後悔のない人生を
(マイルドな香りの中に時折感じるフレッシュな味わい、それにすっきりとした渋み。クセのない味わいから推察するに、この紅茶はビクトア湖周辺のソティック地方で採れた新物の茶葉ね。美味しいわ)
オルタンシアは心の中で頷いて、紅茶を淹れてくれた侍女へふわりと微笑む。
王太子の背後に控えていた侍女はオルタンシアからの視線を受けると、少しだけ口角を上げ目を伏せた。
ここは紅茶の品評会会場……ではない。
オルタンシアも紅茶の専門家ではない。
それにも関わらず、オルタンシアはここでお茶を供される度、心の中で独り品評会をして侍女へ労うように視線を送るのが常となっていた。
何も直接口にすればいいではないかと思うだろうが、それは無理なのである。
何故なら、オルタンシアは王太子主催のお茶会に参加している真っ最中だからだ。
王太子を無視して侍女へ話しかけることはできない。話しかけられた侍女だって困ってしまうだろう。
だからオルタンシアはいつも視線だけで感謝の意を伝えていた。
今も王太子を中心に候補者達が話に花を咲かせている。
王太子から一番離れた席に座るオルタンシア一人を除いて。
一応オルタンシアも婚約者候補の一人なのだが、お茶会でも夜会でも、いつもただ黙って時が過ぎるのを待っていた。
お茶会でのオルタンシアの楽しみといえば、侍女が淹れてくれる美味しい紅茶と珍しいお菓子だけである。
原因は王太子であるアーサーのオルタンシアへの態度だ。
キラキラと輝く金髪と鳶色の瞳をしたアーサーは、容姿端麗なだけではなく誰に対しても柔和に接する優しい王太子として有名だ。
しかし、そのアーサーが何故かオルタンシアにだけは冷たい態度をとるのである。
他の婚約者候補の令嬢達とはにこやかに談笑するのに、オルタンシアが話しかければ露骨に顔を顰め、挨拶をしても一切目を合わせない。
お茶会や夜会の招待状はオルタンシアの分だけいつもギリギリで届き、候補者達で回り番のエスコートすら順番を飛ばされる始末。
十歳の時に婚約者候補に選ばれた時には、筆頭侯爵家の娘というのもありオルタンシアが最有力候補と言われていたが、あれから八年、今や誰の目にも彼女が最初に脱落することは明らかだった。
顔合わせでアーサーに一目ぼれをし、冷たくされても婚約者候補として懸命に努力をしてきたオルタンシアも、長年冷遇され続けては落ち込むどころか恋心も枯れはてる。
数年前から国王へ婚約者候補から外して欲しいと訴えてはいるが、他の貴族との兼ね合いがあるとか、安易に候補者は外せないとか、なんだかんだと理由を付けられ、結局候補のまま現在まで来てしまっていた。
今ではオルタンシアは、王太子に嫌われているくせに、いつまでも婚約者候補を降りない恥知らずな悪役令嬢とさえ噂される始末である。
王宮に勤める文官や侍女は、オルタンシアが何度も国王へ候補者から外してもらうよう懇願しているのを知っているし、アーサーの冷たい態度も見てきたため、彼女に同情的なことだけが救いだったが、他の婚約者候補達は嘲笑って嫌味を言うようになっていた。
「家柄だけの令嬢は、この場には相応しくありませんことよ?」
「あんなに冷たい態度をとられたら、私だったらすぐに辞退いたしますわ」
「ご自分が嫌われていることお解りになりませんの? とんだお花畑ですわね」
「アーサー様が気の毒ですから、視界に入らないでくださいましね」
当初はオルタンシアに遠慮がちだった候補者の令嬢達は、今はお茶会が始まれば我さきにとアーサーの隣を確保し、オルタンシアの席はいつも末席に追いやられている。
今日のアーサーも末席に座るオルタンシアへは目もくれず、令嬢達へ微笑んだ。
アーサーが一人だけに偏らないように満遍なく話を振るおかげで、令嬢達は皆嬉しそうに頬を染める。
そんな中、自分だけ一度も話を振られず見向きもされないことが解っているオルタンシアは、優雅な笑みを貼り付けたまま只管時間が過ぎるのを待っているしか出来なかった。
(あら、このお菓子は今隣国で流行しているものね。外務大臣が取り寄せてくれたのかしら? 一度食べてみたかったから嬉しいわ)
(このティースプーンの彩色は随分鮮やかね。染料の配合を変えたのかしら? 今度工房へ視察に行ってみましょう)
(こんな晴れた日にお茶会をするなら中庭でしてくれればいいのに。せっかく芍薬が素敵に咲いているのに見られないなんて残念だわ)
(あ~、この応接室も見飽きたわ~。招待された頃は興味深かったけれど八年も通えば、飽きもするわよね~。だって他にすることないし)
(この不毛な時間、早く終わらないかしら。不毛~、ふもー、ふんも、ふんもっ、ふんもっふん、もっふん、ん? もっふんって何かしら?)
暇を持て余し、いつものように脳内で独り言を呟いていたオルタンシアが、なんとなく思い付いた緩い単語にクスリと笑う。
思わず素で笑ってしまったことで少し焦ったが、どうせ自分のことなど侍女以外見ていないだろうと、再び紅茶を含んだところで全員の視線がこちらへ向いていることに気が付いた。
「……何を笑っている? 今の私の話のどこに面白い要素があったのだ?」
不機嫌そうに詰問してくるアーサーの眉間には盛大に皺が寄っている。
まさか話しかけられるとは思っていなかったオルタンシアは、口に含んでいた紅茶を吐き出しそうになった。
「私の質問に答えられないのか?」
鋭い視線を投げつけてくるアーサーに、淑女として口から紅茶の噴水を発射するのは何とか堪えたものの、オルタンシアは狼狽する。
だって脳内独り言に忙しくて何一つ、アーサーの話なんて聞いていなかったのだ。答えようがない。
心の中で「何で年単位で無視してたクセに、今日に限って話しかけてくるわけ?」と悪態を吐いても後の祭り。
仕方がないのでオルタンシアは扇で口元を隠し、伏目がちに謝罪した。
「申し訳ありません。少し体調が優れず、ぼうっとしておりました」
「何だと!?」
声を荒げたアーサーに周囲の令嬢達が驚いたように彼を見る。
オルタンシアも吃驚して目を見開いたが、そんな周囲の反応を他所にアーサーが焦ったように身を乗り出してきた。
「頭か? 頭が痛いのか? それとも足? 腕? どこが優れない? すぐに医者を呼んで診てもらったほうが……」
「い、いいえ。少し疲れていただけですから、今はもう問題ありません」
体調が優れないなど真っ赤な嘘なため、医者など呼ばれては堪らないとオルタンシアがアーサーの言葉を遮る。
「本当に? 本当に平気か?」
「はい、申し訳ありませんでした。それで……私に何かご質問がおありでしょうか?」
尚もしつこく訊ねてくるアーサーを躱すように、オルタンシアは話を変える。
他の婚約者候補の手前、嫌いな相手にも体調を気遣う優しい王太子を演じたいのだろうが、そうは問屋が卸さない。
アーサーの優しさなどすっかり信じられなくなっていたオルタンシアは、当て馬になどされてなるものかと、静かに王太子へ視線を向けた。
オルタンシアの視線を受けたアーサーは、いつものように瞳を逸らすと、先程までの狼狽えぶりを引っ込め、これまたいつものように冷たい声音で話し出す。
視線を逸らされるのもオルタンシアにだけ声音が冷たくなるのも、いつものことなので気にならないが、アーサーに見えないように嘲笑を向ける他の候補者達には、頭から紅茶をぶっかけたくなった。紅茶がもったいないのでやらないが。
「来月、帝国の皇太子が我が国を訪問することが決まり、その際の案内役を決めなければならなくなったのだ。知っての通り皇太子は優秀な人材を好む。案内役は宰相候補から三人と私の婚約者候補の中から一人選出となったので、誰が相応しいかと相談していた」
冷え切った声音で説明したアーサーに、オルタンシアは心の中で溜息を吐く。もう少し愛想よく話せないものかと思うが、今更なので諦める。
それよりもアーサーの話の方が重要だ。
他の四人の候補者達も嘲笑をやめ、互いに顔を見合わせつつも迷っているようだった。
その態度にオルタンシアはピンときた。
帝国は我が国より遥かに豊かで、皇太子は美男子という噂だ。しかも婚約者がいない。
候補者達は案内役から仲良くなって、あわよくば皇太子妃になんて妄想しているのだろうが、はりきって自分から立候補してアーサーに「なんだ、アイツ?」と思われるのは拙いと考えているのだろう。
そんな低俗な考えばかりしているから未だにアーサーの正式な婚約者になれないのよ、と蔑むと同時に、そんな人間に格下に見られている自分に嫌気がさして、オルタンシアは気が付けば口を開いていた。
「では、私がお引き受けいたします」
「え?」
びっくりしたようなアーサーの返事に、珍しくオルタンシアに話を振ってきた時点で、どうせ自分にやらせるつもりだったくせに白々しい、と心の中で悪態をつく。
それに他に適任者はいないだろうと、オルタンシアは候補者達を見渡した。
自慢ではないが、候補者達の中で帝国語を流暢に話せるのはオルタンシアだけだし、他国の地理や特産品だけではなく歴史やマナーに詳しいのも彼女だけである。
さらにオルタンシアの母親が帝国の伯爵家出身なのも大きい。
アーサーが冷たくするせいでバカにされてきたが、筆頭侯爵家令嬢の肩書は伊達ではないのである。
「私以外で適任者がいればお任せしますが、帝国語も満足に話せない案内役では、皇太子の不興を買うのではありませんか?」
オルタンシアの辛辣な物言いに、候補者達が悔しそうに睨んできたり、蔑んだ視線を寄越してきたが、言い返してくる者は誰もいなかった。
何故かアーサーが青褪めているが、案内役を務める間、彼にとっては嫌いなオルタンシアと顔を合わさずに済むし、オルタンシア的にもこの不毛なお茶会に参加しなくて済む上に、毎度壁の花になる夜会も欠席できてウインウインの筈だ。
「それでは、案内役の準備がございますので、これにて御前失礼いたします」
無言のままのアーサーに一礼して、オルタンシアは踵を返す。
せめて「よろしく頼む」位の言葉があってもいいのでは? と思ったがアーサーと離れられるならどうでもいいかと、スキップしたくなる気持ちでお茶会の会場を後にしたのだった。
◇◇◇
やりきる自信はあったものの、国賓に粗相があってはならないため緊張して臨んだ案内役だったが、帝国の皇太子は控えめに言ってとてもいい人だった。
皇太子の護衛達や他の案内役も優しい紳士ばかりで、緊張するオルタンシアへ気さくに話しかけてくれ、お忍びでの街歩きの時もオルタンシアの方が楽しかった位である。
国王主催の夜会ではエスコートまでしてくれ、お茶会の時には他愛ない話で和ませてくれた。
その間、何度かアーサーから体調を気遣う手紙が届いていたが、今までこんな手紙など届いたことがないオルタンシアにとって、皇太子の手前婚約者候補を気に掛けてますアピールとしか思えず、益々嫌悪が募ったため通り一遍の返事しかしていない。
それにアーサーから手紙が届いた日は、楽しい時間には限りがあるものだと現実に引き戻され、オルタンシアは沈む心を見ないふりをしてやり過ごした。
アーサーに会わなくて済むということは、他の候補者達から嫌味を言われないということでもある。
気にしないようにはしていたが、やはりストレスになっていたようで、嫌味のない毎日は清々しかった。
笑顔が増えたねと両親にも微笑まれ、オルタンシアもここ数年の鬱屈した気持ちが霧散するのを実感していたが、楽しかった日々はあっという間に過ぎてゆく。
皇太子が案内役のオルタンシア達を労い帰国してゆくと、すぐさま届いたアーサーからのお茶会の招待状に、後悔ばかりの人生を変える決意を固めた。
◇◇◇
「国王陛下、私を王太子殿下の婚約者候補から外してください」
オルタンシアは国王へ通算23回目の直談判をしていた。
「いや、それは色々とあって無理でな……そろそろ選出される故もう少し待っていてくれ。聡明なオルタンシア嬢ならば我が意を心得てくれるだろう? なにしろ筆頭侯爵家の令嬢なのだからのう」
またしてもオブラートに包んで言葉を濁してはぐらかしつつ、王家の命に逆らうなと脅しをかけてくる国王にオルタンシアはげんなりする。
しかし過去その脅しに屈し何度も引き下がったが、もう後悔しないと誓った今回ばかりは違った。
「申し訳ありませんが、私は家柄だけで婚約者候補に選出された殿下に嫌われている令嬢ですので、陛下の意など解りかねます。それに恐れながら陛下は私がどれだけ王太子殿下から嫌われているのかご存じないようですので、今回は証人を連れて参りました」
オルタンシアが合図をすると、王宮の文官や侍女がズラズラと入室してくる。
玉座に座る国王に委縮しているようだったが、オルタンシアが縋るように見つめると皆小さく頷き顔をあげた。
「この方達は王太子殿下の傍仕えでございます。この方達の証言を聞けば、きっと陛下も私が婚約者候補を外れることは仕方がないとご納得されるでしょう」
国王へそう言いきってオルタンシアは文官と侍女へ頷くと、それを皮切りに並んだ人々が口々にアーサーがオルタンシアへした冷たい仕打ちを暴露し始めた。
「王太子殿下は誰にでもお優しいですが、何故かオルタンシア様のことだけ無視されます」
「お茶会の案内はいつもオルタンシア様にだけギリギリで届けさせます。あれでは前もって準備の仕様がありません」
「そのお茶会の席でもオルタンシア様には話しかけることはなく、孤独な時間を過ごさせています」
「夜会でのエスコートもオルタンシア様だけ順番を飛ばされます。ダンスもなされずいつも壁の花となり、他の候補者達から嘲笑されておいでです」
「筆頭侯爵家のご令嬢として、他の候補者達から誹られても毅然としているオルタンシア様に対し、幾ら嫌っているとはいえ王太子殿下は冷たすぎます」
優秀で身分の低い者にも驕ることがないオルタンシアは実は王宮で人気が高い。
アーサーとのお茶会の嫌な気分を忘れるために文官の仕事を手伝ったり、侍女と他愛ない話で盛り上がったりと、オルタンシアにしてみれば気分転換にした行為だったのだが、身分の低い彼らにしてみれば女神のように思えたらしかった。
だから今回、帝国の皇太子が帰国する日が近づくにつれ元気がなくなってゆくオルタンシアを心配して、自分達が国王へ証言することで彼女が自由になれるならばと引き受けてくれたのである。
一方、文官と侍女の証言に国王は開いた口が塞がらなかった。
国王が息子であるアーサーから聞いていた話と全く違っていたからだ。
「私はオルタンシアが好きです。彼女以外とは結婚しません」
八年前にアーサーがそう宣言したから、オルタンシアは婚約者候補に選ばれたのだ。
だが彼女は筆頭侯爵家出身のため、権力に偏りができると他の貴族が難色を示した。
そこで、他の候補者達と数年を共に過ごし、それでもまだアーサーの気持ちがオルタンシアだけにあるのならば正式に婚約者として認めよう、ということになった結果、他の四人が選出されたに過ぎない。
それに他の候補者達もいるが、アーサーはオルタンシアと過ごした後はすこぶる機嫌がいいことも、国王は知っていた。
それなのに何故、当の本人ばかりか文官や侍女までも、アーサーがオルタンシアを嫌っていると誤解しているのか、全く理解ができない。
「その話は真なのか……?」
嘘だろう? という気持ちを込めて尋ねた国王に、オルタンシアも文官も侍女も力いっぱい頷き返す。
「まさか……そんなわけが……」
信じられないとばかりに瞳を彷徨わせ始めた国王が唖然とする中、玉座の間にバーンと扉を開く音が響いた。
「オルタンシア!」
扉を開けたアーサーの冷たく強張った声音に、オルタンシアがビクリと肩を震わせる。
「茶会へ来いと言ったのに、何故こんな所にいる!?」
玉座の間をこんな所呼ばわりしたアーサーに国王が眉間の皺を深くするが、それよりも今の息子の横柄な態度と冷たい声音、それにオルタンシアの怯える態度で、国王は文官と侍女の訴えが正しかったことを知った。
そんな国王には目もくれず、アーサーはツカツカとオルタンシアの前までやってくると、冷酷な眼差しで睨みつける。
「さっさと来い。それと私の許可なく父上に会うのは禁じたはずだ」
実は前回22回目に国王へ直談判した時に、アーサーにばれたのだ。
結果は言わずもがなであるが、その後、普段ほとんど話しかけないアーサーが、クドクドと30分以上説教をたれたのには辟易した。
しかし黙って説教を聞きはしたが、オルタンシアはアーサーの言い分を承諾した覚えはない。
「敬愛する国王陛下へお会いするのに王太子殿下の許可は必要ないかと。それとお茶会を欠席する旨は事前にご連絡しましたわ。王太子殿下こそ婚約者候補達とのお茶会を抜け出されるのは問題があるのではないですか?」
いつもは黙って聞いているオルタンシアが反論したことで、アーサーは驚いて口籠る。
反撃の暇を与えないためにオルタンシアはここぞとばかりに畳みかけた。
「ああ、そういえば、お茶会の招待状が届いたのが開始1時間前ですもの、私からの欠席の連絡がまだお手元にないのは仕方がないことですわよね? 招待状を当日の寸前に寄越すだなんて王族の皆様は大変お忙しいのですね。あら? ですが他の候補者達は数日前に貰っていると伺ったことがありますわ。皆さん、王太子殿下との夜会のエスコートやダンスのこと、それにお茶会での甘い会話等、それはそれは事細かに教えてくださるので、私が如何に殿下に蔑ろにされているのか、よく弁えておりますのよ」
皮肉を込めて国王を見上げたオルタンシアに、玉座の主が項垂れる。
突き付けられた真実に、アーサーは今だってオルタンシアが好きで好きで仕方がないはずなのに一体何をやってるんだ、と国王は頭を抱えた。
「ですから国王陛下へ私を婚約者候補から外してくださるようにお願いしていたのですわ。こんなに嫌われているのですもの。勿論了承してくださいますわよね? 陛下」
目の前に立つアーサーを完璧に無視し国王を見据えたオルタンシアの瞳は、否やを言わせぬ迫力があった。
今までは息子のために、何か行き違いがあるのだろうとのらりくらりと躱してきたが、ここで了承しなければ国外にでも逃亡しそうな決意のオルタンシアに、そこまで思いつめさせてしまったことを申し訳なく思い国王が力なく頷いた時、か細い声が聞こえた。
「やだ……嫌だよ、オルタンシア……」
強気だった態度から一転、蚊の鳴くような悲痛な声をあげたアーサーが、両目からハラハラと涙を流してオルタンシアへ手を伸ばす。
「何で私から離れていくの? そんなの無理だよ。オルタンシアがいなくなるなんて耐えられない」
泣きながら訴えるアーサーが尚も悲し気に訴え、イヤイヤというように首を振り続ける。
「オルタンシアと結婚できないなんて嫌だ! オルタンシアと結婚できないなら誰とも結婚しない!」
髪を振り乱し駄々っ子のような言い分をし出したアーサーに、見かねた国王が窘めに入る。
「不甲斐ない息子よ、今更それをオルタンシアに伝えても遅いのだ。どうしてその気持ちをもっと前に言わなかったのだ……」
「嫌だ! 遅くない! オルタンシアは私と結婚するんだ!」
国王に諭されても子供のように泣き喚くアーサーにオルタンシアは一つ溜息を吐くと、王太子の前に進み出た。
「殿下」
「オルタンシア」
伸ばした手は届かないまでも、近くまでやってきたオルタンシアにアーサーがパッと顔をあげる。
その顔を見つめながらオルタンシアは静かに語りかけた。
「私、殿下のことが好きでした」
「うん。私もオルタンシアが好きだよ」
「冷たくされて悲しかったです」
「ごめんね。君があんまり綺麗だから素直になれなくて」
「エスコートもダンスもされず、情けなくてこっそり泣きました」
「ごめん。スマートにできないと恰好悪いと思って他の候補者で練習してた」
「お茶会の案内も直前まで来なくて落ち込みました」
「ごめん、ごめんね。オルタンシアに送る招待状だから気合を入れようと文面を考える間に、直前になっちゃったんだ」
「他の候補者達から嘲笑を受けた時も悔しかったです」
「嘲笑されてたなんて知らなかった。知ってたら候補者から外してた。ううん、本当はオルタンシア以外の候補者なんて必要なかったんだ」
オルタンシアの言葉に必死で応えるアーサーに、以前のような冷たさは微塵もない。
捨てられると気づいてやっと反省し素直になったのかと、国王が見つめ合う二人を眺めて安堵の溜息を吐こうとした瞬間、冷ややかな声が玉座に響いた。
「だから許せと? バカにするのも大概にして欲しいですわね」
ケンカした恋人が仲直りをするような甘い空気から一転、汚物を見るような眼差しを向けたオルタンシアにアーサーはあんぐりと口を開け、国王は両目をこれでもかと見開く。
「何です? 泣き落としで絆されると思ったんですの? 八年もの間私が受けた心の傷が、そんな安い涙で無かったことに出来るとでも? 片腹痛いったらないですわね。好きな人に素直になれないクソガ、おほん、子供みたいな王太子なんてこちらから願い下げですわ。理由を伺って益々嫌悪が募りましたので、絶対に婚約も結婚も嫌でございます。私は今日こそ後悔ばかりの人生に終止符を打ちますわ」
心底バカにしたように言い放つオルタンシアにアーサーの涙は引っ込み、信じられないとばかりに呆然と呟いた。
「な、なんでだ? 普通この流れなら元鞘に収まるだろう……?」
アーサーの呟きにオルタンシアが「けっ!」とでも言いだしそうな表情になる。
そんなオルタンシアの侮蔑の籠った視線に耐えられなくなったアーサーは、話の矛先を転じて喚き散らした。
「そ、そんなことを言って、どうせ帝国の皇太子と浮気してたんじゃないのか!? 随分と仲がいいって報告があがってきてたものな!」
「はぁ?」
「だから皇太子の案内役なんてさせたくなかったんだ! オルタンシアの浮気者!」
先程から随分不敬な物言いをしている自覚はあったが、思わず出てしまったはしたない返事にオルタンシアも内心拙いと思ったが、頭が沸騰したアーサーは気がつかなかったようである。
バカな王太子で良かったと思いながら一瞬だけニコリと微笑んだオルタンシアは、アーサーが過去自分へ向けていた視線よりも冷たい瞳で反論した。
「確かに皇太子殿下の案内役が楽しかったことは事実です。けれど、そもそも婚約者候補達から選ぶと言いながら、実質案内役を私に決めていらしたのは殿下ですわよね? お茶会で初めて私に話しかけてきた位ですもの」
「それはオルタンシアが優秀だったから仕方なく……」
その優秀だという自分を八年もの間くだらない理由で蔑ろにしてきたくせに、という言葉を呑み込んで、オルタンシアは冷たく突き放す。
「ともかく私は陛下から殿下の婚約者候補を外れることを了承して頂いたので、これにて失礼いたします」
ただでさえ今まで冷遇されてきた下らない理由を聞いて脱力しかけているのに、これ以上不毛なやり取りで神経を削られるのはご免である。
そう思って早々に切り上げようとしたオルタンシアに、アーサーが負け惜しみのような科白を吐き出した。
「私は再婚約を諦めない! オルタンシアを帝国へなどやる気はないからな! お前は一生この国で過ごすこと! これは王太子命令だ! お前を迎えに帝国の使者が来ても全て追い払ってやる!」
「左様ですか」
実際に帝国から使者が来たら国力からいって追い返せるわけもないのだが、まるで興味がないと言わんばかりのオルタンシアは、毅然とした姿勢を崩さない。
ドレスを翻し、アーサーが開け放ったままだった扉の前まで来ると、優雅にカーテシーを決め、文官と侍女を引き連れ去っていった。
強気な発言をしたものの後に残されたアーサーは、カツカツと踵を鳴らして退出してゆくオルタンシアの後ろ姿を縋るように見つめながら、帝国との国境付近の警備を強化し、自身もまた哨戒に赴くことを誓う。
その前に婚約者候補達がオルタンシアを虐めていたことを公表し、全員放逐処分とすることも忘れなかった。
筆頭侯爵家の令嬢を蔑ろにしていた候補者達は、身の程を知らない愚か者として、生涯嫁ぐ相手が見つからないまま寂しく人生を終えた。
今更ではあるが、オルタンシアを虐めた候補者達を成敗したアーサーは、意気揚々と彼女を失う脅威を除くため国境の哨戒にあたる。
しかしアーサーが心配した帝国からの使者は来ず、皇太子がお忍びでやってきてオルタンシアを攫ってゆく、なんてこともないまま半年が過ぎていった。
杞憂だったのかとアーサーが安堵し、きっとオルタンシアのつれない態度も他の婚約者候補達に嫉妬して拗ねたのだろうと結論づけた。
そう考えると居ても立っても居られない。
オルタンシアへしこたまお土産を買いこみ、再婚約のために王都へ戻ると、盛大な結婚式に遭遇する。
自分も早くオルタンシアと……そう考えたアーサーの瞳に飛び込んできたのは、見間違うはずもない愛しい人が、花嫁姿で知らない男と口づけを交わす様子だった。
「なんでだーーーーーーー!!!!!?????」
絶叫したアーサーがドサリと落とした荷物からは、辺境名物モフ鳥のしゃべる巨大ぬいぐるみがモッフンモッフンと虚しく鳴きだし、参列者から白い目で見られた。
すぐにアーサーとぬいぐるみは騎士団に回収されたが、落ちた時の衝撃で壊れたのか動力が切れるまでモッフンモッフンと鳴き続けるぬいぐるみは「不毛、不毛」とアーサーに言っているようで、王宮の文官と侍女の失笑を買った。
実はオルタンシアが仲良くなったのは帝国の皇太子ではなく、自国の案内役の一人だったのである。
オルタンシアは最初から身分の違う帝国の皇太子など眼中になかったのだ。
皇太子の方も自らの地位を盤石にする結婚相手を吟味しており、格下の国の侯爵令嬢を娶る気など、露ほども考えていなかった。
「泣き落としが通用すると思っているとか、帝国の皇太子と恋仲になるとか、殿下の普通にはついていけませんわ」
フラワーシャワーを浴びながら教会から出てきた所で、アーサーを見かけたオルタンシアはすかさず新郎へキスをすると、絶叫した後ショックのためか失神してしまった彼へ薄く笑った。
アーサーが見当違いな誤解をしたことは知っていたが、心底彼を嫌っていたオルタンシアは、王太子が帝国を警戒して王都からいなくなるなら丁度いいと考えたので、放置したに過ぎない。
読み通り王都からいなくなったアーサーにほくそ笑み、これ幸いと案内役で親しくなった令息へ猛アプローチをして、怒涛の早さで結婚を決めたのだ。
全てはもう二度と後悔しないために。
一方、全ては自分の勘違いだったと気づいたアーサーは、オルタンシアの夫へ嫌がらせを繰り返したが、私情に走る王太子を見かねた国王が廃嫡を決めた。
帝国の皇太子の案内役を務めただけあってオルタンシアの夫も大変優秀な人材であり、それがつまらぬ嫉妬で潰されるのは国の損害だと英断した国王は、子育ては大いに間違えたが為政者としての職務は忘れなかったようである。
その後、案内役を気に入っていた帝国の皇太子の介入もあり、王家の血を引く公爵家から新たに王太子が任命され、アーサーは暫く荒れた。
蟄居させられた塀の中で思い出すのは、幼い頃から大好きだったオルタンシア。
しかしどんなに望んでも瞼に浮かんでくるのは、一緒にいた時の無表情な顔と、違う男と幸せそうに口づけする両極端の顔ばかり。
今になって漸く自分がオルタンシアに酷い仕打ちをしてきたのだと思い知ったアーサーだったが時既に遅し、後悔ばかりの人生を死ぬまで送ることとなった。
ヒーローが登場しないどころか名前さえ出てこないという……。
ご高覧くださり、ありがとうございました。