ep2 彼誰(かわたれ)
女は瞼の裏の景色を見ていた。
少女、いや、少女というのは少々失礼かもしれない。女は一人、部屋で背筋を伸ばし正座で目を瞑り静思する。目を瞑ったまま深呼吸を繰り返す。目の前のテーブルに並んだ料理には一切触れずに。
時刻は午後11時を過ぎた頃。繁華街からは少し離れた山の中にひっそりと奥ゆかしく、それでいて荘厳な高級旅館の二階の一室。4畳半という限られた面積。しかし、芸術という言葉で片づけてしまいたくなるような躍動感にあふれた生け花と掛け軸、にところどころに金色が散りばめられた襖と、大きなガラス窓からは紺青の夜空と手入れが行き届き調和のとれた美麗な庭園が見える。有り余る圧倒感がそこにはあった。おおきなガラス越しに見える夜空の2つの月は、ただただ綺麗で、明るかった。ただ、広い夜空を双月だけで独占しているところがどこか寂しくもあった。
女の名前は「九鳥ユウ」。艶やかで碧みがかった黒色の長髪で、それなりに端正な顔立ちをしている。齢22歳。高級旅館に来た女にしては、少し不適当なカジュアルで動きやすそうな服装をしている。平均より少し身長が高くスタイルがいいくらいで、どこにでもいるようなOLである。
ユウはずっと母親と2人で暮らしていた。ユウが高校に入学して少し経った頃、母親はこれまでの心労がたたったのか、病気で寝込んでしまった。そして、そのままコロッと帰らぬ人となった。短い闘病生活の中、このときに初めて女は母親から彼女の父親の話を聞いたのだった。
その話によれば、今からちょうど20年前、ユウがまだ2歳だったときに父親は家を出ていった。そして、父親の名前が「鈴橋サイイチ」であること、かのベルブリッジ社の創業者であることを知った。だが、それを裏付ける証拠はどこにもなかった。衰弱した母親の妄言だって可能性も大いにあった。そのときは、父親が社長ならその資産が少しくらいあればよかったのにと思ったくらいで、ほとんど信じていなかった。
ベルブリッジ社、通称BBは、この国で最大手の民間軍事会社(PMC)である。この国の状況はというと、すでに半分くらい滅んでいる。正確に言うと、警察は崩壊し、政治機関も名前だけのものになっている。何かを実行できるだけの「力」が国に残っていない。そのため、各地で「ボウト」と呼ばれる無法者が溢れかえり、治安が非常に悪化した。そして、こんな状況に怯えて暮らしている人々も大勢いた。そんな中で、BBはその軍事力を背景に、この国にある程度の秩序をもたらしてきた。自前で「ガード」と呼ばれる大規模な部隊を抱えており、人々の護衛から、ボウトの取り締まりなど、その業務は多岐にわたる。もはや、BBが沈みかけのこの国の舵取りをしているといって差し支えない。創業者は鈴橋サイイチ(現在の地位は会長ということになっている)であるが失踪中という噂であり、現在舵取りをしているのは社長の実脇カイという男である。
母の死に半ば自暴自棄になっていた少女は、ある日、父親を捜そうと決心した。むしろ立ち直る自己弁護として不確かな父親の存在を利用したのだ。父親が誰なのか、母親の言っていたことは本当なのかを確かめたい、その一心で動いてきた。そして、彼女は高校を卒業した後、ベルブリッジ社に就職した。ただでさえ門戸の狭いBBに彼女が就職できたのは、母親を失ってからずっと親身なって寄り添い、あらゆるコネを紹介し、足りない内申点を補うなど、尽力してくれた卜川ホウコ(うらかわほうこ)という通っていた高校の女教師のおかげである。
なんとかギリギリで内定をもらって、内部に潜入することに成功した。そこからは、会長がどこにいるのか、何をしているのかを探った。しかし、下っ端の平社員にそんな情報が回ってくるわけもなく、閲覧できる社内資料も限られていた。あの手この手で情報を集めながら、出世のために仕事に精を出した。
しかし、4年たっても手がかりのひとつもつかめなかった。失踪しているのは間違いなく、あらかた社内の資料には目を通し終えたため、社内でできる調査は行き詰まっていた。
5年目にして、新たな手段を講じた。情報屋とのコネクションが築けたのだ。この世界における情報屋は、基本的にグレーなことをしていることが多く、「ボウト」とみなされ摘発されることがほとんどだ。情報屋とのやり取りは会社に見つかったら懲戒解雇ものだが、もう後には退けなかった。そして、1カ月ほど前からやり取りしていた情報屋から今日ここに現れるとの情報を得た。さらに、数多あるサテレスの部隊の中でも最強の一角に数えられている優秀な第7部隊の隊長をしている恋人からも情報を聞き出し、きちんと裏も取れていた。極秘任務で護衛の仕事があると言っていたから、要人であることは間違いないと、ユウには確信があった。
今いるこのお店自体も、スマホの検索バーに「亀路都」と入力してみても粗雑なホームページが出てくるだけで、どう見ても怪しかった。
5年目にしてやっと、成果が実る目前まで来ていた。ただ、情報屋の分も含めると今日だけで半月分の以上の給料が飛んでいくのには目を瞑るしかなかった。
就職してからずっと、いや父親のことを知ってから、そのときからずっと本当かもわからない父親を追ってきた。指折りで数えたらすでに4年が経過している。かなりの時間がかかっている。そんなこと思いながら、過去を顧みていた。
ユウは自分自身が何をしたいのか、わからなくなっているような気がしていた。本当に父親だったとして、母と自分を置いていった理由が知りたいのか、謝罪が欲しいのか、一発殴ってやりたいのか、それとも金を要求したいのか。もしくは信じたくないが、何年も追ってきた相手が、まさか赤の他人だったら……。
とりあえず会うことだけを考えてきたから、その先のことは考えていなかった。もし会えたとしても、会長がどういう反応をするかもわからない。生きているのだから、同じ人間だし、話せばわかると、だからこそ会えればなんとかなると、甘い考えがないこともない。都合の悪いことは考えたくない。また今回も後回しにする。
ユウは、夕方から現地入りして、機会をずっと伺っていた。いつどのタイミングで動き出すべきか決めあぐねていた。いろいろと準備はしていたものの、これといった計画があるわけではなかった。会長は本当に来るのか、どこの部屋を使うかもわからない。いずれはどこかの部屋の戸を叩くしかなかった。目の前に姿を現せば、気づいてくれるかもと淡い期待がないわけでもなかった。どこかの映画みたいにSPたちの前で喚けばお目にかかれて話しかけられるかもとか、小学生の特有の教室に不審者が入ってくる妄想レベルの都合のいい幻想のほうが頭を駆け巡る。
4畳半の部屋を何周歩き回ったかもわからない。結局、座禅みたく、正座して心の調律をするしかなかった。
瞼の裏も現実もどちらも見ていたら不安になる。休まるところがない。口から静かに息を吐く。頭の中では思考が駆け巡っているのに、足も動かない。きっとこれは足が痺れていたから……。