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五七調による詩劇「おぼろめ」

作者: ぺいたろう

第1幕 1場A 岩場

 

 静寂と暗闇。決して無音ではない。雲の隙間から満月がのぞくと、海烏の数え歌が響き渡る。


海烏「ひとつ ひとよの ひめごとに

   ふたつ ふたりの つみびとが

   みっつ みじかい ゆめをみた

   よっつ このよの はてまでも 

   いつつ いっしょに いきるなど

   むっつ むなしき ねがいねと

   ななつ なみだも ながさずに

   やっつ やどりし ややこつれ

   ここのつ 今宵の 赤人魚

   とおで 吐息に 消えていく」


 静寂に波音が重なり、しだいに激しい調子がはじまる。月が煌々と輝く岩場。何人かの人魚が、赤い人魚を追い詰めようとしている。


海烏「どどどどどどど 

   どどどどどどど

   ずむずむずむずむ  

   どどどどどどど


      波浪波濤の飛沫をあげて

        深紅の鱗が夜陰に逃げる

        狂濤怒濤の怒りの黒波

        人魚追い詰め満月夜


   どう どう どどう

   ごう ごう ごごう

   どう どう どどう

   どう どう どどう 

        

        ここは北海寂々の海

        人魚の群れがあったとさ   

        漁火沈めて益荒男喰らい

        玉肌守ると人の言う


  どどどどどどど

  どどどどどどど

  ずむずむずむずむ

  どどどどどどど

    

        金波銀波は打ち砕かれて

        逆巻き滾る麦秋の海

        千波万波の激する因は

        真中におります赤人魚  

          

  逆鱗囲むは十重二十重

  絹の黒髪むんずと攫まれ

  緋色の魚鱗は掻きむしられる


        両腕奪われ首締められて

        終に堪忍手は後ろ

        睨む瞳は深紅の眼        

        故に呼ばれる名は赤目    


 赤目と呼ばれた人魚、幾人もの人魚達に押さえつけられ、引きずりまわされる。顔は、乱れた髪でよく見ることができない。人魚達は一旦舞台上から去る。

 同時に、奥に薄らと岩場が見えてくる。中央の大きな岩上には、老いた白い人魚と、黒く、体の大きな人魚がいる。        


矢来「ましろ様、ご覧ください。満月が、清水山の峠を越えようとしております。港を見れば、漁火がゆらゆら灯り始めました。間もなく時間でございます。もう待ちきれません。どうぞお命じください。ここにおります人魚全員で、赤目を連れてこいと。」

ましろ「矢来。貴方は一刻も前からここに来て、そればかり言っているね。そんなに急くな。赤目は来ると言ったのだ。今日の狩りには今宵の満月に誓って必ず来ると。私は待つのは辛くはない。あの子を信じているからね。お前みたいに疑い深い者を見ているほうが辛いね。そんなに心配ばかりしていたら、その美しい髪が抜け落ちるぞ。まあ、待とう。約束にはまだ時間がある。それに、あの子の親友達を迎えにやったではないか。大丈夫、ちゃんと連れてくる。」

矢来「ましろ様、私は残念ながら、あの子が素直にここに来るとは思えません。そう感じているのは私だけではないでしょう。それなのに、何故皆は黙っているのだ。先刻から騒ぐのは私ばかり。そんなにあの娘を信じているのか。たかだか十七にもならない赤目の約束ごとだぞ。気まぐれでいつ変わるかもしれない。月をご覧なさいな。輪郭のはっきりしない、海に映ったようなおぼろな月。あの子の誓った満月は、こんなにも不安・・・。」

雪待「一刻も前からここにいたとは、さすが心配性の矢来だね。貴方のように、心のうちを正直に話してみると、私だって不安さ。ただの狩りならともかく、今回は特別だからね。半年ぶりに、赤目が来るのだから。でも本当に来るかはわからない。矢来、私はね、その心のもやを口に出してしまうのが怖いだけさ。音にすると、それが現実になってしまう様な気がするのでね。貴方みたいに言葉にする勇気が無いだけ。一生懸命考えないようにしているだけ。大丈夫、焦っているのは貴方だけではないよ。その証拠に、誰一人、いつもの他愛無い話さえ、し始めるものはいないのだから。だから余計に考えてしまう。心の空いた所で、『もし』をね。こうしている私だって,血が上ってくるのがわかるよ。満月に引かれているせいだけじゃあなく『もし』がこころを膨らませていくのが。」

矢来「そうさ。何故みんな黙っているのだ。黙って私の喚きばかり聞いて,内心あざ笑っているのだろう。醜く騒いで大人げないと。いくらすましていても、中身はがたがたさ。ほら、またお前。波の音にびくついて、きょろきょろあたりを眺め回すだけで,何か言ったらどうだい。」

ましろ「そろそろ黙りなさい、矢来。怒りは本当に約束が破られたときに取っておく事だね。」

若い人魚1「しかし、ましろ様。矢来様のおっしゃることも、ごもっともだと思うのです。」

矢来「ようやくでてきたよ。ほら、言って見なさい。勇気を出して、雪待の言う、『もし』を音にして見なさい。」

若い人魚1「もしも、もしもでございますよ・・・」

矢来「聞こえないわよ。波の音で何にも。」

ましろ「矢来!」

若い人魚1「もしも、今日、赤目がこなかったら、私たちの群れはどうなってしまうのでしょうか。もう半年も待ったのです。今日狩りにいく事ができなかったら、その時はどうしたらよいのでしょうか。」

若い人魚2「半年前,赤目が穴蔵の奥深くに姿を消してから,はじめの二月は我慢する事ができました。しかし、次の満月も、その次の満月も赤目は来ない。三度、四度を流れるたびに、恐ろしい結末ばかりがこの心をよぎるようになったのです。」

雪待「恐ろしい結末ね。そうさ、恐ろしい。

人間を食べなくなって半年、貴方たち若い人魚と違って,私や矢来は、確実に変化が出てきてしまったからね。貴方たちも私たちをみるのが恐ろしいだろう。人間を食べられなかったこの半年、急速に老いが進んでしまった。漆黒だった髪も、もう半分以上白髪がまじってしまった。目の回りにも、深い深いしわが刻まれるようになった。」

矢来「そうさ雪待。お前の言う『もし』を口に出さなくても、本当の事は起きてしまうのさ。私たちがそうだ。そうだ、こう言おうか。『あかめはかならずきて、わたしたちとともにかりをすることでしょう。そうしてわたしたちはしあわせになるでしょう』。どう、素敵でしょう。不安はとれるでしょう。」

ましろ「矢来、だまりなさい。」

若い人魚3「赤目がたった一人の赤人魚で無ければ、こんな苦しむ事は無かったのに。」

雪待「ましろ様。私たちは赤目に全てをかけすぎたのでございましょうか。群れの命をあの子に委ねて、知らぬ間に追いつめていたのでしょうか。」

ましろ「わからない。あの子の口から聞くまでは。わたしは何も言うまいよ。」

若い人魚3「赤目は、穴蔵にもぐってから何も話してはくれなかったのです。ただただ来ないで、近寄らないでというばかり。」

雪待「そうだね、私が行っても、矢来が行っても無駄だった。」

若い人魚4「ましろ様。私たちは本当に、どうしたらよいのでしょうか。ご覧ください。漁師たちの漁火があんなにも出ている。しかし、赤目の力無しには、私たちは無力です。この半月、お腹がすいた時は、魚や海藻を食べてお腹を満たしてきました。でも、人間が食べられないせいで、心のそこは空腹でした。もし、これ以上人間を食べることができなかったら、私たちはどうなってしまうのでしょうか。急激に老いていくまま漂うのでしょうか。私は水面を見るのが恐ろしい。明日の太陽を見るのが怖い。夜が終わるのが怖い。」

若い人魚5「食べたい、もう我慢ができません。あの赤い血が吸いたい。」

若い人魚3「ましろ様。もし今日赤目が来なかったのなら,もう待てませぬ。私たちだけで狩りを行いましょう。」

ましろ「それだけは駄目だ。赤目に霞を呼んでもらわねば,私たちは人間にとても敵わない。銛で突き殺されて終わりだ。皆落ち着いて、赤目を待つのだ。」

矢来「真白様、きちんと先を考えた方がよろしくはありませんか。私たちは、赤目に霞を呼んでもらい,舟を惑わし,狙いを定めた一艘を、どぶんと引きずり込むので精一杯。霞があっても、皆の力を出し切っても、それが精一杯なのでございます。その赤目が来なければ、雪待のいう『もし』が来る。そう、この群れは死ぬのです。急速に老いさらばえて、この群れは終わるのです。皆も気がついているのに、それを言わないのは、現実をみる勇気がないだけでしょう。『もし』の行き着く所を考えたくないから、言葉にできないだけでしょう。あなた方は、騒ぐ私を見下しているかもしれないけれど、まっすぐ『もし』をみているのは私だけだ。臆病者めが。なにがどうなるのでしょうか、だ。ましろ様。ただ死んで行くわけにはいきません。私は、今日一人でも狩りにいく覚悟でございました。老いて死ぬのも,狩りで死ぬのも等しく死なら,試す価値はございましょう。


   我ら人魚の真珠の眼

   護るは人の赤き水

   十色に輝くこの鱗

   濯ぎ磨くはかの血潮」

   

若い人魚1「腹の肉は薄紅の背中に」

若い人魚2「目玉は漆黒の絹の髪に」

矢来「でも何よりも血。あの赤き血。あれを見ると我らの青き血が沸き立つ。」

   

人魚達「その妙薬を得られるは

    霞を呼べる赤目だけ

    我らの命を満たせるは

    霞を呼べる赤目だけ」

    

        海烏「さわさわざわわ

           さわさわざわわ

    赤目恋しや恋しや赤目

    赤目憎しや憎しや赤目

           どどどどどどど

           どどどどどどど」      

 (最後の2行を繰り返す。歌に被せて海烏達の合唱もかさなる。その歌を無視するように、台詞が続く。)

雪待「ましろ様。言わせておきましょう。赤目が来れば全てわかる事です。」

ましろ「その通りだ。それに、吉兆どちらとも言えぬが、予感がする。それも後でわかる事だがな。皆のもの、落ち着け。騒いで何も見えなくなってしまったな。さあ、月を見てから海を見よ。月が乱れた。赤目が来ている。」


人魚達/海烏「あーーーーーーーー」

皆、月の光をたどって海を見る。赤目、三人の人魚とともに海から現れる。(迫りがあれば地下から登場。)


青波「真白様。連れて参りました。赤目にございます。今日の狩りのために迎えにいきました所、逃げようと致しましたので、少々手荒になりましたが・・・。」

矢来「その傷がついたというのか。可哀想に、

鱗がはがれて、血が流れているじゃあないか。早く手当てしてやれ。」

有明「どうしてでしょう。今まで苦しめられ

て来たのは私達でございます。これ以上、赤目に何をしろと申すのです。」

弦夜「それに、この血は赤目の血ではございません。この半年耐え忍んで来た私たちの血。流して傷に沁みさせれば、少しはこちらの苦しみもわかることでしょう。」

ましろ「醜い物言いはおよし。仲の良かった二人が、そんな哀しい振る舞いができるようになってしまったとは。この半年間の先の見えない苦しみに沈んでいた其方達の心もわかるが、それでも傷つける事は無かろうに。さあ顔を上げなさい、赤目。久しいな。」

赤目「大変ご無沙汰しておりました。」

矢来「ええ、大変。」

雪待「散々皆を苦しめたお前に、言ってやりたい事は山ほどあるが,もう時間がない。さあ、狩りに行くぞ。傷をみせなさい、簡単に手当をしよう。しっかり治療してあげたいが、もう時間がないからね。ほら、漁火が蠢き出している。見失わないうちに行かねばならない。」

赤目「そのことについて申し上げねばならない事があるのです。」

ましろ「言ってみろ。」

赤目「私は、もう霞を出せません。」

若い人魚騒ぐ。

雪待、矢来は動じない。

ましろ「出せない。霞を出す力が無くなったというのか。」

赤目「ええ。もう私にはその力がありません。」

矢来「赤目。真実をはなせ。それは狩りに行かない為の嘘であろう。私の生きた50年、そんな赤人魚が霞を出せなくなる話など、聞いた事が無い。霞を出す気がないならそれでもいい。ただし、狩りには、両手足を縛ってでもお前を連れて行く。そして私の死に様を見るんだな。」

雪待「矢来、そんなおぞましい事を口に出すんじゃあない。ましろ様。私に少し話をさせて頂いて宜しいですか。」

ましろ「いい。はなしなさい。」

矢来「話なんかしてられますか。霞を出せないなんて、嘘に決まっている。はやくこの娘を海に連れて行かねば・・・」

ましろ「だまりなさい。時間など、いくらでもある。さあ、雪待、続けて」

雪待「恐れ入ります。では赤目。お前が今夜、ここに来ると聞いたときから、うすうす予感はしていた。今夜は狩りの為にここに来るのではないかもしれないと。

 お前も承知の通り、私たちは皆、半年も人間を食らっていない。これ以上時が経ってしまうと、どんどんこの体の老いが進み、取り返しがつかなくなってしまう。人間の血で、私たちが命を長らえているのはお前も同じだろう。私たちはあれが無ければ三十年と生きられない。赤目、貴方は人間が欲しくはないのかい。」

赤目「欲しい。でも、もうそれは出来ない。」

雪待「赤目。私も霞が出せなくなった赤人魚など聞いた事が無いのだ。正直、本当か疑っている。年長の私や矢来の肌を見てご覧。前と比べてどうだ。この半年、月が巡るたびに、どんどん頬の肉は痩け、肌は重く黒ずんでしまった。間接は浮き出て、目はくぼみ、遠くなる。お前も見てわかるだろう。終わりが体の芯から迫ってくるのがわかる。あの赤い血がなければ、私たちは老いを押さえることができない、悲しい種族さ。だから毎月、こうして満月の夜、命がけで人間を狩る。そのために、霞を呼ぶ。霞が無ければ,とても狩りなどできないことは、貴方は、そうだね、痛い程承知だろう。しかも、それが出来る人魚は、6年もの間、この群れではお前一人しかいなかった。ところが、半年前、お前は突然隠れてしまった。私は初めて気がついた。6年もの間、赤目一人に群れの命運をかけてしまったことをね。たった十一の時からずっと。それが貴方を押しつぶそうとしていたのではないかって。

   

   赤目生まれて十六年

   四人いたりし赤人魚

   一人二人と泡と散る

   一人は病 一人は老いた  

   そして先代人間に

   黒い波間に殺されて

   我らが玉の緒結ぶのは

   哀れ幼き赤目のみ


 だから私は待とうと決めたのだ。赤目、貴方の体を憚って,自分から出てくるまで,命の限り待とうと決めたのだ。その私が命を込めて問う。本当に霞が出せなくなったのか。」

赤目「雪待様。私は知らなかったのですが,人間は、人間は、限りなく優しいのです。」

若い人魚4「赤目、何を言うの。貴方のはは様は、狩りのときに人間の銛で突き殺されてしまったはないの。優しいなんて,馬鹿なことを。それに、知っているんだから。貴方も、人間の血がたまらなく好きだって。狩りの日以外にも、貴方の力を使って,勝手に人間を捕まえて食べていること。」

若い人魚5「なあにそれ。聞いた事が無いわ。」

若い人魚1「この半年も、隠れて狩りをしていたのよ。きっと。」

赤目「それは違う。断じて違う。確かに、私だって、人間が好物でした。密かに食べていた事もあった。だけど、この半年は違う,誓誓います。この身にかけて誓います。」

若い人魚2「ほら、もう港に出発を待つ舟が何艘も、何艘も出でいるわ。こんなに大勢出ているのは久しぶりよ。早く行きましょう。いつものように霞を出して、星を隠し、人間を惑わしておくれ、赤目。」

赤目「申し訳ありません。それはできません。出来なくなってしまったのです。」

有明「それは何故だ。」

矢来「先の頭だった赤人魚が死んで六年。赤人魚がお前一人になってしまってから、本当によく働いてくれていた。だからせめて、せめてお前には、いの一番に、まだ温かい血潮の人間を食べさせてやっていた。お前もそれが好きだったはずだ。」

赤目「言わないで、それを。どうぞ言わないで下さい。その温い温い液体が、私を苦しめるのです。霞を出せなくするのです。」

ましろ「赤目。お前、まさか。」

赤目「人間の子を宿しました。私は人間の里へ上がり、陸でこの子を生みます。」

ましろ「やはり。」

若い人魚4「まさか。」

若い人魚3「体に何の変化も出ていないではないか。」

若い人魚1「ほんとうか、それは。ワニの子ではないのか。それに、群れを出て行くというのか。」

赤目「本当です。人間の子です。あの人間と愛し合って以来、私は霞が出せなくなりました。」  

雪待「赤人魚は赤人魚からしか生まれない。お前のその子は・・・」

赤目「そう。どうなるかは分からないけれど、赤人魚が生まれることはおそらくないでしょう。」

人魚たち「聞きたくない。しりたくない。」

ましろ「雪待、赤人魚どころの問題ではない。昔も人間との子を生もうとした人魚がいたと、聞いたことがある。しかし、子は子の形をしていなかったという。母親も歪みに耐えられず、生んですぐ海の藻屑となったそうだ。悪いことは言わない、赤目。自分の為にもその子供を生むのをやめるんだ。」

赤目「できません。それに、何があっても、何にかえても、このお腹の子は必ず生む。」

矢来「やめて。赤人魚を失ってしまったら、私たちはどう生きていけばいい。その子が赤人魚として生まれてくる可能性がある限り、あきらめる事は出来ないよ。お前を陸には行かせない。生むなら海で生め。」

赤目「いいえ、この子に狩りをさせるわけにはいきません。それに、人間を食べなくとも、生きていくことはできます。魚たちにすこし多めに肉を分けてもらい飢えをしのげばよいのです。大丈夫です。老いを受けいれるのです。怖い事なんてありません。朝日を浴びて、自分の姿をしっかりみつめれば。」

若い人魚3「そんなのはいや。いやよ。」

赤目「いえ、できるはずです。私たちはいつも、生まれ、育ち、老いて死んでいく生き物たちを見ている。餌にありつけないひもじさも、敵と争う恐ろしさも死が全てを無に帰してくれる。時を受け入れるんです。そうすれば、老いの苦しみなんて無くなる。」

ましろ「しかし、一度知ってしまった喜びを忘れることはできない。ひとたびそれを味わってしまった者は、それを求めて、一生苦しみ続けることになる。しかもこれは、我ら人魚の一族が、先祖代々培って、この身に染み込ませた味だ。体が欲するんだよ。そうそう消すことなんてできはしない。お前は若さゆえ、今少し迷っているだけだ。ひとたび血をすすれば、すぐにそんな考えは吹き飛ぶ。」

赤目「嫌です。あの味を忘れる事ができないというのなら,苦しんで苦しんで、足掻きぬきましょう。そして、忘れましょう。今は出来なくても、子供達には出来るかもしれない。苦しみの種をひとつ消しましょう。私はもう、人間を食べたくない。あの人間と約束したんだもの。」


人魚たち(合唱)

  「なんて勝手な人魚姫

   お前一人で受け入れて

   滅びの序曲を紡ぎ出す

   呪いたくとも赤人魚

   お前がいなけりゃ生きられない

   この口惜しさをわからぬか

   この口惜しさをわからぬか」


赤目「勝手は承知。半年苦しんだ。私だって人魚。滅ぼしたいとは思っていない。栄えてほしいと願う心はある。だけど、それを選べなかったのです。私は、あの人との約束を守る。」

ましろ「その人間の男はどうしているんだい。」

赤目「もうおりません。」

雪待「死んだのか。」

赤目「ええ。殺したのは私です。」

歌いながら人魚たち去る。赤目だけ残る。

  



第1幕 1場B


(岩の形はそのまま、半月の夜になる。)


赤目「私だって人間は大好物だった。狩りに出るたび霞を呼び,舟を倒して人を沈める。そしてあの細い首をつかんで、黒く冷たい海に引きずり落とす。腕の中で黒い瞳が魚の様に凝り固まっていく。最後の泡が吐き出されて,海のうねりに漂い、ほどけていく髪や指を見ながら、はじめの一口をかぶりつく。喉に、まだ温かい血が流れると、私の鼓動は大きくなる。赤黒い血はたなびいて、いくつかの線を描きながら月に向かって伸びていく。ぼやけて溶けていく襞。血の香りに酔いながら,あの素敵で不思議な襞を見ているとき、あの瞬間が幸せだったのです。

 半年前のあの時も同じだった。薄い雲のたなびく半月の夜。私はとある岩場の近くで人間の男に出会った。男はワニに襲われていた。私もそれに加わった。もちろん自分の餌にする為に。」


 舞台脇に、いつの間にか男とワニに扮した人魚が格闘している。それを見つけた赤目もそれに加わる。海烏達は手にした鼓とかけ声で音をつける。やがて、赤目が男を奪い取り、ワニから引き離し、自分一人で食べるため、岩場に引き上げる。瞬間、月にかかっていた雲が晴れ,光が2人を照らす。


吉座「助かった。どうもありがとう。おめえさんは誰だい。」


赤目、驚いて男を突き放す。


赤目「私は耳を疑った。大した阿呆ものか、気がふれたのかと思った。いつもなら、死にたくないだの、誰か誰かと叫ぶのに、お礼を言われたんだもの。だから私、その男の顔をまじまじと眺めたわ。でもおかしいの、全然視線が合わなくて、何となく月の方を見ているの。瞳は異様にギラギラしてるんだけど、冬の星を仰ぐような感じかしら。私の姿を見ても全く驚く気配がなかった。それで気がついたの、この人間は物が見えないんじゃないかって。姿を見れば、舟に乗っている人間よりもずっと細くて、つっつくだけで倒れそう。あんまり美味しくなさそうだったから、一寸話してみようと思ったの。」


吉座「お前さんは誰だい。」

赤目「貴方、世界がみえないの。」

吉座「ああ俺の目はただのガラス玉だ。お前さん、俺の事を知らないのかい。旅の人かい。」

赤目「まあ、そうね。貴方、さっきはどうしてワニに襲われていたの。」

吉座「祭りで若いもんが酔っぱらって、俺を浜に引きずり出したんだ。俺が月明かりだけをたよりに、岩清水様の頂上まで来られたら、嫁をやろうとふざけてな。俺と来たら、あっという間に海に落ちて、あげくワニに襲われちまった。まあ、いつ死んでもかまはねえと思ってはいたんだ。俺には妻もねえし、子もいねえ。家族はだあれもおらんし,これといった仲間もいねえ。」

赤目「でも、生きていられなくなっちゃうのよ。」

吉座「不思議な言い方をするねえ。俺は、昔、小さかったときに、漁で大けがをして以来、何にも見えなくなっちまったんだ。だから、舟には乗れなくなっちまったし、みんなに迷惑をかけちゃいけねえと、街のはずれに住んでた。最近はな、世話してくれていたばあさんまで、この前のえらい寒かった日に死んじまった。」

赤目「ねえ、世界が見えないってどういう気持ち。」

吉座「何にも見えなくなってすぐは、ただただ恐ろしくって、家から出られなかった。でもそのうち、足音がわかるようになったんだ。これは、ばあさんの、これは太一のって。世界の音が聞こえるんだよ。そうしたら、少し怖くなくなった。」

赤目「今は」

吉座「今、今も怖い事はたくさんあるよ。だけど、目が見えても怖い事はたくさんあるだろう。綺麗なものが見られないのは残念だがな。」

赤目「見えるようにはならないの。それ、とりかえられないの。」

吉座「あはははは、お目めが取り替えられるなんて夢みたいな話だ。面白い事をいうねえ。」

赤目「ねえ、また会おうよ。次の新月。だから2週間後。またここに来てお話しましょう。」 


月が赤目だけを照らす。

 

赤目「私は人魚である事を隠した。男の名は吉座、年は25。吉座からは色んな話を聞いたわ。今日あったこと、人間たちの生活のこと。人間は男と女で結婚ということをして子を産み、家族というものを作って死ぬまで一緒に暮らすとか、その家族はみんなで揃ってご飯を食べるとか。母様がみんなにご飯を作ってくれるとか。作るって何って聞いたけれど,魚を焼いたりするんですって。そのままの方が美味しいのに、何故ってきいたら、その方が美味しいからだって笑ってた。あんまり私が何も知らないんで、もの凄く偉い人間の子供かと思っていたらしいわ。

 はじめは半月ごとに会った。でもだんだん数が増えていって,晴れた晩は、毎回会うようになった。こうして会ううちに、私は吉座と、毎日一緒にいたいと願うようになった。いつも一緒にいたいと思ったの。人魚でも、何とかなるかもしれないと思ったの。だけど、人魚である事を打ち明けられずにいた。

 そして、六ヶ月前の満月の晩。いつものように、吉座と二人岩場でこうして座っていると、こんなことを教えてくれた。」


吉座「陸を見てごらん。俺は見えないが、点々と、清水山の頂上に向かって赤い火が二列上っていくのが見えると思うんだ。あれは岩清水という神社の階段に、漁が無事を願う_燭を並べている火なんだ。明日は大きな漁がある。だから女たちが、男たちの無事を願って、ありったけの_燭を一晩中点すんだ。」

赤目「きれい。すごく綺麗よ。まるで階段が月に向かって伸びていくみたい。」

吉座「高潮に合いませんように、人魚に合いませんようにと、お祈りしてる火だ。」

赤目「人魚。」

吉座「そうだ。漁にでるとな、たまに急に霞が立って、舟が忽然と姿を消す事があるんだ。後になって舟は見つかっても、乗っていた奴らは誰1人としてみつからねえ。そういう時は皆、人魚が舟を襲ったというんだ。まあ、迷信だよ。ところで赤目。今日俺は漁に出ることになった。仲間達がな、俺が海で働けるように、仕事を作ってくれたんだ。それで、もし無事に漁を済ませて、ここに戻ってくる事が出来たら、一緒にならないか。二人でずっと一緒にくらさないか。」

赤目「ねえ、吉座。もし、もしよ。私が人魚だったらどうする。」

吉座「そんなはずあるめえ。」

赤目「ちゃんと聞いて。どうする。」

吉座「お前さんがどんな姿でも、好きだよ。」

(赤目、吉座の手を鱗に持っていく。) 

吉座「これは。」

赤目「これが私。私は人魚。人を食らって生き存える。私は人間じゃあないの。」

吉座「そんな事はねえ、お前、俺の目が見えないのを良い事にからかってるんだろう。」

赤目「吉座、吉座、違う本当なの。私は人魚なの。」

吉座「目が見えなくなってから、今日ほど光が欲しいと思った事は無い。」

赤目「いい、そのまま何も見ずに夢だと思って。夢の中で私を抱いて。人魚でも人間でもない、私を。」

吉座「赤目。」


 雲が満月にかかって二人は陰になる。岩清水の火だけが輝いている。やがて赤目が起きる。傍らに眠る吉座を見つめる。


赤目「ごめんなさい。私が行かないと、他の人魚たちが困ってしまうの。だから、行きます。

 さっきより冷たい海を進みながら、私はこの岩場に向かった。」

 

(人魚たちはいってくる)


 私は皆と集まって、霞を呼び出した。吉座がいることはわかっていたけれど。でも振り払って進んだ。だって舟は何百もでる。吉座の舟にあたる事はないと思っていたの。」


海烏「赤き霞で月光遮り

   ぼんぼり漁火誘き出す

   先陣人魚の矢来が一人

   舟の框をむんずと攫む

   続く人魚もしがみつき

   ざぶんざぶんとなぎ倒す

   

   ぼんぼり落ちれば後は闇

   波間に聞こえる断末魔

   いくついるかと雪待叫ぶも

   還す間もなく皆食らう

   その声遠くで聞きながら

   漁り狂うは赤目も同じ」  

赤目「泡立つ波と、くだけた木片のなか、柔らかい腕をつかんだ。これだ、人間の匂い。夢中で首に噛み付いた。血をすすりながら、覚えのある匂いを感じた。触れたことのある感触だった。急いで私は霞を晴らした。差し込んできた月光の中、見たものは、今まさに息が絶えようとしている吉座の姿。私の腕のなか、幸せそうに微笑む吉座のすがた。血が、血が私のそばを立ち上っていく。」

吉座「赤目だろう。」

赤目「私のかみ傷は致命傷だった。吉座を助けることはできない。他の人魚に食べられてしまう前に、できることは、吉座を深く深く沈めてしまうことだけだった。私の異変を皆に気づかれるわけにも行かなかった。全身が締め付けられて、瞬きもできず、全ての感覚をわすれて、吉座を抱きながら、一緒に海に沈んでいった。その夜、私は吉座の子を宿したことに気がついた。」


(人魚たち、いつのまにか集まった場所に戻っている。)


赤目「もし、私が人間をたべれば、お腹の子供まで、血が行き届いてしまう。しかも、この子がもし赤人魚だったら、皆はきっと狩りをさせようとするでしょう。それはできないんです。勝手だとかっています。けれど、許してください。」

ましろ「子を宿したいきさつは分かった。そして、お前は子を生みたいという。それがお前の死を招くやも知れないと分かっていてもか。」

赤目「ええ。人の里でうむ。人魚にはしない。」

矢来「だめだ。この子が赤人魚であるかもしれない以上、私たちで預かる。」

赤目「そんなことはさせないわ。この子に狩りをさせるわけにはいけないもの。私はこの子を産んだ後、どうなるかは分からない。だから、もしもの事が会ったら、人間に育ててもらう。大丈夫、人魚の私を愛してくれた人間ですもの。陸にあがってもきっと大丈夫よ。」

雪待「そんな簡単に行くとは思わないね。赤目のことは、私たちが助ける。子も面倒を見よう。だから後生だ。ここに留まってくれ。」

矢来「やりたくはないが、力づくでもお前を行かせはしない。それに赤目、ひとつわからない事があるんだが、お前は霞の力をなくしてはいないんじゃあないか。」

赤目「皆様、どうか行かせて下さい。」


(あたりに霞がたちこめてくる)


ましろ「まさか、赤目、霞を呼んだな。」

矢来「この小娘が。やはり騙したな。」

赤目「今まで育てて頂いたご恩は一生忘れません。ただひとつだけ、約束しましょう。私か、私の子が、もしも、万が一この霞の力を使って人間を狩る様な事があったら、きっと海に帰ります。ですから、今はどうぞ私を行かせて下さい。」

ましろ「そこまで言うのなら行ってしまえ。今お前が行ってしまっては,私は生きて会う事はもう無いだろう。人魚たちの恨みを背負って、行ってしまえ。そして、今の言葉をそのまま呪いの言葉にしてお前に捧げてやる。この身がたとえ朽ちても、我々は、今のお前の言葉を忘れまいぞ。」


(霞にまぎれて舞台上から赤目の姿は見えなくなる。残った人魚たちの恨み節がはじまる。)


人魚 

  「明日から全てが見通せぬ

   新たな霞に包まれて

   よせてはかえす年波に

   そがれくだける真珠肌


   残る我らにできるのは

   朧の海に消え去った

   赤い人魚を恨むだけ

   ああ恨めしきあの女

   

   赤目の赤子や赤人魚

   一度霞で人狩れば

   おかしや鴨女と海帰り

   努々忘れる事なかれ

   

   努々忘れる事なかれ


(波の音の中、人魚たちは去る)



第1幕 2場 カフェ・タナトス

 

 (海烏は歌いながら退場し、声が遠くなるに連れ、次第にジャズの音が聞こえてくる。舞台は銀座のカフェ、タナトスにうつる。ピアノがジャズを奏でる中、酒を飲む者、語り合うもの、本を読むもの、それぞれに、思い思いの夜が更けていく。突然、酔った1人が大声で歌いはじめる。)


刀因坊「酷寒零下三十度 

    銃も剣も砲身も

    駒の蹄も凍る時 

    すわや近づく敵の声

    防寒服が重いぞと 

    互いに顔を見合わせる 


 そう、ママ。寒かったんだよ。本当に寒かった。今日の雪なんか、屁でもねえ。仲間はみんな、凍傷で、鼻先や指先から黒く腐っていっちまう。さむくてさ、寝ると危ないから起きているんだけどよ。はじめは良いんだ。寒さで体中みんな氷みたいに固くなってるから、全然眠れない。だけどな、少ししてくると、急に眠くなってくるんだ。睡魔ってやつだよ。あれは恐ろしかった。

   面影去らぬ占有の

   遺髪の前に・・・」

久保「うるさいなあ、黙っていてくれよ。折角のジャズが何にも聞こえない。」

刀因坊「なあにが「ジャズ」だよ。け、すまして、何してるんだか知らねえけどよ。お前、今食ってるのは誰の御蔭だと思っているんだ。俺が、量目の光を無くしてまで、満州で戦って来たからだぞ。」

久保「だから何だ。俺はジャズが聞きたいんだ。」

ママ「おやめなさいな、おとうさんも書生さんも。おとうさん、歌も素敵だけど、もっと話を聞かせて。ほら、この前途中まで話してくれた、貴方が目を怪我してまで仲間をおぶって帰還したはなし。」

村木「ママ、おとっちゃんの話、何遍聞くつもりだい。もう俺だって、おとっちゃんの戦歴が話せるぜ。」

刀因坊「ママ、ママ、あんたは優しいねえ。俺の事を本当にわかってくれるのはあんただけだよ。よし、お礼に最近覚えた歌を歌って信ぜよう。タイヤって言うんだがね。」

村木「タイヤ?それをいうならダイナだろ。その歌、去年から歌っているじゃないか。おとっちゃん。ママ、だめだ。もう完璧に酔っぱらっちゃたよ。」

ママ「ごめんなさい。村木さん。また頼んで良いかしら。一杯、おまけするから。」

村木「そう来られちゃ、たまんねえな。今日は雪が降ってるから、全部おまけって分けにはいかないかな。」

ママ「そんな調子のいい事言わないで。」

村木「チェ、厳しい無産階級者の冬を暖めてもらおうと思ったのによ。あーあ、この人、寝ちゃったよ。しかたがねぇな。」

(村木の隣でうなだれていた女が、ゆっくり顔を上げる。ひどく酔っている。)

すみ江「ねえ、ママ、朧女いつくるのかしら。」

ママ「どうしたの。すみ江ちゃん。ひどく酔ってるじゃない。あの子なら、そろそろ帰ってくるはずよ。今日は上野で歌うって言っていたから。もう終わったはずなんだけれど、この雪だから、帰るのに時間がかかっているんでしょう。朧女に何か用事があるの。」

すみ江「うん、一寸聞いて欲しいことがあるの。ここに帰ってくるなら待っているわ。ママも、村木さんも一緒にきいてね。」

ママ「ええ。すみ江ちゃん、何か飲む。」

すみ江「ううん、大丈夫。ありがとう。もう大分いい気持ちよ。ねえ、村木さん。肩を貸してよ。なんだか疲れちゃった。」

村木「ああ、いいよ。寄っかかりな。と、すみちゃん、ここに来る前から相当のんだろう。酒癖え。」

すみ江「あら、お酒の匂いのする女は嫌い?」

村木「すみちゃんじゃなけりゃ、突き飛ばしてるよ。」

すみ江「ふふふふ。乱暴ね。」

(ドアを開けて軍服を着た二人の男が入ってくる。)

ママ「あら、律俊さん。いらっしゃい。こんな雪の中、わざわざいらしたの。まあ、栗原中尉まで。」

律俊「ええ、朧女と約束がありまして。彼女は。」

ママ「まだ上野から帰って来ていないの。じきに戻ってくると思うから、一杯飲んでお待ちになって。ホット珈琲でいいかしら。外は寒かったでしょう。」

栗原「ええ、いただきます。」

すみ江「あー議事堂くん。お久しぶり。」

律俊「やあ、すみ江ちゃん。今日はどうしたの。いつもよりなんだか、綺麗だ。」

すみ江「やあねえ、わかるの。今日ね、私の何かが、1枚脱げていったの。新しい私なの。

あはははは。おはだツルツル。」

村木「すまないね。永田君。今日、すみちゃん、ひどく酔ってるんだ。」

律俊「そのようですね。」

栗原「ピアニスト君、この曲変えてもらえないかな。ジャズはどうも好かない。」

ママ「あら、中尉、ジャズはお嫌いでしたっけ。」

栗原「嫌い、なのかな。このざわついた感じが、体の中の方を落ち着かなくさせるんだ。冷静にものを考えられなくなるような。」

ママ「そんなに難しく考えなくても。」

久保「(急に割り込んでくる)中尉、それは一理あります。ジャズは、感情を直接音に載せて、表現できる、類を見ない音楽なんです。このスネアーのビート。これは鼓動。そして、このメロディー、これは感情を表しているんです。こんなすばらしい音楽はありませんよ。その心のざわめきが、あるときふと、快感に変わるんですよ。」

栗原「そうかな。」

刀因坊「(寝ぼけながら)俺は小原節の方が好きだね。

  花は霧島 煙草は国分

  燃えて上がるはオハラハー桜島

  ハヨイヨイ ヨイヤッサノサ・・・

 (また眠ってしまう)」

久保「もう、酔っぱらいは黙っててくれよ。」

ママ「良いじゃない。歌ってもらいましょうよ。おとうさんは演歌師だもの。やっぱり素敵な声だわ。(珈琲をおきながら)どうぞ、熱いから気をつけて。それに書生さん。こんな事言っているけれど、朧女にジャズを教えたのは、このおとうさん、刀因坊さんなのよ。」

久保「え。」

(朧女入ってくる。)

朧女「みなさん、こんばんは。遅くなってしまって、本当にごめんなさい。」

客「待っていたよ。きょうはもう来ないのかと思った。」

朧女「この雪で、タクシーが全然捕まらなかったの。」

客「おぼろちゃんの歌を聴きにこの雪の中来たんだ。1曲たのむよ。」

朧女「ええ、ええ、すぐに。それにしてもみなさん、この大雪の中、本当にようこそいらっしゃいました。」

すみ江「朧女。会いたかった。本当に遭いたかったの。ねえ、ね、話を聞いてちょうだい。」

村木「すみちゃん、ちょっと待とうぜ。見てご覧、雪にまみれてびしょぬれだ。それに間違っちゃいけない。朧女はここに歌いに来たんだぜ。」

朧女「(コートを脱ぎ、椅子にかけながら。)どうしたの、すみ江さん。目が真っ赤。栗原中尉さま、律俊、ごめんなさい。待ったでしょう。」

律俊「大丈夫。今来たところだ。」

栗原「先に客の相手をしてやれ。そのあとでゆっくり話そう。」

朧女「お時間は大丈夫かしら。」

律俊「栗原がこう言っているんだ。大丈夫。」

客「朧女、早く歌ってくれよ。」

朧女「(栗原に)ありがとう。(すみ江に向かって)すみ江さん。お待ち頂いたみなさんの為に1曲歌わせてもらっていいかしら。その後でゆっくりお話ししましょう。(すみ江うなずく。)ありがとう。」

刀因坊「よぅ。こころに、じーんと、しっぽりしみるのをたのむよ。」

朧女「じゃあ、この前、ここにいるピアニストの山田くんと作った新曲を歌うわ。」

(山田と呼ばれたピアニスト、朧女の振りにあわせてピアノを引きはじめる。朧女、静かに歌いながら客の間を回る。)


朧女「彼女は夏でも毛皮をまとう

   でもその中は生身の姿

   そうして夢に見るの

   毛皮の中で愛される事を」


客1「朧女、お前は血を吐いて死んだ妹にそっくりなんだ。目も、声も・・・。俺はあいつの薬代を全部酒に使った・・・。」

(朧女静かに微笑み、その客の前で歌う。)  

朧女「彼女は体温を信じていない

   貼り付く毛皮を素肌で触れて

   はじめて確信する

   自分の哀しい境界を」

客2「朧女、お前の美しい脚を見せてくれよ。それが見れれば、酒がなくても酔えるんだ。」

朧女「彼女は男の手を恐れる

   触ってほしいと願いながら

   離れてほしいと願ってしまう

   毛皮の中で解け合いたいのに」

客3「朧女、後で俺の小説を読んでくれ。君をモデルに書いたんだ。赤い踊り子っていうタイトルで・・・。」

(朧女、ドレスの切れ目から脚をみせる。)

客2「ああ、きれいだ。」

客3「そうだ。この脚、この鱗・・・。うっとりする、ああ、触れたい・・・そして。」

客4「あれは本物の鱗なのかい?」

客2「あんた、初めて見るのかい。そう、この歌手の朧女は、その脚にぞっとする程美しい、赤い鱗があるのさ。彼女の歌を聴いて、その鱗を眺めていると、なんだか夢に落ちていくような気がするんだよ。」

朧女「彼女は毒に冒される

   いままで重ねた愛の毒

   髄からほっするその露は

   心を犯す甘い毒」

刀因坊「いつもながらに思うが、こんな歌詞、聴いた事がねえ。はやりの歌はもっとやさしいのに。なんだろう、生々しい。

久保「そこが他にはない魅力なんじゃありませんか。」

刀因坊「あの子はどんな顔で歌っているんだい。」

村木「菩薩さま見たいな顔して歌っているよ。俺は見ていてなんだか哀しくなるね。痛そうだ。」

(朧女、客のテーブルにつく。)

客4「あんたのその脚、本物の鱗かい。」

朧女「そうよ。私は人魚の子なの。」

客5「まさか。」

朧女「本当よ。この脚のせいで、生まれた時から見世物小屋で笑い者にされてたの。それが我慢できなくなってね、ある日一寸の隙をついて逃げ出した。それを、あそこにいるママに拾ってもらったの。」

客6「人魚。人魚なんているもんか。」

朧女「あら、私の母親は人魚だったわ。」

客4「ははは、それは面白い。是非見てみたいね。あんたがそんな別嬪さんなんだ。親もかなりの上玉だろう。」

客5「で、本当のところはどうなんだい。

朧女「あら、私は嘘なんかついていないわよ。あとは信じるかどうか。」

(朧女、席を離れてすみ江のところに行く。ピアノは静かに演奏を続ける。)

朧女「どうしたの。すみ江さん。お話って。」

すみ江「私ね。子供が出来ちゃったの。」

朧女「あら。」

村木「客の子か。」

すみ江「そう。その人ね、私の事大切にしてくれているの。子供も生んで良いって言ってくれたの。」

ママ「良かったじゃない。」

村木「俺みたいな、水飲み労働者じゃねえだろうな。」

すみ江「ううん。震災後に儲けた成金。でも本当に良い人なのよ。優しいし、顔もなかなか素敵だし。」

村木「ごちそうさま。どうせ俺はあの地震でゼーンブなくしました。」

すみ江「でもね。奥さんがいたの。別れられないって言うの。だから、だからね。」

朧女「何をしたの。」

すみ江「4日前、赤ちゃん、おろして来たの。それで、今日ね、あの人の後つけて、家に行ったの。洗いざらい全部話してやったわ。その時の奥さんの顔ったら、あははははは、歪んだ福笑いのおかめさんみたいになってた。きゃははははは。」

(客、一斉すみ江の方を向く。)

久保「うるさいなあ。」

村木「久保、黙ってろ。すみちゃんも、無理に笑うなよ。」

すみ江「ははは、何言っているの、泣きたい時は笑うのよ。はははははは。はあ・・・でも、赤ちゃん、生みたかったなあ。ねえ、朧女。生まれたての赤ちゃん見た事ある。この世に生まれて何時間も経っていない、ほよほよの人間。汚れを知らない肌、存在。無垢って、ああいうのをいうのよね。朧女、今日はね、いなくなっちゃった赤ちゃんの夢を見せてもらおうと思って来たのよ。」

朧女「そんな哀しい夢が見たいの?」

すみ江「わたしねえ、わかってたんだ。体の汚れた売春婦が、誰かと結婚なんて出来るはずなんか無いって。ましてや、奥さんも子供もいる人なんてね・・・わかってたんだ。だけど、夢を見てる間は幸せでしょう。あの玄関に行くまでは、あの扉が開くまでは本当に幸せだったの。」

村木「いいよ、すみちゃん。思い出すな。ほら、これで鼻をかんで、少し眠りな。」

(すみ江、村木に寄りかかって眠りにおちる。)

朧女「すみ江さん。本当に幸せだったのかしら。」

村木「すみちゃんはさ、岩手の農家から口減らしのために売られて来たんだ。十二の時だったらしい。それからずっと客を取らされてきた。子供をおろしたのも、今日がはじめてじゃあない。子供を作るたび、相手の男から捨てられて来たんだよ。金があるなら生めるが、無いなら、お腹の赤ちゃんが稼ぎの邪魔になっちまうんだ。それを知っても俺は何も出来ねえ。俺には財産ってものがないんだ。目の前のものを、何一つ攫めない。ひどいはなしだよ。」

朧女「せめて優しい夢を見て。」

(朧女、静かにすみ江の顔に手をかざす。不思議な赤いもやが出て、すみ江は眠りにおちる。)

村木「眠らせたのかい。」

朧女「ええ。今頃、好いた人と一緒にいる夢を見ているわ。」

村木「そうか。」

朧女「村木さんも、たまには見ていく?」

村木「俺はいい。目が覚めた時が辛いからな。さ、兵隊さんの所へいってやりなよ。随分待ってるぜ。」

朧女「ええ。」

(朧女、客と言葉をかわしながら、奥に座っていた律俊と栗原の座席に行く。)

朧女「ごめんなさい。お待たせして。」

律俊「あの歌、いいね。タイトルは何。」

朧女「あら、言うのを忘れていたわ。「甘い毒」っていうの。上野で歌った時は、あまり受けなかったんだけど。あっちは「モンテカルロの歌」みたいなのが好きみたい。一夜さ〜モンテカルロ、棕櫚しげる・・・。」

栗原「生憎、今日は歌を聴きに来たのではない。例の奇術をみせて貰いに来た。」

朧女「そう。じゃあ、決行の日が近いのね。」

律俊「(声を潜めて)2日後の夜だ。とうとう、この社会に維新を起こす時が来た。」

栗原「詳しい事を話す前に、2週間前に聞いた、貴様の「霞」とやらを確認したい。」

朧女「その霞なら、今もう1人かかっているわよ。」

栗原「なに。」

朧女「ほら、あそこで眠っているわ。」

栗原「あの酔っぱらいの親父か。」

朧女「ちがうわ。あれは本当に酔って寝ているの。その横の女の子よ。」

栗原「あれでは何が霞だかちっともわからん。」

朧女「では、貴方にかけましょうか。」

栗原「朧女、私たちが欲しいのは、一人二人眠らせる奇術ではない。一つの屋敷を眠らせる、もっと大きな・・・。」

朧女「だって、詳しい作戦を何にも教えてくれないんだもの。どの位の力が必要なのか、ちっともわからないわ。」

律俊「そうだね。朧女には、詳しい事をほとんど話していない。日本の社会を正す為に、行動を起こそうとしているとしか言ってこなかったからね。」

栗原「詳しい事を話せるかは、その奇術を確認してからだ。」

朧女「そう。そうね。じゃあ、このカフェにいる全員を眠らせてみせましょう。それなら、どう。」

栗原「今ここでやるのか。」

律俊「俺たちも巻き込まれるんじゃないか。」

朧女「大丈夫。良いというまで、目を閉じていて。山田くん。「グッドナイト」を弾いてちょうだい。」

(朧女、立ち上がり歌いはじめる。体は赤く発光し、どこからともなく霞が立ちこめてくる。)

朧女「おやすみは言わないわ

   一人の朝が寂しいから

   二人で夢を見れないなら

   何も言わず出て行って


   手紙は書かないわ

   長くなってしまうから

   約束もしないわ

   忘れる不安はいらないの

   

   月とおやすみ おやすみ今は

   星とおやすみ おやすみ今は」


(ピアノの音も消えて、皆眠りにつく。)


朧女「もう大丈夫よ。目を開けても。」

栗原「これは。この赤いもやは。」

朧女「これが霞。この霞が目に入ると、たちまち眠って、幻をみるそうなの。といっても、私は眠ることができないから、そうなった人に聞くだけだけどね。」

栗原「しかし、俺は眠っていないぞ。霞の中にいるのに。」

朧女「最初の10秒ぐらいしか効力が無いみたいなの。その間目をつむっていたら、何もおこらないわ。ただの霞にみえるだけ。」

律俊「俺がこれを知ったのは、丁度一年前に、このバーで、たまたま霞を書けてもらった事があってね。」

朧女「この人ったら、お姉さんが亡くなってしまった時、学校に入っていたせいで、最期に立ち会えなかったでしょう。それを悔やんで、すんごく酔っぱらって、ずうっと泣いていたの。わんわん、わんわん。ふふふ。軍人さんのくせに。」

律俊「そうしたら、有無を言わさず霞をかけられて、ねむらされて。」

朧女「お姉さんの夢をみせたの。私の霞は、その人の一番見たい夢をみせるの。」

栗原「永田のことはどうでもいい。それより、この霞で眠った人間は、いつ起きるんだ。」

朧女「私が霞を晴らしたら起きるわ。やってみせましょうか。」

栗原「ああ。」

(朧女、手を振って霞をはらす。眠っていた人々は徐々に起き上がり、喧噪が再開する。)

律俊「納得、したかな。」

栗原「よし。詳しい話をしよう。しかし、ここでは、な。」

朧女「もう一度眠らせればいいのよ。ほら。」

(朧女、再び眠らせてしまう。)

律俊「こんなに簡単に使っていいのかい。」

朧女「よくないわよ。かなり疲れるもの。だけど、今はそれどころじゃないじゃない。決行の時がきたんでしょう。」

律俊「朧女、ここ3ヶ月の間、幾度か話はして来たが、いよいよ26日早朝。行動を起こす。」

朧女「何をするの。」

律俊「簡単に言うと、我々陸軍の志高きものたちが、現政権を打破し、維新を行うべく、直接交渉に乗り出すんだ。」

朧女「それは知っているわ。しりたいのは、具体的に何をするかよ。」

栗原「いくつかの連隊が、政府要人のいる官邸、館に出向き辞任を要求する、直接交渉を行うんだ。首相岡田、高橋大蔵省、斉藤内大臣、鈴木侍従長、渡邊陸軍教育総監らがおもな目標だ。」

朧女「死人がでるわね。」

栗原「それはない。我々の目標は殺傷ではない。あくまでも、威嚇の為に武装はするが、血を流す事は無い。」

律俊「そうだよ、朧女。今の政治は財閥と癒着し、腐りきっている。その上、さきの恐慌で、小さい、かよわき者達から疲弊している。お前も見て来ているだろう。僅かな救いを求めてここにくる人たちを。」

朧女「そう、すみ江ちゃんもそう。村木さんもそう。毎日を幸せに暮らしたいだけなのに、それだけなのに、貧しいから、苦しい。自由になれないの。そんな人ばかりよ。そんな人ばかりここに来るのよ。今の政府がかわれば、こんな毎日がおわるんでしょう。」

栗原「そうだ。辞任を導き出す事で、我が国を目覚めさせるんだ。」

朧女「私は、何をすればいいの。」

律俊「俺たちの連隊は、岡田首相官邸に向かう。その官邸を霞にまいて、包囲して欲しいんだ。」

朧女「屋敷ごと。」

栗原「できるか。」

朧女「出来るわ。大丈夫。でも、門番まで眠らせてしまって、どうやって中に入るの。」

栗原「すこし乱暴だが、押し入る。そして、直接首相と交渉を行う。」

朧女「ねえ、本当に殺さないのよね。血は流れないのよね。」

栗原「ああ、約束しよう。お前の霞があった方が、直接首相に会える可能性が高い上に、暴力沙汰を回避できるのだよ。なにせ、こちらは20名程で行く予定だからな。門前払いが関の山だ。」

朧女「そんなうまくいくのかしら。」

栗原「なんとかする。大丈夫だ。それと、霞の力を使って、人を眠らさせる事が出来るのはわかったが、はじめから眠っていた奴はどうなるんだ。」

朧女「さっきも言ったように、私の霞の力は、瞳から入って行くの。だから、目を閉じられていたら、力は効かないわ。」

律俊「でも、栗原。門番を眠らさせる事が出来れば十分じゃあないか。眠っている人間は、その場で拘束すれば良いし。そうだ、朧女、その霞、ずっと出し続ける事は出来るのかい。」

朧女「ずっと。それは、交渉を行っている間ってことかしら。」

栗原「いいや、俺たちが首相と交渉を始めるまでの間さ。」

朧女「そんな事したら、皆さんまで眠ってしまうわ。」

律俊「そうか。」

朧女「一度出した霞を保つので精一杯よ。」

栗原「結構だ。起きている門番と、護衛さえ眠らせてしまえば、後はどうにでもなる。朧女、是非協力してくれ。」

朧女「わかったわ。そのかわり、約束してね。決して人は殺さないと。」

栗原「もちろんだ。詳しいことは、25日の夜、律俊が迎えにいくからその時に聞いてくれ。何しろ極秘で事は運ばなくてはならない。くれぐれも、口外するな。万一の事があれば、お前を殺す。」

朧女「わかったわ。では、霞を戻すわね。」 

(再び、喧噪が戻る。)ママ「朧女!こちらのお客さんが、一曲歌って欲しいって。」

朧女「はーい。すぐに。じゃあ、出るときに言ってね。お見送りするわ。」

(朧女、栗原たちの席を離れて他の客の席に行く。)

律俊「栗原、何故あんな嘘をついた。」

栗原「女に血の話をしても無駄だろう。」

律俊「俺たちは説得にいくんじゃない。朧女を血の海に巻き込ませるつもりか。」

栗原「じゃあ、どうしてそのとき言わなかった。栗原、我々は殺すつもりで官邸に向かうと、何故言わなかった。」

律俊「それは・・・。」

栗原「お前の意思を信じている。それに、あの女の奇術を作戦の主軸にする気はさらさらない。万一にでも、うまくつかうことができたら儲け物だと思うがな。こちらに流れる血は少ない方が良い。では、俺は帰る。これで払っておいてくれ。」

律俊「いや、俺が出すよ。」

栗原「仲介料だ。気にするな。では25日。たのんだぞ。」

律俊「ああ。」

(栗原、出て行く。律俊、歌う朧女をぼうっと眺めるが、不意に近づき、一緒に踊りはじめる。)

朧女「帝国軍人はダンスがお上手ね。」

律俊「諜報部に入る可能性があったからね。一通り学ばされたんだ。」

朧女「ふふふ。栗原さんは帰ったの。」

律俊「ああ、あいつには家庭があるからね。俺も、そろそろ戻るよ。」

朧女「そう、じゃあ、戸口までエスコートしますわ。」

律俊「女にエスコートされるなんて、士道にあるまじきことだな。」

朧女「ふふふ。へんな律俊。」


(ふたり、外にでる。)

律俊「それじゃ、25日にここに来る。それまではもう、ここには来ないと思うから。」

朧女「ええ。待っているわ。」

律俊「じゃあ。」

朧女「まって律俊。」

(朧女、律俊にキスをする。)

朧女「あの約束、あの約束だけは守ってね。」

律俊「ああ、だれも殺しはしないよ。」

朧女「でもね。」

律俊「なんだ。」

朧女「今の貴方の目。そんな目をする人をみたことがあるの。」

ママ「朧女、そろそろ戻って来て。手が足りないわ。」

朧女「じゃあね。大好きよ、律俊。」

(律俊、名残惜しそうに去る。朧女、店に戻ろうとした時、刀因坊が出てくる。)

朧女「きゃ。いやだわ、驚いた。どうしたの。」

刀因坊「悪い事は言わねえ、あいつらに構うな。」

朧女「そう、起きていたのね。」

刀因坊「目の見えないおれには、霞も何もねえからな。」

朧女「盗み聞きなんて、失礼しちゃうわ。」

刀因坊「人様を勝手に眠らせたんだ。失礼もないだろう。もう一度言うぜ。あいつらに関わっちゃいけねえ。」

朧女「それは無理よ。」

刀因坊「どうしてだ。こんな無鉄砲な計画、無理に決まっているだろう。お前もそんな阿呆じゃあるめえ。」

朧女「でも、可能性はあるかもしれない。」

刀因坊「そんなものねえよ。あんな若造の交渉なんて、たかが知れてる。血が流れるぜ。仮に彼奴らに、先の見通しなんてあるのか。今の政府を無くした所で、次は決まっているのかい。」

朧女「私は、馬鹿だから、難しい政治の事はわからないの。」

刀因坊「なら、なおさらだよ。朧女、あいつらについて行くな。」

朧女「刀因坊さん。ママに言う?」

刀因坊「・・・。」

朧女「難しいことはよくわからないんだけどね。もし、行かなかったら、律俊に、会えなくなってしまう気がするんだもの。」

刀因坊「お前。」

(朧女、中に入る。声だけ聞こえてくる。)

朧女「ごめんなさい、何を歌いましょうか。」


 ジャズの音が大きくなる。頂点に来たとき、乱暴に掻き消える。






第2幕 1場 首相官邸 庭


 幕前に海烏が立っている。どこからともなく波の音が聞こえてくる。海烏は静かに歌い出す。歌の途中、闇の中幕が開くと、黒い服に身を包んだ朧女がいる。暗闇の中、朧女だけに光があたり、彼女も歌に加わる。


海烏「赤目の赤子や赤人魚

   いいえ人魚じゃありゃしません

   無様な深紅の鱗だけ

   足に蔓延るお人形

   一度霞で人狩れば

   たちまちおみあしゃくっついて

   おかしや人魚にうみかわり

   おかしや鴨女と海帰り

   努々忘れる事なかれ


海烏

朧女 努々忘れる事なかれ



朧女「久方の

   帝都を隠す

   白雪を

   踏みしめ進む

   深き夜

   天仰ぎ

   月の行方を

   探すれど

   眼覆うは

   ただただ雪

   手を仰ぎ

   その根を掻き消さんとする

   つらに浴びるは

   ただただ雪

   ただ、雪」


 首相官邸の裏門前に、朧女と律俊がいる。

律俊「朧女。」

朧女「なあに。」

律俊「朧女。まだ間に合う。まだ何も始まっていない。今なら間に合う。」

朧女「何が。」

律俊「銀座へ帰れ。今が丁度四時三十分、栗原が動き出した頃だ。ここにつくには、この雪だと三十分はかかるだろう。今のうちに銀座に、タナトスに帰れ。」

朧女「どうしてそんな事を言うの。ここにきて何を迷うの。私の力が必要でしょう。私なら大丈夫。心配しないで、怖くないわ。だって、首相を直に説得すれば、私たちの暮らしが良くなるのでしょう。苦しい事が減るのでしょう。」

律俊「説得。そう、説得。朧女、すまない。俺は、俺はお前を・・・。」

(朧女、律俊にキスする。)

朧女「律俊、私は馬鹿な娘なの。出来る事は信じる事だけ。謝らないで。何も心配しないで。さあ、霞を出すわ。皆が来る前にこの屋敷を霞で包まないと、中尉達まで幻を見る事になってしまう。律俊は目を閉じて、少し離れた場所にいてね。そうしないと、貴方も幻に巻き込まれてしまうわ。」

律俊「朧女。何にかえても、お前は俺が守る。」

朧女「ありがとう。私も貴方を守るわ。でも、一つだけ約束してね。この幻の中では、決して人を殺さないと。さあ、しっかり目を閉じていて。こんなに大きな霞を出すのは久しぶりだからうまく加減できないかもしれない。」


(朧女の体が赤く輝き、霞が舞台を包む。そして霞の向こうから、隊列を組んだ栗原中尉の部隊がやってくる。同時に黒い軍服を着た海烏達も入場し、座につく。)

栗原「永田。奇術は済んだのか。」

律俊「ああ、栗原。もう屋敷全体を霞が包んだころだ。」

栗原「ご苦労。奇術など信用してはいないが、もし、これが本当に効き目があるなら、双方無駄な死人を出さないにこした事は無いからな。天皇陛下に血にまみれた奏上文を奉りたくはない。」

朧女「栗原中尉さま。この人数は一体・・・。二十人では無かったのですか。何百人いるではありませんか。」

栗原「そうだ。中に踏み込むのは二十名だ。裏は六十名の小隊で固める。他の二百余名は官邸をぐるっと囲むだけだ。心配するな。お前の心配している殺傷はしない。」

兵士「栗原中尉。詰所の護衛警官は眠りこけ、全く動く気配を見せません。」

朧女「そうよ。今頃美しい幻の中・・・。」

栗原「よし、予定通り粟田伍長の挺身隊が人間梯子で内側に入り、門を開けろ。林少尉は裏門へ回ってもらう。」

兵士「は。」

栗原「朧女。貴様はどこにいれば良いんだ。この奇術はどの位もつのだ。」

朧女「私が念じている限り、この霞は晴れる事はありません。私は昨晩地図でみた、中庭にいようと思います。丁度屋敷の中央ですから。」

栗原「よし、それでは我らが先鋒とは別に入ってこい。大阪、長谷川、山本、彼女の護衛につけ。彼女はこの作戦の重要な協力者だ。しっかり守れよ。屋敷内で迷子にならいように、決して手放すな。」

永田「栗原、自分も彼女の護衛につかせて欲しい。」

栗原「駄目だ。お前は俺と来い。」

朧女「大丈夫よ。心配無いわ。」

栗原「皆聞け。我々は礎になる為にここに来た。自分がこの淡い雪のひとひらだと思うな。ひとひらが集まり、強く結集すれば飛礫にもなる。つもれば、屋根だってつぶせる。さあ、5時だ。同胞達が皆動き出す。昭和維新を始めよう。みな、配置につけ。」

(先鋒隊が壁を越えて、中に入っていく。栗原、永田を密かに呼ぶ。)

栗原「永田。俺はあの女の奇術を信じてはいない。わかっているとは思うが、彼奴らが抵抗するようなら迷わず殺せ。女の言葉に惑わされるな。」

律俊「わかってるよ。」

栗原「なら、いい。」

(静かに門が開く。)

栗原「再びこの門が開くとき、我らの世界は新しい理想の光を放つだろう。ここは新世界の門になる。さあ、門出だ。」

朧女「おかしいわね、中に入っていくのに門出だなんて。兵隊さん、おかしいと思わないのかしら。皆さん、中は霞にまみれた迷宮ですから、どうぞお気をつけて。」

(栗原の部隊、門の中に消えていく。律俊もそこにいる。)

大阪「さあ、行きましょう。」

(門の中から声だけが聞こえる。)

栗田「中尉、表玄関は扉が頑丈で空けることができません。」

栗原「横の高窓のガラスをたたき壊せ。」

(破壊の音がつづく。朧女についている兵士3人が一斉に体を強ばらせる。)

朧女「兵隊さん。そんなに緊張しなくても大丈夫よ。こんな音では誰も気がつかないわ。中の人間は皆、今頃素敵な夢の中よ。」




第2幕 第2場 首相官邸内

(霞の中、栗原の隊が岡田首相を探してさまよう。警護の人間は皆、廊下で眠っていたり、まるで生きている気配すらない。)

栗原「あの女の奇術、中々のものだな。一体どういう手を使ったのだ。何か薬を焚くにしても、火の匂いは全くない。これが終わったら、是非とも教えてもらおう。」

倉友「中尉、ご覧下さい。頭を引きずりあげてもぴくりとも動かない。これが我が国の首長の護衛、護衛ですよ。」

栗原「黙れ、倉友。先陣をきる度胸は良いが、興奮するな。三沢は眠っている警官を縛り上げておけ。いつ目覚めるかわからん。皆も、眠っているものをみたら、とにかく拘束しておけ。」

律俊栗原、ここだ。情報が正しければ、この和室の中で岡田は眠っているはずだ。」

栗原「よし、入るぞ。出口は固めておけ。」

(栗原ら、10名程、中に踏み込む。しかし、部屋には誰もおらず、今しがた逃げたような痕跡が残る。)

栗原「逃げたな。この館にいるはずだ。探せ。くれぐれも潜んでいる輩に気をつけろ。」


海烏(兵士達も口ずさむ)

   「さがせ

    さがせ

    さがせ   

    さがせ   

    さがせ   

    くびを

    くびを

  

    さがせ   霞に沈む鬼の城

    さがせ   主の首を探れども

    さがせ   季節外れの空蝉か

    さがせ   残るは温い衣のみ

    さがせ

    さがせ

    くびを

    くびを

    

    さがせ   しんと凍った鬼の城

    さがせ   大寒の雪に身を切られ 

    さがせ   耳目は闇に攫われて 

    さがせ   残るは血潮滾る魂

    いそげ

    さがせ

    くびを

    くびを (静かに繰り返す)

   

(混乱の中、朧女が真ん中から入場。ただまっすぐ、中庭に進み壁に寄りかかり、喧噪を聞いている。体は赤く輝いている。)  

朧女「おかあさん。はじまってしまいました。はじまってしまいました。」   

(倒れるようにうずくまる。)

大阪「どうした。具合が悪いのか。うう。」

(朧女に触れたとたん、大阪も眠ってしまう。他の二人も同様に中庭で倒れるように眠りこける。そこへ、通りかかった律俊が来る。)

律俊「朧女、二人に何をした。」

(律俊は朧女を起こそうとするが、全く起きようとしない。すると、そのそばのぬれ縁に見知らぬ老女が座っている事に気がつく。よくよくみると、脚には尾びれがある人魚、赤目である。海烏の声はいつの間にか消えている。)

律俊「お前はだれだ。朧女、お前、俺にも霞をかけたのか。さっき、俺にも霞をかけていたのか。」

赤目「朧女、起きなさい。これから大切な話をするからね。よく聞くんだよ。」

(朧女、目覚めて赤目に駆け寄る。その姿はさっきまでの彼女ではなく、もっと純粋な、あどけない姿をしている。)

朧女「はい、母様。」

赤目「お前ももう十になった。そろそろ物の分かる年にもなっただろう。今から大切な事を教えよう。」

朧女「大切な事。」

赤目「そうだ。これを聞けば、お前はきっと私を嫌うだろう。憎むだろう。でも、今言わねばならない。」

朧女「母様を嫌うなんて、そんなことは絶対にないわ。でも、どうしてそんな話をするの。」

赤目「朧女。お前を生んではや十年、私は人間の3倍の早さで老いた。私はもうすぐ死ぬ。」

朧女「母様、なんて事を言うの。心配しないで。見せ物小屋には私が立つわ。私が飯代を稼ぐから。この鱗があれば、きっとなんとかなります。」

赤目「ありがとう。でもよく考えて。なんでだと思う。私が見世物小屋の他の人たちよりも、こんなにも早く年老いてしまったのは。これはね、人間を食べなくなったからなんだ。」

朧女「人間を食べる。まさか。」

赤目「人魚は人間を食べて、その若さを保つ。私も食べた。でもね、人間を、お前のお父さんを愛して、お前を宿してから、そんなことはできなくなった。だから陸に上がって老いを選んだ。」

朧女「本当に人間を食べたの。ぱくぱく食べたの。本当に・・・。」

赤目「そうだよ。群れの仲間と一緒に食べた。私は人魚の中でも珍しい、赤人魚という人魚なんだ。赤人魚は念ずれば、幻をみせる霞を生み出すことができる。この力を使って、漁に出ていた人間を罠にかけて、次々捕まえた。驚いたろう。私が気持ち悪くなっただろう。」

朧女「いいえ、いいえ。」

赤目「そして、朧女。お前にもこの力があるんだ。」

朧女「私に。私は人魚じゃありません。」

赤目「いや、あるはずなのだよ。その脚の赤い鱗がその印。赤人魚は赤人魚からしか生まれないからね。お前にもきっと霞がだせる。いまからその方法を教えましょう。さあ、目を閉じて、言われるように祈るんです。そして、霞を出したら、それに乗じてこの見世物小屋から逃げなさい。」

朧女「逃げる。ここから。母様はどうやって移動するのですか。」

赤目「お前一人で逃げるんだよ。」

朧女「母様、母様は行かないのですか。」

赤目「少し声を鎮めなさい。座長が起きてしまうよ。さっきも言っただろう。私はもう長くはない。そしてこの見世物小屋は、人魚の私の物珍しさで生計をたてている。もしも、私が死んだら、お前が新しい稼ぎ手にされて、ここから出られなくなってしまうよ。さあ、一緒に祈って霞を呼んで、それに紛れてここからお逃げ。」

朧女「嫌です。一緒でなければ嫌。」

赤目「私の最後のお願いだよ、朧女。自由になって、自分の道を進みなさい。私みたいに自由に生きるんだよ。」

朧女「自由。座長にいつも縛られて、こんな檻に入れられて、どこが自由なのですか。」

赤目「私は群れを裏切って出て来た。群は私が必要だったのに、お前を生みたい一心で、群を裏切り、自分の心に自由に生きた。人間でない私は、ここにでも入らなければ、どこかでのたれ死に、お前に出会う事も出来なかっただろう。私は幸せだったよ。」

朧女「母様。私の幸せは、母様と一緒にいることです。」

赤目「一緒にいても、私はすぐに朽ち果ててしまう。ねえ、朧女。そんなに私を好きでいてくれるなら、この力を使って、哀しい人たちを助けておやりよ。私はこの力で、たくさんの人間を食べた。その罪滅ぼしじゃあないけれど、この力を、人間を生かす為に使ってくれないか。」

朧女「母さんは、見せ物にされて、たくさんの人に笑われて、馬鹿にされて、たくさん惨めな思いをしてきました。その人間を助けるなんて、私には出来ません。」

赤目「恐ろしい事を言うんじゃない。お前を生むのにたくさんの人間が助けてくれた。そのうちわかるよ。今立っている血は、お前一人のものでは無いという事が。さあ、涙を拭いて。よく見なさい。扉の鍵が開いているだろう。座長が珍しくかけ忘れたんだ。この機会を逃すわけにはいかない。」

朧女「ここでお別れなのですか。」

赤目「目をとじて、私を思い出せばいつでもどこでも会えるよ。涙を拭いて、心を落ち着けて祈りなさい。」

(霞が二人を取巻く。)

赤目「一つだけ気をつけなくちゃいけない事がある。もし、この力を使って、人間を狩る様な事があったら、お前は人間の姿でいられなくなってしまう。いいかい。それだけは忘れるんじゃないよ。さようなら、朧女。お前に出会えて本当に幸せだった。」

(赤目のみ消えていく。朧女は中庭に呆然と立ち尽くしている。そばには同じく立ちすくむ律俊。海烏の歌が再び聞こえてくる。)


律俊「朧女、すぐにこの霞を引かせろ。お願いだ、目覚めてくれ。この作戦は、はじめから首相を殺すつもりで乗り込んだんだ。早く霞を消してくれ。早く。」

(朧女は起きる気配もなく、夢遊病のようにどこかに向かい歩きはじめる。赤い輝きが増していく。そのとき、中庭に一人の男が乗り込んでくる。霞で律俊には気がついていない。)

松尾「なんだ、この赤く光ったやつは。この煙の出所はお前か。よく見れば女じゃないか。」

朧女「赤目の赤子や赤人魚

   いいえ人魚じゃありゃしません

   無様な深紅の鱗だけ

   足に蔓延るお人形」

松尾「哀れ狂人か。どうしてここにきた。」

朧女「一度霞で人狩れば

   たちまちおみあしゃくっついて

   おかしや人魚にうみかわり・・・」

松尾「来るな!化け物!来るな!」

律俊「畜生!」   

(銃を構えた松尾に向けて、律俊は発砲が発砲、松尾と朧女倒れる。徐々に霞が晴れる。数人の兵士が中庭の異変に気がつく。霞が晴れたせいで、警備警官が気がついたのか、他の場所からも銃声が聞こえはじめる。律俊は朧女に駆け寄る。松尾は壁にもたれて倒れていたが、なんとか正座し、姿勢を正そうとする。若い兵士たちが松尾に銃を向ける。)

律俊「やめろ、撃つな、栗原中尉を待て。もうそいつに抵抗する力は残っていない。朧女、朧女。大丈夫か。撃たれてはいないな。脚、脚は・・・。なんだ、人間のままじゃないか。あれは、夢、そう幻だ。」

林「永田中尉。その男は、もしや。」

律俊「おそらく岡田だ。まだ、すこし息は残っている。栗原中尉をよんでくれ。」

林「は・・・。大丈夫です、丁度栗原中尉がいらっしゃいました。」

栗原「奇術師は何をしているんだ。霞が消えて、意識の戻った警官隊と撃ち合いが始まってしまったぞ。」

林「栗原中尉、永田中尉が岡田をしとめました。」

栗原「やったか。誰か、日本間にある総理の写真を持って来てくれ。それと、倉友を呼べ。」

(朧女目覚める。)

律俊「朧女、気がついたか、良かった。」

朧女「律俊。やっぱり嘘をついたのね。」

栗原「気がついたか。よくやった。礼を言おう。」

朧女「貴方も、貴方も裏切るのね。」

栗原「嘘も方便という言葉を知っているか。女よ。この一人の死が、我が国の何万人もの貧困者を救うのだ。」

松尾「戯れ言を。私を殺しても何も変わらないぞ。血で血を清められるはずが無い。貴様らの先に道は無い。」

朧女「栗原中尉。そうよ、この人を殺しても何も変わらないわ。お願い、この人を殺さないで。」

栗原「女、こいつが生きている方が何も変わらないんだ。大阪、このうるさい御婦人を女中部屋に入れておけ。そして、部屋から出すな。あとで聞きたい事がある。妙な奴らに絡まれぬよう、しっかりお守りしろ。いいな。」

律俊「朧女、すまない。」

(写真を持った兵士と倉友が入ってくる。)

栗原「どれ、貸してみろ。間違いないな。倉友、先陣の手柄にお前にとどめを命じる。」

朧女「やめて、お願い、やめて!」

松尾「陛下万歳・・・」

(銃声。松尾は倒れる。)

朧女「ああ。」

兵士/海烏

  「万歳、万歳、万歳・・・」

(朧女も倒れてしまう。)




第2幕 3場 女中部屋/首相寝室

(小さな部屋に、女中が二人、ふすまの前で正座している。そのそばで、朧女が布団の中に眠っている。)

サク「あら、気がついたのね。可哀想に、女の子にこんな乱暴をするなんて。もう、まる一日ちかく眠っていたのよ。」

朧女「このお布団は、あなた様が。寝間着も・・・。」

キヌ「そうよ。どうなさったの、軍服を着せられて。貴方もまさか反乱軍なの。それともまた別の何か。一時間に二度は兵隊さんが様子を見に来て。」

朧女「反乱。ちがう、反乱なんかじゃない。この世の哀しい人たちを助けようと思ったんです。でもそれもおしまい。もう終わりなんです。皆さんは・・・」

キヌ「こんな若い娘さんまで反乱に加わったのね。何が哀しい人たちを助けようですか。あんなに人を殺しておいて、何が・・・。」

サク「反乱に加担したものに語る事等何もございません。私に力があれば、貴方を撃ち殺してしまうのに。」

朧女「他にも残っている方はいらっしゃるのですか。その、警備兵以外に・・・。申し訳ありません。申し訳ありません。私の力で、この館を血に染めてしまった・・・。」

(奥のふすまからもの音がする。)

朧女「何の音でしょう。」

キヌ「さあ、気のせいでございましょう。」

朧女「いえ、確かに音がしましたわ。」

サク「気のせいでございます。もしくは鼠じゃないかしら。」

朧女「そう。・・・でもやっぱり。」

(おぼろめ、素早くふすまをあけてしまう。中には死んだはずの岡田首相がいる。)

朧女「生き返った・・・。いいえ、そんなはずは無い。そんなはずは無い。」

キヌ「(ふすまを急いでしめる)お嬢様、あなたが一体どんな方かは存じません。でも、このお方はこの国に必要な方なのです。貴方にこの国を憂える心があるのなら、どうか、ここで見た事はご内密に。見れば貴方はまだお若い。若さにのぼせて見失ってしまっただけではないですか。首相を殺した所で、世の中は何も良くなりません。ただただ混乱するだけなのですよ。だから、どうか。」

朧女「じゃあ、あの場で殺されたのは、誰・・・。」

サク「義弟の松尾予備役大佐でございます。あの霞の夜、次々と警備の者が眠っていく中、自らの脚に短刀を刺して、正気を保ち、身代わりとなったのです。」

朧女「助けましょう。この方を助けなければ。」

キヌ「え、貴方はなんて言う事を言うのです・・・。」

朧女「この方を助けます。見つかれば殺されてしまう。ここにいては時間の問題です。今度こそ、私の目の前で誰も殺させはしません。」

サク「し、静かに、誰かやってきます。」

律俊「朧女、気がついたか。喜べ、岡田内閣は臨時首相の手によって総辞職した。」

朧女「そう。じゃあ、私の役目はもうおわりでしょう。ここから出して。」

律俊「悪いがそれは出来ないんだ。栗原が、朧女の奇術について聞きたい事があるらしい。それに、外はいま戒厳令がしかれて、自由に外を歩くことが難しいんだ。落ち着いたらきっと帰れるから、今はもう少しここで待っていてくれないか。」

朧女「それなら栗原中尉に私が直接会いにいく。」

律俊「栗原は今忙しい。もうすぐここに、そう、あと十五分もしたら、亡き首相の検分に政府のやつらが来る。その準備で忙しい。」

朧女「検分。」

律俊「そうだ。早朝、電話が会ってね。遺骸だけでも見せて欲しいと頼み込まれた。それを栗原が許可した。」

朧女「そう、それじゃあ忙しいわね。」

律俊「またあとで、昼飯のおにぎりでも持ってくる。栗原には、朧女が目覚めた事だけ伝えておくよ。」

朧女「待って。その検分の方達がきたら、ここにいる女中さんを一緒に連れ出してあげられないかしら。ここから出たいそうなの。ねえ、誰がいらっしゃるの。」

律俊「今から来るのは秘書官だった福田と迫水いう人物だ。」

朧女「女中さん、その人の事はご存知ですか。」

サク「ええ、もちろん。いつもお世話になっておりますもの。

朧女「じゃあ、話は早いわ。連れて行ってもらいましょう。ねえ、律俊、栗原中尉に掛け合ってくれない。」

律俊「わかった。時間はないが、相談しておこう。」

朧女「ありがとう。」

(律俊、去る)

朧女「行ったわね。さあ、きっかけは出来ました。あとは私に任せて下さい。」

キヌ「あなたは、何をなさる気なのです。」

朧女「首相を逃がしましょう。」

サク「貴方は、反乱軍なのでしょう。信じられません。」

朧女「信じられないと思います。でも、聞いて下さい。私は、目の前にいる人たちを助けたくて、この作戦に加わったのです。岡田首相を説得して、辞任させる事ができれば、世の中が良くなると信じていたのです。」」

サク「あんなに武装した軍隊で押し寄せて、ただの説得で終わるはずが無いでしょう。」

朧女「でも、あの人達と約束したのです。力を貸す代わりに、誰も殺さないと。私はそれを信じることしか出来ないのです。馬鹿な女なのです。そして、血は流れました。私の目の前で。」

サク「そんな・・・あなたはなんて愚かなの。」

キヌ「貴方、お名前は。」

朧女「朧女と申します。」

キヌ「私は府川キヌ、こちらは秋本サクです。」

サク「キヌ。やめなさい。」

キヌ「でも・・・。」

朧女「もう時間がありません。検分役はあと十五分で来てしまう。私の作戦を聞いて下さい。」

サク「私は貴方が信じられない。」

朧女「どうしたら信じて頂けますか。」

キヌ「サク、この娘さんにかけてみませんか。私はなんだか、信じられる気がするんです。なんだか、一生懸命なんだもの。それに、もし私たちを騙す気なら、今の将校さんが来た時に、もう伝えているはずでしょう。」

サク「・・・わかったわ。どうせここにいても埒があかない。死の予感が強くなるだけだもの。」

朧女「では・・・。」

(舞台上、薄暗くなる。別の一角では栗原が律俊と話しながら正面玄関に向かっている。)

律俊「栗原、朧女が目を覚ました。」

栗原「やっと奇術師の目が覚めたか。丸一日眠っていたんじゃないか。」

律俊「女中部屋に逃げていた女中二人が介抱してくれたようで、もう元気に歩いていたよ。そこでな、朧女が言っていたのだが、もうじきに来邸する検分役の福田秘書官に、その女中を引き取ってもらえないかと。」

栗原「そういえば二人、部屋で震えながら残っていたな。そうだな、連れて行ってもらえ。主の殺された館に残っているのは辛かろう。永田、宜しく取りはからってくれ。ところでだ。あの女、朧女のことだ。あいつはただの女だ。我々の思想や理想など何も理解できないただの女だ。だが、あの奇術の種が知りたい。お前は知っているのか。あの霞の正体を。」

律俊「あれは人魚の術だよ。」

栗原「夢みたいな事を言うな。」

律俊「嘘は言っていない。あとは、これが信じられるかどうか。」

栗原「馬鹿にしている目ではないが。まあいい、あとで直接聞きに行こう。」

林「栗原中尉、お話中失礼致致します。福田秘書官が到着されました。」

栗原「わかった。すぐ行く。丁重におもてなししろ。永田、お前は秘書官の弔問が済んだら、秘書官を女中部屋へ・・・いや、女中を正面玄関に連れて来ておいてくれ。くれぐれも、朧女は外に出すなよ。」

永田「承知。」

(永田は照明から外れ、朧女の部屋に向かう。正面玄関から、倉友に連れられた福田秘書官と迫水秘書官が入ってくる。)

栗原「ようこそいらっしゃいました。栗原安秀です。」

福田「福田です。こちらは迫水。朝の電話で話した通り、秘書官二名で参った。」

栗原「遺骸は岡田の寝室に安置してある。今はくれぐれも検分に留めて頂きたい。」

福田「承知している。さあ、通してくれ。」

栗原「では、どうぞ。(歩きながら)そうだ、女中が二人、震えてこの館に残っている。つれて帰ってくれないか。あとで正面玄関に連れて来させておく。」

福田「もちろんです。女性をこんな血の館に老いておくわけにはいかない。」

栗原「この血は我が国の毒だ。毒に冒された体を清めるには、荒療治が必要だったのだ。ここは未来の日本国の礎の館となろう。今は、主の殺された場にいる事が耐えられないかもしれん。しかし、いつか、この場にいた事を誇りに思う時が来るだろう。」

迫水「(小声で)こいつ・・・正気か。」

栗原「さあ、どうぞ。ご対面ください。私はここで待っている。」

(林、唐紙をあけ、秘書官二人は中にはいる。二人は安置されていた遺骸の顔にかけられていた布をめくる。顔を見た瞬間息をのみ、顔を見合わせる。)

福田「迫水。このお方は。」

迫水「先生ではない。松尾予備役大佐だ。ということは・・・。」

福田「きっと先生は、この官邸のどこかで行きておられる。松尾先生は顔立ちが似ていたから、咄嗟に身代わりになったのだろう。」

迫水「とりあえず、この場は怪しまれないよう、これが総理の遺体である事にしておこう。」

福田「そうだな。女中が何か知っているかもしれん。戻って、詳しい事を確認して、一刻も早く次を考えよう。」

栗原「総理の死体に間違いありませんね。」

福田「相違いありません。」

栗原「では、ここでお引き取り願いましょう。」

(照明暗くなり、再び女中部屋に明りが入る。女中部屋の会話の間に、栗原一行は玄関にたどりつくこと。) 

サク「本当にそんな事が出来るのですか。」

朧女「嘘はつかないわ。あとは、信じられるかどうか。」

キヌ「サク、信じましょう。今はこれしか道が無いのですから。」

律俊「入るぞ。朧女、その二人をここから出せることになった。」

朧女「迎えは、迎えはもう来たの。」

律俊「今、栗原が遺体に案内している。この二人は私が正面玄関まで連れて行く。確認が済んだら栗原がここに来るから、朧女は待っていてくれ。」

朧女「迎えはここには来ないのね。」

律俊「そうだ。正面玄関で秘書官にお渡しする。」

朧女「それは残念。」

(朧女、赤く輝きながら手を律俊の前にかざす。律俊、眠りにおちる。)

律俊「おぼろめ・・・。お前・・・。」

朧女「ごめんなさい。律俊。さあ、この人を中に入れて、首相をふすまから出して。迎えがここまで来られないのは残念です。本当は、屋敷全体を一気に霞で覆いたかった。でも、そうしたら迎えの人たちまで巻き込んでしまう。作戦を変えましょう。正面玄関までに会う人々は、こうして私が一人一人霞をかけて眠らせる。なんとか秘書官と落ち合えたら、とにかく走ってこの官邸を出て下さい。あとは私が何とかします。行きましょう。時間はありません。弔問客に人が集まっている間が勝負です。」

サク「ご主人様、さあ、こちらへ。福田秘書官がいらっしゃっております。」

岡田首相「娘さん。こんな事をして良いのかね。仲間を裏切ることになろう。」

朧女「大丈夫です。首相、どうかご無事にお逃げください。」

岡田首相「娘さんに一つ聞きたい。どうしてこの反乱に荷担したのかね。」

朧女「・・・好きな人がいるの。」

岡田首相「そうか。」

キヌ「一人一人に霞をかけると言ったけれども、万一、貴方の出す幻に飲み込まれてしまったら。」

朧女「もし、もしもそうなったら、自分のどこかを傷つけてください。とにかく眠らないように正気を保つしか無い。」

サク「わかりました。では、まいりましょう。」

(朧女一行、部屋を出て行く。わずかに残る意識の中、朧女の話を聞いていた律俊。なんとか自分の短刀を取り出し、脚に突き刺す。さらに、笛を吹く。)

律俊「誰か!岡田だ!岡田が生きているぞ!」

(笛の音と同時に照明が全体を照らす。朧女一行、思わず立ち止まる。栗原一行は玄関でその音を聞く。)

朧女「律俊。どうして、眠らせたはずなのに。ああ、兵士達が来てしまう。走って。」

栗原「何の笛だ。この叫び声は一体なんだ。」

福田「迫水。聞いたか。」

迫水「ああ、聞いた。確かに岡田と叫んでいた。」

林「中尉、あれを、朧女が女中と見知らぬ男を連れてこちらに向かっております。」

栗原「ここで押さえろ。抵抗するなら撃っても構わん。ただし、殺すな。まだ聞きたい事がある。福田さん、迫水さん、ここは危険だ。さあ、外へ。」

(福田・迫水、外に出される。)

朧女「もう玄関に栗原がいる。」

キヌ「あれは、福田様と迫水様。」

朧女「あの二人がそうなのね。あの二人に首相を渡せば良いのね。霞を出します。3人とも、良いというまでしっかり目を閉じていて下さい。幻に巻き込まれないように。」

(朧女、赤く発光し、凄まじいスピードで霞みを出す。)

栗原「畜生。やられた。何も見えん。皆、煙をみるな。眠らされてまやかしに遭うぞ!」

(兵士達、倒れかけたり、その場に踞る。栗原、福田、迫水も同様。)

朧女「もう大丈夫、目を開けて下さい。」

サク「これは何。兵士達が酔ったように倒れていく。」

朧女「何も考えないで。さあ、走って。今外に出された二人の元へ。」

(4人、兵士達の間を走り、玄関を出る。)

岡田「福田、迫水、よく来てくれた。」

福田「先生!よかった。よかった。」

朧女「さあ、早く行って下さい。首相は顔を隠して。早くこの屋敷から離れて下さい。」

サク「貴方は。」

朧女「私は残ります。」

キヌ「駄目よ。こんな事をして、無事では済まない。」

朧女「もう、向こうには戻れないの。」

(朧女、官邸に戻る。ドアを閉める音と同時に暗転。



海烏の歌が聞こえてくる。


海烏「かわいかわいし赤人魚

   手を振る間もなく振り返る

   向かうは己に課せられし

   枷をほどきに運命の

   男待ちたる血の屋城」



 


第2幕4場 廊下

(朧女、官邸の中に戻ると、すぐに霞を晴らす。栗原、体に自由が戻ると、すぐに朧女を殴り、頭を脚で押さえつける。周りの兵士は拳銃を朧女に向ける。)

栗原「奇術師。今逃がしたのは誰だ。」

朧女「女中と、岡田首相を逃がしました。」

栗原「岡田は我々が殺した。そんなはずは無い。首確認もした。」

朧女「私たちが殺したと思っていた男は、顔の良く似た義弟だそうよ。」

栗原「裏切り者に私たち呼ばわりされる筋合いはない。林。盗聴など気にしないで良い。電話で情報を収集してこい。」

林「はっ。」

栗原「あの男はどこにいた。」

朧女「女中部屋の押し入れの中に潜んでおりました。」

栗原「仮に、本当に岡田だったとしよう。何故逃がした。」

(脚を引きずりながら、律俊が来る。)

律俊「朧女、何故、何故裏切った。」

朧女「(律俊に向かって)貴方は嘘をついた。誰も殺さないと言ったのに、嘘をついた。」

律俊「あれは、そうしないとお前が殺されていた。」

朧女「いいえ、違う。貴方方は、はじめから人を殺すつもりだった。最初から、私を騙すつもりだったのよ。」

律俊「確かに俺はお前を騙した。しかし、朧女も嘘をついている。お前もはじめから我々が人を殺さないとは思っていなかった。ちがうか。」

朧女「ええ、血が流れると思っていたわ。」律俊「それなら何故ついて来た。」

朧女「・・・律俊を愛していたから。」

栗原「ははは。なら、愛した律俊を裏切り、岡田を助けたのは何故だ。」

朧女「あの人が助けを求めて来たからよ。少し話をしましょうか。ずっと長い事、律俊にも秘密にしてきた私の正体。」

栗原「そうか、奇術師。(拳銃を構える)お前はやはり政府のスパイだろう。え、どうやって永田に取り入った。」

朧女「ねえ、中尉、さっきから歌が聞こえて来ているのに気がつきました。ほら。」

海烏「赤目の赤子や赤人魚

   いいえ人魚じゃありゃしません

   無様な深紅の鱗だけ

   足に蔓延るお人形

   一度霞で人狩れば

   たちまちおみあしゃくっついて

   おかしや人魚にうみかわり

   おかしや鴨女と海帰り

   努々忘れる事なかれ

   (消え入りそうな声で繰り返す)」

朧女「私は人魚の子。この脚の鱗には、決して消えない呪いがある。」

栗原「何も聞こえん。戯れ言は終わりだ。」

栗原、引き金を引く。朧女倒れる。霞がはれると、人魚の姿になった朧女がいる。兵士達、ざわめく。

栗原「何だ。その格好は。」

朧女「この通りよ。私は人魚だった母親から、この幻を呼ぶ霞の力を授かった。母はこの力を使い、たくさんの人間を食べたんですって。でも、人間を愛してしまって、私を宿してしまった。だから海にいられなくなって仲間たちを裏切り、陸に上がったの。その時に私は呪いを受けた。そんなに人間を愛しているなら行くが良い。ただし、生まれてくる子は人間でも人魚でも無い不完全な子。そして、もしその子が、霞の力で人間を狩る事があれば、たちまち人魚になり、海に戻ると。」

栗原「どうせ、その脚も我々を欺く奇術だろう。いい加減、術を解け。夢は終わりだ。」

朧女「いいえ、もう夢は醒めています。さっきまでの私こそが幻。あの男が殺された瞬間から、もう私は人魚の姿になっていた。だけど、まだ終わっていなかったから、人魚の姿になるわけにはいかなかったの。海に連れ戻されてしまう。」

律俊「朧女。どうしてこの事を言わなかった。知っていたら・・・。」

朧女「きっと信じないわ。もし、信じたとしても、そうしたら、貴方は決して私を連れてこなかった。字の読めない私には、国を覆すなんて、よくわからなかったけれど、バーに集まってくる、娼婦や、安いお金で働くおじさん達や、哀しい人たちが救えると思ったから作戦に参加したの。でも、途中で気がついた。その先で誰かが救われても、貴方は戻らないつもりだって。哀しい人たちを助けたいと言った事は本当。それよりも、それよりも、貴方を死なせたくなかったの。貴方が嘘をついていたとしても、私が人魚になってしまうとしても、律俊が生きられるなら、私の先の事はどうでも良かった。だから・・・。」

律俊「お前を犠牲にして生きろと?」

栗原「解せない。人魚だと、そんな馬鹿げた話があるか。この霞だって、何かの奇術だろう。まあ、その事は今はいい。貴様が永田を助けたかったのはわかった。ならばどうして岡田を逃がし、永田を窮地に立たせた。」

朧女「(少しの間を置いて)撃たれて、血まみれで苦しむ男が最後に言ったの。私が死んでも何も変わらないぞって。私、気を失わなければ、きっと手当したわ。だって、苦しんでいるんですもの。わかる?私の目の前で苦しんでいるのよ。だから、女中部屋にいた男を見つけたとき、迷わず助けようと思った。」

栗原「そのせいで、永田が苦しんでもか。」

朧女「そうしたら律俊を助ける。」

栗原「矛盾だらけだ。全員を救おうというのか。この世界の全員を。そんなのは不可能だ。何かの犠牲無くしての幸福はない。」

朧女「そうよ。知っているわ。不可能よ。矛盾だらけ。矛盾だらけよ。私の中にはね、血の海があるの。母が裏切った為に老いを受け入れた人魚たちの、私を育てる為に自分を売った母の、そして私の愛の為に死んだあの男の血。今その血が私を立たせている。思い出すたび苦しくて、消そうすれば、溺れそうになる。だから決めたの、目の前で溺れていく人を助けて、海を大きくしないようにしようって。貴方も目を覚まして。国ごと助けようなんて無理なのよ。阿呆の私でもわかるわ。政府の偉い人を一人殺した所で何も変わらない。誰も救われなんかしない。哀しみが続いていくだけ。つなげばつなぐ程重くなる鎖のように。貴方も、皆も沈んでいく、溺れていくだけよ。だから、私は手に取れる現実を救う。さあ、皆で帰りましょう。幻はおわりよ。」

(栗原、もう一度発砲する。朧女叫び、更に倒れる。林、栗原の元に戻ってくる。)

林「栗原中尉。女の話は本当でした。政府の速報によると、岡田首相は生きていて、死んだのは義弟の松生予備役大佐だと。」

栗原「そうか。さあ、奇術師、早くその奇術を解け。子供だましを終わらせろ。」

朧女「どうして、どうして目の前の真実を見ないの。」

律俊「栗原。皆も聞いてくれ。自分にもすべきことがわかった。目の前の人を幸せにすることだ。(朧女に駆け寄り、抱き寄せて血を手で拭う)朧女、結婚しよう。今すぐ。」

栗原「永田、貴様も気が狂ったのか。」

永田「栗原。岡田を逃がしたのは俺の責任だ。後で全てを果たす。」

朧女「私と結婚するの。私は貴方を裏切ったのに。それに、人間じゃないのよ。」

律俊「朧女、さっきは裏切られたとおもったよ。けれど、話を聞いていてわかった。お前は欲張りすぎただけだ。だれもが幸せになる事なんて出来ないのに。それに抗おうともがいて、溺れそうになっている。愛しているよ、朧女。君が何者でも。さあ、俺に手を貸して、その海を分けてくれ。いや、違う。俺の中にも海がある。踏み越えていったたくさんの血が。さあ、共に泳ごう。」

朧女「あふれそうな赤。この海も、ふたりなら、ふたりなら!」

栗原「お前ら、何ぼんやり見ている。この狂った二人を捕まえろ。」

 銃を構えた兵士たちの、様子がおかしい。皆口々に歌を歌いはじめ、部屋にあるもので婚礼の準備を始める。バーの常連達も入ってくる。

兵士「一つ一夜の秘め事に

   二つ二人の罪人が

   三つその身を血に染めた

   四つこの世の果てまでも

   いつつ一緒に生きよとは

   六つ空しき願いねと

   ななつ涙も流れずに

   八つ破れた約束は

   ここのつ今宵の婚礼が

   永久に結びし綱とする

   (全編三度繰り返し)。」

 歌の中、朧女と永田は祝言を挙げる。栗原、兵士たちの間で彷徨。兵士の一人がレコードを見つけ、ジャズの音楽をかける。

栗原「貴様ら、目を醒ませ。早くとめろ。とめろ。どうした林、倉友。こら、三沢、銃を還せ。その音楽をとめろ。目を覚ませ。」

律俊「ダンスナンバーだ。朧女、踊ろう。」

朧女「律俊。無理よ。この脚じゃあ、上手に踊れないわ。それに律俊、貴方も怪我をしているじゃない。」

律俊「それは困ったな。そうだ。海へ行こう。海なら、きっと自由に踊れる。」

朧女「嬉しい。私、一度も海に行った事が無かったの。ねえ、海はとっても青いんでしょう。でも、律俊、その傷は水にうんとしみるわよ。」

 霞が濃くなる。朧女と永田、霞と共に消えていく。栗原、廊下に座り込み、兵士達も消えていく。一発の銃声がなる。一瞬で幻は消え、栗原は目を覚ます。

栗原「何だ。今の銃声は。」

林「中尉。あの遺体が、実は岡田ではないとの連絡が入っています。」

栗原「林、盗聴など気にしなくてよい。電話で確認しろ。」

林「はっ。」

栗原「林。貴様、さっきも確認しなかったか。」

林「いえ。この件をお伝えするのは初めてですが。」

(栗原、開いていた玄関のドアを閉める。)

林「やはりそうです。殺されたのは松尾予備役大佐で、岡田は逃亡に成功したそうです。そして、(泣きながら)陛下が、天皇陛下が、我々を成敗すると宣ったそうです。」

栗原「そうか。何故だろう。この事を知っていた気がする。」

 兵士が一人入って来て、林に耳打ちする。

栗原「今度は何だ。」

林「首相逃亡の責任をとって、永田が自決しました。今の銃声がその音です。」

栗原「そうか。すぐに行く。」

(栗原、部屋にかかっていたジャズを止める。)

栗原「これもひとときの幻か。だれだ、こんな音楽を流したのは。」

(栗原、林の後についていく。暗転。海烏たちの歌が聞こえてくる。)


海烏「降る雪粉雪赤い雪

   触れれば溶ける淡雪に

   末路は露と消え果てて

   夢もはかなく消え果てて

   若人どもに降ったのは

   葉月なまりの雨あられ

 

 

   赤目の赤子や赤人魚

   いいえ人魚じゃありゃしません

   無様な深紅の鱗だけ

   足に蔓延るお人形

   一度霞で人狩れば

   たちまちおみあしゃくっついて

   おかしや人魚にうみかわり

   いとしきあなたと海帰り」    幕





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[一言] 気になったのですが、 貴方には子供はいますか? いるとしたら何歳ぐらいの?
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