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屑鉄の騎士と赤錆姫  作者: パール
屑鉄の結び目(上)
3/9

僕が騎士になった日

 「お前に、上級民としての、教育を、受けさせるなど、やはり!間違っていたんだ!」


 「ご……ふ、ぅ」


 ノックもせずに兄様が部屋に入ってくると、露骨に僕の顔面にストレートを加えてきた。武道の心得も学んでいる彼の一撃は僕を跪かせるのにこと足りた。今まで一度も人目に付くような場所に攻撃を加えたことはなかったから、今回は相当に怒っていることが一瞬で分かった。


 「あの老いぼれどもが、俺に、『陽人を表に出すな、だが、最低限の教育を施せ、周りの家になんて見られるかわからない』というから、お前を嫌々ながらに屋敷で自由にさせてやっていたんだ!!その、俺の好意を無下にしやがって!!」


 「そもそも、もはや柳ケ瀬を仕切っているのはこの俺だ!あの老いぼれどもには口を出す権利はなかったのだ!」


 振りかぶった足はそのまま綺麗な弧を描きながら僕の脇腹を直撃する。

 抑えていた鼻血が空を舞い、床を赤く染める。


 「だが、あの老いぼれどもは発言力だけは一人前にある……。俺は今にでもお前を下級民のスラム街へ叩き落としたいところだが、老いぼれどもが『目立つことはしないでくれ』というのだから俺はお前をまだ外に放り出すわけにはいかない……。だが、お前にはもはや人権は存在しないと思え。今まで与えてやっていたこの部屋と、教育と、食事は全て取り上げる。せめて死なない程度に豚小屋でブヒブヒ言えるぐらいにはお前を養ってやる。まぁ、それもあの老いぼれが死ぬまでだ。奴らが死んだら、お前をすぐにでも地獄より酷い場所に追放してやろう」

 

 「しかしながらとても残念なことに、まだお前の豚小屋は用意できていない。精々一か月の間、あの白いドブネズミと同じ豚小屋で仲良しゴッコでもしてやるんだな。あいつは一か月後に研究所に送ってやるつもりだ。ここでの利用価値はもはやないからな。NABシステムの稼働実験にでも使うのだろう。先日から利用させろとうるさかったのだ。俺としてはもはや世間に公開しても問題は無いと何度も言ってるのだが、慎重主義が多くてどうも困る。……お前がまともに授業を受けなかったせいで、かわいそうになぁ。きっと何度も殺されては蘇生を繰り返すのだろうなぁ!地獄に落ちることもできずに、無限の苦しみを味わうはめになるんだからなぁ!」


 兄は心底下品な笑みで僕を見下げる。無様に転がっていた僕にさらに蹴りが加えられる。

 今まで少しは遠慮していた気配が感じられたが、今日は殺す勢いで僕を痛めつける。何かを言い返そうとするも、思考がまとまらず、言葉にできなかった。


 「あぁ、かわいそうに、かわいそうに!くく、くははははは!!!!」


 兄様が誰かをかわいそうなどと思ったことは一度も無い。狂気的な笑いとともに発せられる憐れみの言葉には吐き気が催した。

 薄れゆく意識の中、兄様の不敵な笑い声を聞きながら黒服の男どもに運ばれてどこかの部屋に押し込まれたところまではかろうじて記憶にある。

 

 その次の記憶は少しかび臭い臭いから始まった。

 どうにもじめじめとした空間の中、僕は重い瞼を持ち上げた。僕はどうやら藁を積み上げたベッドに寝転がされていたようだ。気持ち体の上にも藁が被せられていたので、誰かがここに寝かしてくれたらしい。黒服の人?いや、違う、兄様はそんなに甘い人間を身の回りに置かない。


 「……」


 どこからか視線を感じる。その方向に目を向けると体育座りをした彼女がこちらを見ていた。彼女は冷たい石の部屋の角に尻を落ちつけていることから、このベッドは彼女の物であったのだろう。そしてここに投げ込まれた僕をわざわざ寝かしつけてくれたのだ。この石でできた独房にある小さな鉄格子の窓から差し込む光の色から、今は昼より少し前の時間だろうか。彼女には長い間無理をさせてしまっていたみたいだ。


 「その、なんていうか、ありがとう?」


 考えてみればまともに彼女に話しかけるのは初めてであった。そもそも、僕は彼女の名前すら知らないのだ。話したいことはたくさんあるはずなのに、どうにも喉から出てきてはくれない。そして彼女には謝罪を重ねなければならない。僕の迂闊な行動のせいで、彼女は……。到底許されることではないのは分かっていた。だからこそ、何も知らされていないだろう彼女に真実を伝えるのが辛かった。見るからに弱っている彼女をこれ以上自分のせいで追い詰めることはできなかった。


 「……」


 彼女は少し顔を上げるも、言葉を発することは無かった。昨日の傷がまだ痛むのだろうか。確かに、マクレファン先生が彼女に与えた苦痛は一日や二日で治るものではないはずだ。


 「すまない、僕のせいで……。今ここをどくから、使ってくれ」


 この「すまない」だけでは足りないのは分かっている。だが、今はどうか、この言葉で逃げることを許してほしい。


 「……いえ、そのままで、構いません。私は、このままで十分です……」


 「そういう訳にも行かないだろう……。自分の体を見てみろ。そんなに傷ついて。痛むだろう?僕なんかより君が休むべきだ」


 少女は軽く首を振りながら簡潔に答える。その赤い瞳は僕の目から逸らされ、自分の足元を見つめていた。


 「私めが、ご主人様に尽くすことは、当然のことです……」


 「……見てみろ。僕がそんなにお偉い人間に見えるか?いいや、そんなことはない。それに、傷ついてる人間の心配をするのは当然のことだ。そこに主従は関係ない。さらに言えば、君がそんなに卑屈になる理由なんてここにはどこにもない。僕は君をぶったりはしない。どうか、そんなに緊張しないでくれ」


 少女は再び僕の目を見た。何か信じられないものでも見るかのような不思議な視線。いや、奇妙なものをみる好奇心か。

 ここでまた会話が止まってしまった。おそらく彼女はどのような言葉を返したらよいか分からないのだ。人から心配されたことがないのだろう。だから、視線をあちらこちらに移しながら落ち着きなくうずうずしているのだ。


 「えーっと、僕、まだ君の名前を知らないんだ。僕は……柳ケ瀬陽人やながせはると。君の名前は?」


 湿った空気を取り払うように、できるだけ明るく話題を変えた。そうだ、まずは僕らには自己紹介が必要だ。僕はベッドからもそもそと身を出し、少女に少し近づき、同じく体育座りをした。


 「名前……名前は、ありません。存在したのかもしれませんが、とっくの昔に忘れてしまいました。申し訳ございません」


 ……。予想していない答えが返ってきた。僕が想像しているより、よっぽど彼女の精神的、体力的状況は芳しくないのだろう。

 だが、僕はこういうとき、どうしたらいいかは本が教えてくれた。


 「そしたら、僕が君に名前をあげても、いいかな。もちろん嫌なら嫌で構わない。僕の言葉に価値なんてないのかもしれない。だけど、僕に贈れるものがあるなら、君にあげたい。君は多くのものを奪われすぎた。だから、これからは君が貰う番だ」


 「え……」


 またもや、心底驚いたかのような表情で彼女は僕を見た。だが、やがて彼女の口は何かの言葉を発したそうにし始めると、それはこぼれ始めた。


 「どうして……。どうして……陽人、様は……」


 今までの感情の色がない決まり切った定型文を切り貼りした言葉ではなく、それはまぎれもなく彼女の心から発せられた言葉であることが分かった。

 彼女の紅い瞳は僕を睨む勢いで僕を捉え、前のめり気味に僕に少し近づく。だが、僕はそれに臆せずに、最後まで聞き届ける意志をアイコンタクトで彼女に送った。「ゆっくりでいい。君の言葉を、聞かせて欲しい」


 「どうして、陽人様は、そこまで私に構うのですか!私なんか、放っておいたらいいじゃないですか!どうして、上級民であるにも関わらず、その地位に似つかわしくない心を、持っていらっしゃるのですか!あなたが、私を、私を人間としてみてくれたあの日まで、私はどんな扱いを受けても、何も感じることは無かったのに……。あの日から、こんなにも、心が痛い……」


 「殴られても、踏みつけられても、体を切り裂かれて得体のしれないモノに変えられても……。死んで生き返って、私が私でなく感じたときも……!こんなにも、自分が惨めだと感じたことは、無かった……。あなたが向けてくれる笑顔が痛かった。あなたが毎日毎日、私が傷つけられないように、予習をしているのがわかって、痛かった。そして、あなたに抱かれた時……痛みを感じにくいはずの体が、あんなにも、……痛かった……!」


 「陽人様の、優しさが、私を、苦しめる……。私は、前を向いて歩いていいと言ってくれた時、私は、このような身分にもかかわらず……『生きたい』、『幸せになりたい』と願ってしまった。陽人様がくれた希望は、あまりにも温かすぎて、冷えた私には、火傷してしまいそうなくらい、痛かった……」


 「どうして、陽人様は……私に希望を与えたのですか。終わらない一生を地面を這いつくばって、茨の中を進む覚悟は、していたはずなのに……。この16年間で一度も変わらなかった、固かったはずの決意は、あんなにもあっさりと崩れてしまった……。これから、私は、どう生きていけばいいというのですか!痛めつけられるのも、心を粉々に砕かれるもの、今は怖くて怖くて仕方がない……」


 彼女は僕の襟首をつかんで捻じり上げるようにやや上に持ち上げると、紛糾した。僕を睨みつけながら、それでいて何かに縋るような紅い瞳が揺らぐ。

 涙はとどまるところを知らずに、地面と僕のズボンを染める。息は苦しくはないが、言葉を進めるごとに彼女は僕の胸元に顔をうずめ、しまいには床に座っていた僕を押し倒すほどに体を預けてきた。

 かつての表情のない少女と同じ人物とは思えないほどの大声と、気迫で、こんなにも感情的に主張された僕は動くことも、言葉を発することもできなかった。


 「私は、何よりも……あなたに、見捨てられる時が、一番怖い……」


 彼女はその言葉を皮きりに、つかんでいた僕の襟首を離し、胸元の布地を握り締めた。

 トクトクと心臓の音がする。そこには確かに、本の人物にあったような、本物の血が流れていた。上級民にあるような脂っこいものじゃない。純粋で、綺麗で、それでいて少し手を加えれば崩れてしまうような。そんな脆いものを、僕は胸で受け止めていた。


 「僕は、君を守りたい」


 「こんなにも君を傷つけた世界が、許せない。半年前まではこんなことは一度も思わなかった。自分が置かれた境遇を不思議とも思わなかった。誰かを使い潰し、人を操り、利益を貪ることが僕の生き方だと思っていた」


 僕は彼女の体を包み込むように優しく、手を添えた。彼女の体がぴくりと震えた。だが、拒絶する反応はせず、そのままにしておいてくれた。


 「だけど、どこか違った。それは、僕を鋼の鎧で包み込んで、心を守ってはくれたけど、今君を抱きしめているような、こんなにも、心が締め付けられるような思いにさせてくれたことは無かった。何かを愛しいと感じたこともなかった。何かがかわいそうだとも思ったこともなかった。何かに怒りを感じたこともなかった」


 「この素晴らしい、そして、酷く儚く辛い、感情を教えてくれたのは他でもない君だ。僕は屋敷から出たことは一度もなかった。でも、そんな僕の凍り付いた心を溶かし、鳥かごから開放してくれたのは、君だ。あんな凍てついた凍土に埋もれながら死んでいくのは御免だ。僕は今はっきりと思う。君がこんなにも傷つく『世界』が間違っていると。だからそんな間違った世界から君を守ってあげたいと、思ったんだ……」


 「君が傷つくさまを見てこんなことを思ったんだ。最低だ。僕は最低な人間だ。勝手な自己満足と偽善におぼれているだけかもしれない。ただ、僕はこの生き方を、信じてみたいんだ」


 「信じられないかもしれない。怖いかもしれない。だけど、僕は、僕だけは、君の味方でいたいんだ。例え世界が僕を恨んでも……。例え、僕が世界を裏切ることになっても」


 こんなにもすらすらと言葉が喉から出てくるのは初めてであった。それは僕の心からの本心であった。そして、言葉にしてみて初めて分かった。僕は、彼女を、守ってあげたいんだ。こんな理不尽な世界から。何よりも、ここまで彼女を追い込んだ柳ケ瀬の人間から。


 「陽……人、様……」


 「そこまで、言ってくださっても……私はあなたを信じることができない……!こんな醜い心が嫌で嫌でたまらない!こんなにも、こんなにも私は、あなたに近づきたいのに、記憶がそれを許さない……。私は、私は、もう人を素直に信じられるほど澄んではいないのです……。まだ、心のどこかであなたを疑ってしまっている……。幻滅するでしょう?私はそういう女なのです。私は、どこまでいっても、変わることはできない……。……私のことを気持ち悪いとは思いませんか。既に人の体ではなくなった私を、どうして最後まで信じることができますか……。どうして、人並みに愛を受けたいだなんて、思うことができますか……。今だって、昨日に受けた傷はもう塞がりかけている……。こんな化物を、想うことができる方がいるなんて、どうして……信じることができますか……」


 「君が、どうしても、僕を信じられないというのなら。信じてくれるように努力するだけだ。幻滅なんてしない。気持ち悪いなんて出会ってから一度も思ったことは無い。君を放ってなんておかない。君がたとえ手を離そうとしても、君が例え人でなくなってしまったとしても、僕は絶対に離したりしない。縫い上げてでも、僕は君のそばを離れない」


 僕は彼女の手を握る。……冷たい。

 僕の手も決して温かいとは言えないけど、それでも彼女のものよりほんの少しは温かいはずだ。彼女の顎をもう片方の手で押し上げた。僕は彼女の眼をまっすぐに見つめる。

 そうして、頭に浮かんでいた彼女の「名前」を僕は耳元で呟いた。もはや彼女に許可を取る必要は無いと思った。僕が、君の味方であり続けるという契約の証。それを何らかの形で示したかった。


 「君の名前。考えてみたんだ。メル……なんてどうかな。ただのメル。家柄にも、金にも、ゲームにも、柳ケ瀬家にも縛られる必要なんてない。君には、幸せになる自由がある。この名前は僕が君のそばを離れないため契約だと思ってくれて構わない。信じられなくなったら、このことを思い出してほしい」


 彼女の呼吸が数秒間止まった。心なしか少し震えているようにも感じる。

 僕のセンスがなさすぎた……のかな。もしくは名前を契約代わりと言われて不快感を感じた?まさかそれにショックを受けて……。

 僕は生まれて初めてこんな恥ずかしいことを言った影響で脳が混乱していた。本当のことならもう彼女から顔を逸らしたい。だが、僕の誠意を示すにはそれが精いっぱいだったから、当然そんなことはできない。


 「あ、いや、ごめ……。特に深い意味も考えてなかったし、君に似合うかなってなんとなく思ったからだけで、えーっと、その、気に障ったならごめん。もっとちゃんとした名前、考えるから、その、あの……」


 火照る頭に鞭を入れるが、だんだんとホワイトアウトし始めてしまい言葉は喉元で分解してしまった。

 彼女は僕の顔をしばらく見つめていた。いきなり顎を持ち上げられた影響と、唐突な僕の発言に驚いていた様子ではあったが、それがやがて微笑みに代わって……


 「嫌なわけ……ありませんよ」


 「あなたが名付けてくれる名前で、嫌なことなんてありませんよ……。私は、今、ただでさえどうにかなってしまいそうなのに……。いきなりこれ以上、追い打ちをかけないでくださいよ……。心臓に、悪いです」


 少し照れながら彼女はそう言ったのであった。


 「いつか私の呪いが解けて、陽人様を心からお慕できる日がくることを、強く願います」


 この時の彼女の笑顔は世界で一番美しかった。

 改めて間近で見ると、本当に彼女の顔は整っている。かわいいというよりも美人に近い感じだ。きっとお姫様だと言われても、なんの違和感もなかった。純白の姫。それでいて、世界の当たりの強い雨せいで少しのさびが付いている。純潔の中に潜む闇。むしろそれが僕にとっては愛しかった。それがあるからこそ、今の彼女はこんなにも輝いているのだと思った。

 だが、彼女を取り巻く環境は依然として彼女をつかんで離さない。彼女はまだ、プレイヤーとして柳ケ瀬家に仕えることを命じられている。僕は、その呪縛なんとしてでも取り払う必要があるのだ。


 その日、僕らは同じ藁の中で寝た。もちろんそれ以上のこともそれ以下のこともなかったが、彼女の背中の温かみが気持ちよかった。

 次の日も、この独房から出ることは一切許されなかったが、独房には藁のベッドとシャワーとトイレなど、生活に必要なものは揃っていたため特に困ることは無かった。しかも、簡素ではあったもののパーテーションまであったものだからお互いに恥ずかしがる必要もなかった。……もちろん質素な麻の仕切りでは音とにおいはどうしようもなかったので多少の気を遣う必要はあったが些細な問題だ。

 食事も一日に二回看守が持ってくるから飢えることもなかった。それに、看守も僕らに餌を与えたらすぐにどこかに行ってしまったので、一日中彼女のそばにいることができた。だが、お互い昨日色々とあったものだから会話があってもたどたどしいものだった。妙に湿った石造りの独房は決して良いものとは言えなかったが、それでも僕にとってはここの上の屋敷での生活よりどこか心地よいものだった。

 しかしながら僕には、まだ彼女に伝えなければいけない大事なことがあった。僕のせいで兄様がメルを研究所に送るであろうことだ。だけど、昨日彼女を守るといったそばから、信じて欲しいといったそばからこんなことを言うのは気が引けた。でも、時間は残り一か月しか残されてはいない。それに、彼女に僕を信じて欲しいといったのなら、僕も彼女を信じる必要がある。

 だから僕はこの日、彼女にこのことを伝える決意をした。

 

 夕食後、メルがシャワーから出てきてしばらくたった頃だった。彼女は藁のベッドの端に腰かけ、頭には濡れた髪を乾かすための配給されたタオルが巻いていた。昨日の傷が痛んだろうとは思ったが、彼女はなんともないように、慣れている手つきで就寝の準備にとりかかっていた。風呂と隣から漂う柑橘系の香りが僕の鼻をくすぐり、煽情的で妙な気分に浸っていた余韻が切れるころ、僕はメルの隣にぽふんと腰を下ろし、それでいてどこか緊張のある声で彼女に話しかけた。


 「メル。少し、いいかな?」


 メルはきょとんとした顔でこちらを見る。最初は少し恥ずかしがりながら顔をそらすものの、こちらの緊張感を感じ取ったのか、体の向きを変え僕の隣へ近づいた。

 「如何いたしましたか?陽人様」


 一度、敬語で話さなくてもいいと伝えたにもかかわらず彼女は依然として敬語で話し続けている。なんでも、むしろこちらのほうが落ち着くのだとか。


 「君に、伝えなければらならないことがある。メルにとっては辛い話になる。しかも、先に言っておくならこれは僕のせいで起きたことだ。昨日の僕の言葉が空虚に感じられるかもしれない、気持ち悪いと思えるかもしれない。責めるなら気が済むまでそうして欲しいし、僕も逃げる気はない。だけど、始めは最後まで聞いて欲しい」


 「……。私は、陽人様がおっしゃることであらば、最後まで聞き届ける覚悟があります」


 メルは少し不安そうにそう言った。そして僕の目をまっすぐに見つめ続けた。紅の瞳が僕を刺す。できることならばこのまま突拍子もない別な話題に変えて、冗談として済ませたかった。だが、僕はここでやめるわけにはいかなかった。

 

 「……君は、一か月後に柳ケ瀬の研究所に送り込まれることになる。どうやらその首の後ろのデバイスについてのデータをもっと集めたいらしい。僕が、あの日、マクレファン先生の授業で下手をしたからだ。それで怒った兄様がそう決断したんだ。僕が君を大切にしていたのも兄様は知っていたから、躾や見せつけでそうした面が大きいと思う。もちろん君のせいなんかじゃない。僕がもっと上手く立ち回ればよかったんだ。本当に、本当に済まない……」


 言葉は終始まとまらず、覚束ず、これではっきりと彼女に伝わったかどうかは分からない。だけど、途中で彼女から目を逸らしてしまった時点でこれ以上言い続けることは、虚勢が出そうで怖かった。

 メルの手が、頭に伸びる。

 だが、勢いはない。どうしたのかと顔をあげると、優しく微笑むメルの顔があった。そうして、手はふんわりと僕の頭を撫で始めた。


 「私がそんな理由でどうしてあなたのことを責められますか。陽人様が、あのとき、私を抱いてくれた時に思ったことは話しましたよね。私は、とても嬉しかった。人生のすべてと比較しても、あの時の温かさは代え難いものだったと。私のために、こんな狭い独房に入れられたのでしょう?陽人様が卑屈に思う理由など何一つありません。だけど、もし、そうなれば私は陽人様と会うのは難しくなってしまいますね……それだけは心残りです」


 「そばにいると、守ると誓ったのに、本当に済まない」


 「陽人様。……この世にはどうしようもないことは存在します。私は、何よりも、そう言ってくださった陽人様のお気持ちが嬉しいです」


 決して気分のいい知らせではなかったはずだ。むしろ彼女にとっては忌避すべきところの核心をついてしまっていたといってもいい。それにもかかわらず、彼女は僕を許してくれたのだ。

 ……だが、僕はそんな彼女の優しさに甘えるつもりはなかった。

 優しく微笑む彼女の瞳には、諦めの色が混じってしまっている。そんなことでいいわけはない。彼女が諦めていい道理なんてどこにもない。

 彼女には、自由に生きる権利があるのだ。それを今ここで諦めさせておいてどうして彼女を守ったと未来で言えるだろうか。それを取り戻すためならば、僕はこの身をささげよう。


 僕は、明日兄様に「交渉」を仕掛けようと思う。


 幸いにも、僕には今日時間はたっぷりとあった。もうこの決断は鈍ることは無い。幸い策もある。この時だけは僕はこの体に柳ケ瀬の血が流れていることを嬉しく思った。




 次の日の早朝。メルが起きる前に僕は床から顔を出した。幸いにも看守は朝食を届けてくるころだった。キッチンで朝食を作るときに出る野菜屑を焼いただけの簡素な代物だった。

 僕は看守が奥の階段に引き返す手前、僕の持っていた金の指輪を彼の方面に投げ注意を引き、こちらに来るようにジェスチャーした。そして、メルを起こさない程度の小声で彼に要件を伝えた。

 

 「すみません。突然のことで申し訳ないのですが、兄様に合わせていただけませんか。柳ケ瀬家にとって悪くはない話が存在します」


 「『弟がNABの実験に参加する上、柳ケ瀬家に従属する意思がある。さらに他のものもささげる用意がある。その代わり、例の白髪の少女を開放して欲しい。その交渉をしたい』と伝えていただけますか」


 看守は心底めんどくさそうにはしていたものの、僕はまだ上級民であったことと、これが重要な商談であったときに兄様に何をされるか分からないこと。そして僕が放り投げた指輪はそのまま与えることを伝えると、素直にそのまま引き返していった。

 できればメルが目を覚ます前に済まして仕舞いたかった。変な心配をかけてしまわないようにするためだ。その願いはかろうじて天に届いたのか、先ほどの看守は青ざめた顔ですぐさま引き返してきて、独房の鍵を開けると僕を兄様の元まで案内した。


 目の前には重圧な両開きの扉がある。金や銀で装飾され、これだけでさえ価値は計り知れない。必要以上な装飾は朝日を反射し、きらきらと輝いていた。だが、この先に待ち受けるのは兄様だ。そう考えると、これがまるで地獄に落ちる前の審判の扉のように感じた。


 「入れ」


 兄様の声がした。それだけで僕は体が硬直するのを感じた。足も震えて今にも崩れてしまいそうだった。だが、ここで折れるわけにはいかなかった。

 僕は重い扉の右側をゆっくりと開けた。兄様は部屋の奥で豪華で彩られたデスクの中央で、ふかふかのチェアに腰かけていた。部屋の左右には幾つかのモニターと本が置いてあった。モニターには株価や現在のニュースなどが陳列していて、慌ただしくその色を変える。


 「おはようございます、兄様」


 兄様からの返事はなかった。代わりに兄様はデスクから立ち上がると、僕に向かってゆっくりと近づき、右からアッパーを食らわせた。

 歯がいくつか飛ぶ音がした。


お読みいただきありがとうございます!

続きは一週間以内に投稿させていただくつもりです

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