った鳥肌を目視して、確信に至る。今回のは嵐の前の静けさという言葉が近いような、肌が嵐の到来を告げていた。
その胸騒ぎに向き合う間もなかった。すぐに天井の電気が消える。周囲がうるさくなっていく。そして響く、足音、銃声、どなり声、叫び声。
パニックになるところだった。しかし、冷静に事態に対処するという意識は消えていなかったし、目の前は判然と見えていた。仕事柄、不測の事態には心得があったからかもしれない。
もしかしたら、敵がこの部屋に入ってくるかもしれない。人影を見つけた瞬間に撃ってくるかもしれない。物音を立てないように、体を縮め、まるで地震のときのようにテーブルの下に潜り込む。鞄をぎゅっと抱きしめる。あとは、誰も来ないでくれと願うだけだった。
暗く狭い机下の空間の中で、震えながらじっと待つ。
しばらく銃声が鳴り響く。銃声に紛れて、木のきしむような音が届くようになる。しだいに音の圧が大きくなる。
足音だ。
―こっちに来る―
ゾクゾクバクバクで収まらない骨にまで響く心臓の拍動と荒くなる呼吸を必死に押し殺して、ただ幸運を願った。舌を嚙み、次いで唇を締め、息を止める。
「こちら2階に到着。……了解。」
「下で見つかったらしい。俺らもすぐに応援に行く。2階は後回しだ」
「了解」
男の低い声と通話越し雑音混じりの機械音が聞こえた。足音からして2人いるらしい。会話からして、呼び出されて下の階へ降りていくようだった。
バレるな、来るな、そう心の中で繰り返す間もなく、男たちが一階へ走っていく音がした。
机下で猫背で縮こまっていたユウは、人生で初めて神に感謝していた。もう少しその幸運が続くことを、藁を手で抱きかかえるような気持ちで願った。そして、人もしくは神にモノを頼むような姿勢ではないことももちろん謝罪した。
必死に感覚すべてで祈っている間に、辺りは何もなかったように静かになっていた。
それからどのくらい時間が経っただろうか。さっきの襲撃者たちはいったいどこに行ったのだろう。なかなか戻ってこない。
頭の中でできる限りの整理整頓を試みる。自分の他にもここに鈴橋会長が来るという情報を掴んだボウトがいてもおかしくはない。ただ、暴動が収まったということはガーディアンによる制圧が完了したということだ。BBのガーディアンが事後処理に入ったら、絶対に会長に会えない。これは妄想でも机上の空論でもない。駝鳥でも可能な予測だ。
「ここにいては何もない。急がなくちゃ」
焦燥感に駆られて、ユウは部屋を飛び出した。だが、体は思い通りには動かない。忘れかけていた恐怖が舞い戻ってくる。壁に寄りかかりながら、おぼつかない脚を前に進めていく。会長がいたはずの一階へ向かう。とにかく会長が引き揚げる前にどうにか姿を現さないといけない。一目だけでも見て、その存在の確証を得たい。
停電で暗いなか、壁伝いに一階へ降りたユウが目にしたのは予想だにもしなかった惨状だった。
一番大きい大広間は、襖が銃弾で穴あきになっていて廊下から中の様子が覗けた。
障子を触らないように前屈みの四つん這いで覗いたその先は、思わず目だけが泳いだ。
先ほどの4畳半の部屋よりも桁違いに広く豪華な部屋だったのだろう。天井は比較的被害が少なく、真っ暗ながらも差し込んでくる光をその装飾が反射している。
ゴロゴロと眼球が可動範囲の限界を突破するように動き回る。だが、それ以外に捉えられるのは荒れた部屋と数多の銃弾の跡である。
仕事柄、こういった現場の映像には見慣れていた。実際に出来立てほやほやの光景を見てもあまり動揺はしなかった。この世界の常識では、どんな人でも死ねば言葉通り物理的に消滅してしまうから、死体がないのは当たり前のことであるし、その結果、銃などの武器だけが消滅せずに残されるのも普通のことである。少しばかり鼻に窮屈さを感じるが、これは血の匂いだけは完全に消えないからである。
しかし、その銃の形状には見覚えがある。それが、そこにも、あそこにも、あっちにも。暗い中で見える銃はどれもBBが支給しているものだった。
「ひぃっ」
思わず声を漏らしてしまう。脳を過る信じたくない憶測に動揺が堪えられなかった。全身が強張って締め付けられるような感覚が襲う。まさか…。
「誰だ⁈」
ユウはとっさに口を抑えながら覗き穴から離れ、襖から隣の壁にずれる。
すぐに横の襖が音を立てて壊れていく。真横を銃弾が通り過ぎていく。必死に逃げようにも、腰から下が動かない。生きたいという気持ちと死がすぐ先まで迫ってきた恐怖が現実からも逃がしてくれない。いつの間にか勝手に八面楚歌の四方塞がりに陥っていた。
襖が倒れ、確実にやって来た。
その場でうずくまることしかできなくなった。それでも顔を上げ、せめて殺した奴の顔くらいは覚えてやるって、振り絞って斜め上を睨んだ。
「何者だ? 女か⁉」
目の前に現れた「それ」からは男の低い声がした。さっき2階で聞こえた声とよく似ていた。あれからそれなりに時間が経っているはずだがまだいたらしい。銃を構えているのと、その後ろにもう1人。
目の前の2人の男を前に、走馬灯すらなかった。口は開いていても声が出ない。悲鳴も上げられない。死を目の前にして、やり残したことがあるような気もするが、楽になれるような気もした。意外にもあっさりと諦めがつき、むしろ清々しいような感覚だった。だが覚悟を決めて目を閉じるときはがむしゃらだったように思う。
近くで銃声がする。
「なんだ!」
不思議とまだ体に力が入る。顔を上げた先では、ちょうど男の大きな背中が見える。その後ろ姿は銃を構えたときのやつだ。
自分に向いていた銃口はもうなかった。だが、考えるよりも逃げるよりも先に、敵だったはずの銃口の狙う先を追いかけていた。
部屋の奥から何者かが来て、後ろの1人を撃った。撃たれたそいつは蹲り、もう1人がすかさず振り向いて撃ち返した。その何者かは、部屋のテーブルを立てて盾にして隠れ、銃弾を防いでいる?
目の前の状況を一瞬で総括すると、そんなかんじだ。
次の瞬間、テーブルの後ろから人が飛び出してきて、そのまま目の前の男に飛び掛かり、男が倒れる。ちょうど男がリロードをするタイミングで飛び出し、位置からして首をかき切ったのだろう。顔に飛び散ってきた血にユウが触れる間もなく、物を引きずるような音がする。蹲っていたもう1人が回復を済ませて銃を取り出す前に、蹴り飛ばされた音だった。こちらも急所を一突きされたのか、仰向けのまま動かない。
そして、瞬きすると目の前にいた「何者」は、腰の抜けたユウに馬乗りになってきた。気づけば、ユウは押し倒され、開いた口に銃口をねじ込まれている。口の中には無機質な冷たさと少し奥から熱が伝わってくる。
一瞬過ぎて全く理解が追いつかない。だが、命の危険の再来だった。もっとも、さっきよりは鬼気迫ってはいないようだが。
「何者だ?」
聞こえたのはまた男の声だった。さっきの男たちと違って、無機質で生気のない印象を受ける。
すぐに射殺されなかったことに運の良さを感じつつも、次の回答が生死を分けるのははっきりわかっていた。必死に頭を回し、震える体内から言葉を絞り出す。そして、銃で塞がった口を無理やり動かす。
「は、ははしは、ほ、ほほの、ひゅ、ふうほーひんかふ(わ、わたしは、こ、ここの、じゅ、従業員です)」
とっさに思いついた言い訳を述べる。
「なぜここに?」
「はまはまへふ(たまたまです)」
男はユウの口から銃を抜くと、今度は自分の口で咥えて、ライトを取り出した。暗さに慣れたユウの目には少量の光でも相当眩しい。だが、逆光でさっきよりもその男のシルエットがわかる。
全身黒くて、いかにも暗殺を生業にしていそうな感じだった。フードを深々とかぶっていて、顔が見えない。だが、ボウトには違いなさそうだった。
そして、片服の袖が張りなく垂れている。たぶん片腕がないのだろう。しかし、そんなことは状況を打破する突破口にもならない。動こうと体のどこかに力を入れれば、すぐに気づかれる、殺されると直感した。この世界で一番信頼できる「直感」(それ)のいうことを聞かないわけにはいかず、ユウは静を貫いた。
「あのときと似ているな」
男はというと、ユウの上に乗ったままで、部屋の中にライトを向けて、周囲を見渡し始めていた。
「ちょっと、いつまで乗ってるんですか?」
「あ、すまない」
反射的にツッコんでしまう。しかし、ツッコんでから反省した。今生死の権限を握っているのは相手の方だ。
だが、男は意外にも素直にユウの上から退いた。さっきまで銃を向けられていたのを忘れるくらいあっさりだった。だが、顔はさっきからずっと他の方向を向いている。
男はユウに一切目もくれず、付近をライトで照らしながら散策していた。
「何してるんですか?」
またもツッコんでしまう。これはツッコミというより、質問かもしれない。質問を声に出してから、この隙に逃げればよかったと思いつく。
緊張、生存、安堵など二転三転と激動したユウの心には、もう恐怖などなかった。それゆえ、反応がない男にさらに質問を重ねていた。
「あなたの目的はなんですか?」
「まだいたの?」
男はようやくユウを目視したが、相変わらず返事はそっけなさ全開で、早くここから消えろと言わんばかりだった。
どうみてもユウのことは眼中にないらしい。ここまでそっけなくされると、意地でも振り向かせたくなるものだ。
「どうして私を殺さなかったんですか」
「どうしてって。女でこういう戦場にいるのは、強いか命知らずかのどっちかだけ」
この質問なら答えてくれるだろうという謎の自信があった。しかし、ユウを一切見ずにボソッと言っただけの返答は納得したくはないものだった。
「何してるんですか? 返答する余裕があるなら教えてくれたっていいじゃないですか」
ユウに無関心を決め込み、さっきからずっとかがんで現場を漁っているその男に、ユウはもう一度同じ質問をしていた。
「なにって。人探しだよ」
「誰を?」
「ペラペラと情報を漏らすとでも」
「BBの会長のこと?」
「あんたも同業か? まあ鈴橋はたぶん死んでないから安心しな」
「あなたはどうして会長を追っているんですか?」
「BBの親玉だろ。超レアな。煮るなり焼くなり調理法はいくらでもあるさ」
「あなたはいったい何様なんですか?」
「何様って(微笑)。どこからどう見ても、この国の敵役、ボウト以外に見えるのか?」
「そうなんだけど。そんなボウトが目の前の人も殺さず何してるんですか?」
「皆が皆、誰彼構わず殺していく悪魔だとは限らないだろう? それに俺は害意のない人間をわざわざ殺さないポリシーなのさ」
その暗い空間には、息をしているのはユウと目の前の男しかいないはずだ。しかし、どこからか機械の駆動音が響いてくる。
「それじゃあ、お嬢さん。せっかくなんだし、命は大事にしなよ」
男からの忠告は少し、挑発的というか、人間的というか、調子者というか、さっきまでの無機質さとはうって変わって温かみみたいなものが感じられた。
かがんで探偵みたく現場を眺めていた男は、いつの間にか立ち上がっていたかと思うと、その姿はぼやけていて、今にも音なしで消えてしまいそうな一歩手前だった。
「あなたの名前は?」
ユウが、消えそうな影を繋ぎとめようと出た言葉はそれだった。もっと情報を聞きたかったのだけど、せめて……と。
「人に名を聞くときは自分から名乗るのがセオリーでは」
「わ、私は、くとっ……」
もう姿はなかった。残滓のように聞こえてきた声に返事をしようとして、諦めた。
時間にしてたった数分。体感では一瞬の出来事だったけれど、すごくスムーズに事が運んだのが信じられないでいた。まるで天国にいるかのような充実感、適当に選んだ選択肢が全部正解だったときのような一時的な幸福感だった。
ユウは、1回両手でほっぺたをパチンと挟み叩く。鈍く痛む。どうやらここは天国ではないらしい。今日の出来事を確定・精査するためにも、帰宅する(持ち帰る)のが先決である。今はとにかく現実に対処しなくちゃいけない。
すぐにBBの部隊が事件の後片付けにやってくる。自分がここにいるのは、なかなかにマズイ。
ユウは、旅館の裏口からそっと抜け出し、停めておいたバイクに乗って、現場から足早に退散した。
バイクに乗りながら、ユウは命拾いしたことを本当の意味で実感した。同時に、同胞を見つけたような心持でいた。目標にしていた存在の確認はできなかったが、同じものを追いかける無謀な者の存在は収穫としては大きかった。
そして、何かを手に入れるために必要な力の存在に魅入られた。彼は、銃と刀と獣のような無情さ、それでもどこかお人好しで、あんな惨状を見ても一切動揺した素振りもない、そういったものを持ち合わせていた。そういった力があっても、見つけられない会長の存在にまた意識が遠くなる。しかし、自分にはないその力に圧倒されつつも、甘い考えは捨てて、必要ならば手を伸ばすしかないと思わなくはなかった。
夜明けがすぐそこまできていた。