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屑鉄の騎士と赤錆姫  作者: パール
屑鉄の結び目(上)
4/9

のっとリセット、ばっとコンティニュー

 「まずは、朝食前に俺の時間を奪った分だ。どうやら面白い商談があると聞いたが、俺はお前の面を見るだけで吐き気がする。食事が不味くなるのは頂けないなぁ。だから、これから5分ごとにお前に一発入れる。くたばる前に精々見苦しく鳴いてみることだな」


 兄様の強烈な一撃に悶絶していると、さらに次の打撃が加えられた。

 いくら兄様とはいえ、「交渉」にまで私情を挟むものだと思ってもいなかった。そこを信じた僕が甘かった。もちろん完全に対等に話せるとは考えてもいなかったが、せめて話す機会くらいは与えてくれるものだと思っていた。

 だが、兄様の打撃は確実に僕の腹を衝き、呼吸をする隙すら与えない。ついでに、歯が折れた影響で歯の隙間から空気が漏れて、上手く言葉にできない。痛みはあったが、それ以上の覚悟が僕にはある。

 近くに立っていた秘書は特に何か言うでもなく、表情も変えずに何かを手帳に書き込んでいた。干渉する気はないらしい。だけど、むしろ今はそちらのほうが都合がいい。これから話すことは、柳ケ瀬の利権を考えれば応じないほうが妥当なことなのだ。下手に口を出されて兄の心情が変化しても困る。


 「ふ、ぅ、あ……」


 「ん?どうした?聞こえないなぁ?」


 僕はどうにか言葉を作ろうとしたが、空気がこぼれるだけであった。兄様はニタニタと下品な笑いを浮かべながら僕を見下ろす。もしかしたら最初から交渉する気などなかったのかもしれない。僕をここへ案内させたのも、ただ殴りたかっただけなのかもしれない。

 だけど、僕はここで負けるわけにはいかない。今回僕が持ってきた「ネタ」は確実に兄様の意識に触れるものだと確信している。むしろこれで無理ならば他に打つ手はない。メルのためにも、僕がここで頑張らなければいけないのだ。


 「ぐ、ん……。お優し、い、お兄様。お話が、ございます」


 「ほう……。まだ鳴けたか」


 兄様は先ほどの下品な笑いをひっこめると、興味深い目で僕を見つめている。握りこぶしを自分の頬に当てがって、思案する様子を見せた。

 どうやら、少しは聞く気になってくれたみたいだ。この機を逃すわけにはいかない。


 「この、度は、例の白髪の、プレイヤーの少女、の柳ケ瀬家から、の、開放を求めに、やってまいりました」


 「それで、お前は俺に何ができるというんだ。才能もないお前が、一体何で俺に貢献しようというんだ」


 兄は心底滑稽だと言わんばかりに腹を抱えて大笑いする。だが、まだ僕の話に、というより僕がどれだけ惨めな提案をするのか気になったようで、それ以上のことをする様子はなかった。


 「僕を、代わりに柳ケ瀬の、プレイヤーとして、起用して、ください。最低限の訓練は、受けております。すぐにでも、実戦に、立てるでしょう。もし、邪魔であれば、他家にでも送って下さっても、かまいません。他家からの評判を上げるための、戦略的な素材にもなりえます。あと、NABの実験には、僕が、参加します。例え無限の苦しみを味わおうとも、僕が、引き受けます。兄様が望むなら、喜んで豚のように、鳴いて見せましょう。だから、彼女には、手を出さないでくだ、さい。これらすべてを、提供させて頂くために。プレイヤーとして、ゲームに参加するために、僕が、上級民である権利を、放棄する覚悟があり、ます。僕が直に両親に、話を付けて、柳ケ瀬の本家の籍から、外してくださるよう、御願い申し上げる、つもりです」


 「ほう……。面白い」


 兄は鋭い目つきになると、この話の妥当性を模索し始めた。


 「お前がプレイヤーになったとしても柳ケ瀬で飼ってやるつもりはない。俺はお前の面を見たくないからな。だが、そうだな……。柳ケ瀬エレクトロニクスの商売敵であるローレンツ家に恩を売っておきたいとは思っていた。奴らはプレイヤーを飼えない程に貧弱だが、それでも柳ケ瀬の利益を奪っていることに変わりない。我々の進出予定地域からの撤退を条件とし、お前を売るのも悪くはない。奴らは長い間プレイヤーを欲しがっている。俺が声を書ければすぐにでも承諾するはずだ。しかも、お前がNABの実験に参加するなら自動的にお前にはNABの機能が付く。付加価値も十分。さらに、ゲームや実験でお前が死にもだえ苦しむ様を何度でも見れるわけだ。悪くない」


 「だが、あのドブネズミを話してやる気なんかさらさらない。せっかく面白い駒が手に入ったんだ。奴にはNABも付いている。信用できないどこぞの誰かにでも調べられたら技術が漏れてしまう。それにお前にそんなものを主張できる立場がないことは覚えておけ」


 「しかしながら、僕が、両親に御願いしなければ、僕を離そうともしないでしょう。何よりもあの人らは僕が世間の目を浴びることを恐れている。だから、両親を説得するためにも、柳ケ瀬との縁を切る必要が、あります。そのためには、僕の改名や戸籍の変更をする必要があります。僕はまだ、上級民である以上、それらの手続きには僕の承諾が、必要です。もちろん、僕が下級民としての戸籍を、受け取るときも同様です。僕が下級民でないにもかかわらず、ゲームや人体実験に参加させれば、兄様が世間から冷たい目で見られることは必然でしょう。そのため、兄様は僕の要求を、飲む必要があります。もちろん、彼女が開放されたことが確認できなければ、僕はこの交渉に応じることはありません。」


 「……」


 兄様は憎らしそうに僕を見る。この交渉を天秤に賭けたという合図だ。しかしながらそれほどまでに、僕が柳ケ瀬の籍から抜けるということが、兄様にとって重要なことであることがわかる。僕に残された交渉材料はこれしかなかった。でも、これがもっとも強力なことはわかっていた。だから、いざというときまで温めておいたのだ。

 当時の僕にだって、柳ケ瀬の籍を捨てることがどんなに馬鹿な選択かは分かっていた。上級民でなくなるということは、この世界では死と同義になる。だから、何度兄に脅迫されても、これだけは譲ることは無かった。


 「……わかった。お前の要求を飲もう。お前がここにいるだけで俺の評判は下がる。可愛そうな弟を持った兄とな。俺はお前と違って努力で、ここまで来たにもかかわらず、ただお前がいるだけで、俺は見下される。お前は唯一の俺の汚点そのものだ。早く消し去りたい」


 兄様が僕の前で「わかった」なんていうのは初めてのことだった。それに、兄様のことだからもう少し条件を付けてくるものだと思っていた。だから、僕の臓器や他のものも売る覚悟があった。もっと過酷な実験の材料にでもなってもよかった。だけど、死ぬわけにもいかなかった。だからどこまで材料を並べられるか迷っていたところだったのに、いかにも拍子抜けだった。


 「ここにあるのは何だと思う。プレイヤーの所有証明書だ。これをデスバトルマッチの取引委員会に返納すればあのドブネズミは少なくとも柳ケ瀬の所有物ではなくなる。だが、そのままマーケットに流れてNABの技術が漏洩するのも避けたい。だから、俺が推薦して奴に上級民の籍を与えよう。そうすれば下手に手を出せなくなり、少なくとも他者に情報が漏れることもなくなる。それに、俺が再び買い戻すこともできなくなる。お前にとっても好条件だろう」


 ……いまなんて兄様は、なんて言った?

 ……何かがおかしい。僕はこのまま、契約を完了しても、大丈夫なのだろうか。だけど、メルが上級民になれば、メルが、これ以上傷つけられることもなくなる。手が出せなくなるというのは兄も同条件だ。

 僕は兄様の顔を見上げる、先ほどの痛みのせいでまだ立ち上がることはできないが、首を動かすことはできるようになっていた。交渉では相手の視線も重要な要素だ。もちろんあまり信用できる要素でもないが、それでも今はそれに縋りたかった。

 兄様はただいつもの冷たい視線を向けていた。ネガティブでも、ポジティブでもない。彼の感情はほとんど無に近い。

 

 これはなんだ、どういう意図をしてる。

 

 考えれば考えるほどメビウスの回廊に嵌っていく。だが、そうしている間にも兄の次の一撃が胸のあたりを蹴飛ばす。五分たった合図だ。こうしている間にも、兄の考えていることは変わるかもしれない。

 僕には早く決断する必要があった。


 「ふむ、俺の言葉が信じられないというなら証明して見せよう。……お前、そこのお前」


 部屋の隅にいた秘書に声がかけられる。秘書はやや肩を跳ね上げると、手帳を仕舞い兄に近寄った。


 「どのようなご用件でしょうか。ご主人様」


 「先ほどまでの会話は聞いていたな?もちろん記録しているのだろう?交渉中の基本だ」


 「はい、一言一句違わず記録しております」


 その手に掲げられているのは、ペン型の盗聴器だろうか。


 「よろしい。なら、この契約が成立した場合に俺が契約を守らなければ、俺を告訴するがいい。いや、むしろやれ。こいつが下級民になったら俺を訴えることはできないし、証拠も提出できないだろうからな。だからお前がやれ。そのペンのデータは柳ケ瀬のデータセンターにも保管しておけ、さらにもし万が一のことがあればカテゴリー6以上の幹部にはアクセス権を与え自由に聞けるようにしろ。もし俺に契約を守らないという隙が生まれれば、俺の座を奪おうと躍起になってくれるだろう。もちろん一般の社員にも公開しなければフェアではないだろう。……だが俺の言葉には少々過激な部分がある。それを聞かれるのはあまりよろしくない。当面の間は公式記録として契約書の書面のデータを一般に公開しろ。契約書そのものは本物だ。もし俺が契約を破れば会社全体からの信用が危なくなるだろう。そんなリスクを冒してまで契約を破るつもりはない」


 「え……」


 秘書の人も困惑を隠しきれずにいた。先ほどまでせわしなく動いていたペン先が止まっている。兄がこんなことをいうことなんて、ないのだろう。


 「口答えなど無用。俺がやれと言っているんだ。なんの問題がある。すぐにでもそのデータをアップしろ、俺のPCを貸してやる。ついでに契約書も準備し印刷しろ」


 「は、はい。畏まりました……!」


 秘書の人は兄のにらみつけるような鋭い視線に押されるように兄のデスクで作業を始めた。後の部屋にはキーを打つときのカタカタという音だけが残る。僕も何か言わなければいけないと、そう考えていた。だけど口は思うように動かない。あまりにも急な展開で、どうしていいのか分からなかった。

 兄様の会社を巻き込んでまで、そして、何よりもあの秘書の慌て方からしてただ事ではないのは一目でわかる。しかも、秘書にもこのことは伝えられていなかった?

 まさか……本当に、兄様は……。

 だが、この静寂を破るより、秘書の仕事のほうが早かった。プリンターが唸る音が聞こえた直後、


 「す、全てのタスクを完了、致しました。ご確認ください」


 秘書はその手に一枚のプリントを手にし、恭しく兄様の手に渡した。

  

 「ふむ、問題ない。例の音声ファイルはアップロードしたのか」


 「は、はい。こちらを……」


 秘書が持ってきたノートパソコンを兄様が一瞥すると、僕の目の前に突き出し、画面を見るように促した。


 「陽人。確認しろ」


 兄様が僕の名前を言うのは何年ぶりだろうか。その言葉は不思議と僕の心にしみわたり、懐かしさがこみ上げてきた。

 体の痛みも引いてきた。多少なりとも働くようになった頭で画面を確認する。兄様の言う通り、兄様の音声ファイルは柳ケ瀬の共有サーバーに保管され、ファイル自体も一部の幹部には全ての権限が与えられていた。


 「……」


 「黙秘はyesととる。では契約書を確認し、もしこの内容でよければサインと拇印をこの欄にしてくれ」


 僕の決意は兄様の予想外の行動で完全に乱されていた。混濁、混沌。

 もはや僕の判断力は麻痺していた。ただ、一つだけわかるのは僕がこの契約に応じればメルが上級民になることができるということだ。兄様の様子を見るに契約内容を変えるということも無いようだ。

 この国では上級民という立場には絶対的な権利が与えられる。他のあらゆるものであっても、その権利を奪うことは重罪となる。つまり、上級民にさえなることができれば、ありとあらゆる不条理に権利を侵害されることは、なくなる。


 目の前に出された契約書には、僕が下級民になりローレンツ家に仕える代わりに、メルを上級民にしメルの所有権の一切を放棄するという内容がおおよそ書かれていた。その言葉の一言一句に最大の注意を払いながら読み進めるが、僕の主張したものとの相違はなかった。


 「どうだ。悪くない条件だと思うのだが」


 兄様が微笑みかける。兄様の魔性の笑顔。元々整ってる顔がもたらすそれは、ありとあらゆる人物に優しさを感じさせ、安心へと引きずり込む。

 このとき僕はこのことをもっと注意しておくべきだった。兄様が契約で笑顔を見せるとき、兄様に得でしかない契約であることを。

 この時の馬鹿な僕は、契約書にサインを連ね、拇印を押してしまった。

 このときの兄様の表情は憶えていない。僕はただメルがこれ以上苦しまなくて良くなることが嬉しかった。




 だけど、僕はこれを今でも毎晩のように後悔することとなる。


 


 この後のことの運びは早かった。兄様が全ての手続きをする準備をしてくれた。僕はただサインを書いていくだけで良かった。その多くは順調に進められたが、役所の人も下級民への転属願いの手続きなんてした人はいなかったらしく、最終的に僕が下級民として戸籍に登録されるのは一週間以上かかった。

 僕の希望や兄様の希望もあり、これらの手続きはメルが寝てる夜中や、兄様が出勤する前の早朝に行われた。役所への用事がどうしてもあるときは、メルに「少し僕の部屋の片づけをしてくる」とか適当に言い訳を作った。メルはその度、送り出してはくれたが、不安そうな紅い目は僕の心を縛っていった。

 だが、僕は兄様との契約をその時までメルに言うことはできなかった。そのことを知ればメルはきっと僕のことを止めると思ったからだ。もう二度とこんなチャンスは存在しないかもしれない。僕の運命なんて、兄様の気分次第ですぐに変わってしまう。だから、事情の説明は後で十分だと思った。それに下級民から上級民への籍の移動は上級民側が主体で行うため、メルにすぐに話す必要もなかったのだ。

 ……今考えてみれば、彼女からの信頼を僕は免罪符に利用していただけだった。もし、お互いを信頼したといったなら、このことはすぐにでも話すべきだった。これはただの僕の自己満足だった。


 そして、とうとう僕が上級民としての籍を失った日のことだった。次の日には僕は早速NABの実験場へ向かう必要があった。身体改造の手術も控えているため、しばらくここを離れる必要があった。……もちろん怖かった。辛かった。明日には、僕が僕でなくなるのだ。体を改造され、人ではなくなる。メルの前で平常心を保つことさえ難しかった。

 仮に実験と手術から帰ってきたとしても、その先はフィールドで実際に戦うための訓練を積むことになる。きっと部屋も出ることも多くなる。些かメルへの言い訳も辛くなってくるだろう。

 何かしらの説明をする必要があった。荷物整理、とは言っても服とか生活用品とかをまとめていると、メルがこちらをちらちらと伺っているのが見えた。

 これを機に、会話を切り出そうとする。

 

 「……あの」「陽人様」


 だが、お互いに同じタイミングで言葉が重なってしまった。

 

 「えっと、メル?どうした?」


 「あ、いえ、陽人様、何でしょうか?」


 遠慮が会話を止めてしまう。干し草のベッドの少し掠れた音だけが、気持ち程度の小さな小窓からの風に揺られ流れてくる。

 

 「……」

 

 メルの無言はやがて、小さな、そして心から不安そうな声が打ち消した。

 

 「陽人様……。差し支えなければお伺いします。……なにか、私に、隠していることはございませんか?……私にお手伝いできることがあるなら、私はあなたを支えたい。なにも、一人で抱えることなど、ありませんよ?」


 僕は手元の畳みかけたボロボロのシャツから視線を上げ、メルを見た。メルの目は……潤んでいた。酷く歪んだ表情も、何かをこらえるので必死そうであった。それでいて、できるだけ明るく話そうとするものだから変に声が上ずって余計に苦しそうであった。


 「メル……。僕は、僕は明日からここをしばらく離れることになる。大体二週間程度……らしい。理由は……まだ言えない。だけど、帰ってきたら全て話すよ。なーに、君にとって悪いことじゃない。楽しみにして待っててよ」


 僕は……逃げることしか今はできない。まだ、まだ止められるわけにはいかない。メルが本当に笑って過ごせるようになるには、これしかないのだ。なら多少の僕の犠牲は致し方ないだろう。メルは優しい。だからこそ無駄な心配をかけたくなかった。

 この世の幸せと不幸は釣り合っている。もちろん、二人とも幸せになれる未来もあるのかもしれないが、きっとこれが精いっぱいの妥協点だ。なら、どちらかが不幸にならなければいけないなら、僕が喜んで君の痛みを担ぎたかった。だから、そう考えられるから、僕は明日も怖くはあったけどむしろ嬉しくも感じていた。

 

 「まだ、私に話すことができない、事情があるのかもしれません……。陽人様は思慮深いお方だから、私に遠慮して下さっているのかもしれません……。ですが……」


 メルは服を握り締めながら固まっていた僕に近づいてきた。漂う気迫は僕に避けることを許さなかった。メルは僕の頭を抱えるように包み込むと、ゆっくりと抱きしめ自分の体に寄せた。その細く柔らかな手が頭に添えられ、優しく擦られた。


 「ですが、どうか、陽人様が傷つかないでください……。私は、陽人様が、日に日に弱っていくのを見ているのが、辛いです……。どうしてこんなにも愛しい。だから、あなたが傷つくのは……許せないんです」


 メルは半分声にもならない声でささやくように呟いた。ただ、怒っているわけでもなく、僕をただ柔らかに受け入れていた。

 その事実がうれしい反面、僕は明日どうなるか。それは決まり切った事実だった。今更変えられない。メル……ごめん。それでも僕はやらなきゃいけないことがある。その後は、君のいうことは全て守るよ。だから、今だけは、許してくれ。


 「へへ……。陽人様も、あの日。私をかばってくれたとき。こんな気持ちでいてくれたのですか?なんだか照れくさくもあり、とても胸が温まります」


 ……ごめん。

 僕はただ、その言葉だけが、頭に反響していた。


 「陽人様……。もし、明日からしばらくいなくなってしまうのなら、私は寂しくて生きていけるか分かりません。ですから、多少のご無礼はお許しください」


 抱く力が強くなる。

 それでいて痛くないように気を使っているのがよくわかった。


 「そのまま、じっとしていてください……」


 メルの手が僕の目を覆う。しばらくその姿勢のまま耐えていると、唇に何か柔らかいものが押し付けられた。しっとりとしていて、それでいて荒い呼吸音が耳に入った。

 ……まさか、僕は今、キスされている?

 いや、だってメルが僕を慕ってくれていたのは、恋愛感情ではなかったはずだ。なぜ、今。


 「今のことは忘れてください……。お邪魔してすみませんでした。明日も早いのでしょう?どうか、お気をつけて行ってらっしゃいませ」


 忘れてくれと言われたからには、これ問いかけることもできない。僕はただ、「ありがとう」と言って荷物整理に戻った。だけど、高鳴る心臓は眠ることを許さず、結局一睡もせずに看守にそっと呼び出されることになった。

 そして僕は寝ているメルに視線を送り、起こさないように立ち去った。うっすらと牢屋に反響していたすすり泣きは僕の空耳であったと信じたい。


 

 僕はその日屋敷から出るのは初めてであった。屋敷の周囲を囲う森のせいでいままで外の世界は見たこともなかった。

 もちろん教科書の写真では何度も見てきたが、実際に見る立ち並ぶ高層ビルに絡まるように走るモノレールは美しかった。車の中で運ばれている最中だったからもちろん行くことはできなかったけど、それでも行き交う上級民の人たちが楽しそうに買い物やおしゃべりを楽しんでいるのを見ているだけでも僕は少しだけ浮かれた気持ちになった。

 NABの研究施設はそんなビル街の外れにあった。空港のような広い敷地には、柳ケ瀬専属の軍隊が常駐していて警戒の目を怠らなかった。

 僕は兄様の付き人の黒服の男に連れられ、地下へ続くエレベーターに乗せられた。

 ぐんぐんと地下へ突き進むエレベーターには最低限の壁しかなく、各フロアの様子が見れた。大量のサーバーや白衣を着た職員が何やらよくわからない機械を組み上げる様子も伺い知れた。

 僕が下ろされたのは約地下20階程度の場所だろうか。不思議とここは研究所のような印象は受けず、むしろ病院のような内装をしていた。


 その中でも奥まったところにある特別広い部屋に僕は通された。周囲には怪しげな機械のランプが明滅する光だけしかなく、全体的に薄暗く陰湿な雰囲気を感じさせた。その中でも蠢く白衣の男性がこちらに気が付くと、手をパタパタと刺せながらこちらに向かってくると僕のことを舐めまわすように見て、黒服に言った。


 「やぁ、この子が今回の実験体かねぇ?」


 黒服の男がうなずく。


 「あっそ。だろうねぇ。じゃあ黒い君はもう行っていいよ。ばいばい、さようなら。……う~ん。君、いいねぇいいねぇおとなしくて。めんどくさい質問もしないのもベリーぐっと!!!モルモットが鳴くと面倒だからね、普段は最初に声帯を切除するんだけど、今回の子も静かだからねぇ。めんどくさいからそれはいいかぁ」


 男は捲し立てあげるようにセリフを言い終える。不安ももちろんあるが、それよりも僕はメルのことで頭がいっぱいであった。これで、これでメルは救われる。兄様の話によると僕が実験から帰るころにはメルに上級民の籍が与えられるらしい。帰ったらメルに、それを伝えることができる。ともかくそれが今は嬉しかった。メルを守りたい。そのことを精いっぱい説明すれば、きっとメルは今回のことも理解してくれるはずだ。


 「あ。そうだ、自己紹介は大事だよねぇ?私はドクタービーンズって呼ばれている普通の科学者さぁ。今回の君の実験のトップの管理者みたいなものだねぇ。本当はデスクでふんぞり返ってるだけでもお金は貰えるんだけどぉ。それじゃぁつまらないものねぇ?」


 ビーンズ。彼の話しぶりを聞くにNABの実験全体の管理者なのだろう。ということは、メルも……こいつのせいで……。そう考えると無性に腹が立ってきた。だからと言って僕にはどうすることもできない。もうメルも不条理から開放されるのだ。下手に諍いを起こして兄様の気が変わられても困る。僕はおとなしく従うしかないのだ。


 「君のことは聞いてるよぉ。元上級民なんだってぇ?どうして下級民なんかになったのぉ?ま、興味ないんだけどねぇ。私が実験できれば君は何だっていいさぁ。名簿もどっかやっちゃったから、きみのことペロちゃんって呼ぶねぇ」


 ビーンズは僕の首筋に手をかけると、何か首輪のようなものを取り付けた。少し手で触ってみるが、どうやら僕の手では取れないモノらしい。樹脂と金属の中間のような材質でできたそれは不思議と首を痛めることもなく馴染んだ。


 「それはぁ、万が一君がここから逃げようとしたときの予防。少しでもこの施設から出ようとするとぉ。どかーん!!!それと、それは君の居場所や体調を管理するのにも使うんだよぉ」


 「それじゃ、早速だけどぉ」


 ビーンズは何事もないように、今までの口調と全く変わらずに、自然に言った。


 「一回死んでみようか」


 「大丈夫大丈夫。その首輪はぁ、NABのデバイスの代わりにもぉ、なっててぇ。上手くいけばぁ、それから記憶を取りだせるからぁ。君のクローンが完成したらいつでも生き返れるよぉ。あ、でも、その首輪のやつはぁ。研究所内でしか使えないからぁ。外に逃げて爆発して死んじゃってもぉ、その時の記憶は抜けちゃうからぁ、気を付けてねぇ」


 「実際。生きてる体をいじって改造するよりも、新しく体作っちゃったほうが楽なんだよねぇ。だから、ねぇ、一回死んでね?いやぁ、科学の進歩ってぇすばらしいねぇ。前回の白髪の子のときより楽だよぉ。あの子のときはこんな首輪なかったからねぇ。一からパーツを付け替えていくのはぁ、大変だったよぉ」


 「新しい体にはぁ。ゲームで必要な最低限の機能とぉ。NABのデバイスが取り付ける予定だよぉ!一週間後くらいには君はまたここへコンニチハできるのぉ。すごいでしょぉ?生まれ変わったぁ。体。楽しみにしててぇ」


 「え、いや、あの、ちょっと……」


 僕がせめて心の準備を、と言おうとする前に。


 「うるさぁい!だまっててぇ」


 彼がどこからか取り出したugi自動小銃から放たれた数発の弾丸は僕の体を削り取っていく。まともにエイムしていないせいで銃弾の軌道はバラバラな方向を向き、まずは僕の右足のふくらはぎが吹き飛んだ。繊維質がぶちぶちと引きちぎれる音がした。だが、痛みを感じる前に、次の弾丸が僕の右脇腹を直撃する。肌に捻じりこむように入ってきた弾は中で分裂して、肝臓や、腸をねじ切っていった。中がぐちゃぐちゃにされるのがわかった。破片のいくつかがぶつりと重要な血管を突き破ったらしく、勢いよく血が噴き出そうとするのを感じた。

 心臓に当たった一発はぐちゅりと心臓を押しつぶすと、バキバキと骨を砕き、僕の姿をぐにゃぐにゃに曲げた。骨と筋肉が破壊されて人の形をしていられなくなった僕は、どろどろととけて、なにも、かんがえられなくなて

 こわいたすけてなにもかんじない。やみ、くろ、い。わから、ない。める……。





 そうして僕の一回目の人生は幕を閉じた。

 次に意識が戻ったときには、すでに僕はどこかのベッドに寝かされているようだった。とはいっても、あくまでもこれは記憶が生み出した「僕」という感覚に過ぎないかもしれない。本当の意味での僕は一週間前に死んでいるのだろう。僕は、一体だれなのだろう。やけに周囲の音がうるさい。紙のこすれる音も、カートが転がる音も。目もまぶしすぎて慣れるまで開けられなさそうだ。


 ふと首の後ろに違和感を感じ、手を回す。薄い金属板。指に引っ掛けてはがそうとするが、引っ張るほど、脳が揺さぶられる感覚がした。遂には、眩暈まで起きてきたため、僕はそれを手放した。……ああ、そうか。僕は。死んだのだった。

 死んだ。死んだ。死んだ。

 いたかった。苦しかった。内蔵がバラバラに溶けて、混ざりあって……。


 「あ、あぁ。あぁぁぁああああああああああアアアアアア!!!!!!!!」


 「が、は、あぁぁぁああああぁっぁああああああああああアアアアアアアアア!!!!!!!」


 最初の蘇生のショックは。僕を壊すのに充分であった。

 

 「う、っく、げほ、あ、」


 布団の上にそのままぶちまけた吐しゃ物に顔を突っ込みながら、僕は馬鹿みたいに叫んでいた。足と腰は固定されていてその場から動くことはできなかった。もだえ苦しみ、手でひたすら自分の胸をひっかいた。自分の中が気持ち悪くてしょうがなかった。今までの僕の感覚より数倍の力が入るその腕は、幾ら強化されているとはいえ人の肌を裂くには充分であった。


 「うーん……。次からは手も固定したほうがいいかなぁ?まぁ、予備はこの一週間で大量に作ったから、むしろ色んな死に方のデータは欲しいしぃ、じゃあ、そのまま死んで」


 ふとそんな声が聞こえた。


 やがて裂かれた腕は肋骨さえも砕きながらさらに、奥に進み、心臓の生暖かくぷにぷにとした筋肉にまで達した。爪がはがれた指は必死にそれを裂こうとするが、ぬるぬると表面を撫でるだけであった。だが、重要な血管の幾つかは既に指で引っ掛けて引きちぎってしまったらしく、やがて意識が薄れると、僕は二回目の死を迎えた。



 次に意識が戻ったときには、また病院のベッドのような場所に寝かされていて、それで、死んで死んで死んで。心臓の感触が指先に生々しく残っている。


 「あ、ぁぁぁぁあああああぁああああ!!!!!」


 だが、今回は手も固定されていて、僕は一切の身動きができなかった。


 「うんうん。良い反応だねぇ」


 「じゃあ、つぎはぁ……」


 僕の実験での地獄はまだまだ始まったばかりだった。

 だが、ここでの僕の意識は薄れ「現実の世界」へ引き戻されることになる。そして、美しくも醜かった始まりの物語の序章は幕を下ろした。


次も一週間以内に出します。

正直、R15設定でも……大丈夫かな?

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