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屑鉄の騎士と赤錆姫  作者: パール
屑鉄の結び目(上)
2/9

赤錆姫は笑わない

 世界的に拡大する貧富の格差は収まるところを知らなかった。それどころか国の経済を回す力のない人間を下級民、逆に富を持ち社会的に意味のある人間は上級民として扱う風潮が生まれ、やがてそれは制度と法になった。下級民は上級民への絶対的な服従を強いられ、一部の人権も剝奪された。下級民は政治に関与することを禁じられ、搾取され、不条理に立ち向かう希望と勇気でさえも奪われた。だが、まだ当時は下級民にも人間として生きる権利は存在していた。しかし、「ゲーム」の誕生と同時にそれさえも失うことになる。


 「ゲーム」の始まりは定かではないが、スラム街の一部で執り行われていた殺し合いに富豪の一人が金を賭けたことが始まりとされている。

 本格的に「ゲーム」に制度が敷かれる前の初期のころは、死刑囚などを寄せ集めて刑務執行の拒否権を景品に殺し合いをさせ、死刑囚に配当をかけていた。だが、「ゲーム」が世界的に認知され始め国際的に大きな経済効果を生むと分かると、下級民からの参加者も募るようになった。やがて上級民の間で「ゲーム」で金を賭けることは嗜みの一種として定着し始めると、下級民が「ゲーム」に参加することは義務となった。もちろん年齢による参加制限や病人などの例外もあったが、今ではそれすらも「個性」となり今では義務を回避できる下級民はごく一部しかいない。

 

 制度化されて以来、「ゲーム」はデスバトルマッチと呼ばれ徐々に過激になっていき、バイオテクノロジーやロボティクステクノロジーを駆使してそれに参加する「プレイヤー」を強化し始めた。できるだけ死ににくく、もがくほうが面白いからだ。ひどいものだと人の体裁すら整っていないプレイヤーもいるらしい。だが奇抜すぎるプレイヤーはあまりBETされない上、他の上級民空の印象が悪くなることから改造のしすぎは未だマナー違反として扱われやすい。

 上級民はやがて自分たちの家でプレイヤーを所有し、ゲームに参加させ勝たせることで自身の権威を主張し始めるようになった。自身が所有する会社の技術力でプレイヤーを自ら強化することも珍しくはない。最近では上級民のなかでも特に上層部の人間でプレイヤーを所有していない家はないと聞く。


 狂いまくった歯車は戻ることを知らず、こんなくそったれな世の中で僕は生まれた。






 生まれた家は柳ケ瀬家であった。

 この国屈指の大富豪であり、柳ケ瀬家が所有と運営を執り行っている柳ケ瀬エレクトロニクス株式会社は世界的に有名である。

 ここだけ聞けば僕は幸福な人間だと思うかもしれない。

 だが、生まれたのが兄様の後であったのが僕の運の尽きだった。あらゆることで兄様に劣っていた僕は両親からも興味をなくされ、僕は両親と会えることはほとんどなくなり、兄様の意向で僕は屋敷から出ることを一切許されなかった。さらに柳ケ瀬屋敷の周りは森と崖に囲まれていてとても外界を垣間見る機会など存在しなかったのだ。部屋に閉じ込められることがほとんどあり、僕自身の居場所は空虚な子供部屋にしかなかった。

 そして、そんな愚かな僕のことを兄様は大変嫌っていた。たまに僕の部屋を尋ねたかと思うと、いきなり僕の頭をつかんでゴミ箱に突っ込むこともあった。もっとひどいときには僕の体で、人に見えないようなところに体罰を与えることもあった。そのすべては兄様の「弟に教育的指導をしていたまでだ。それ以上でもそれ以下でもない」という一言で片づけられてしまった。

 しかしながら、あくまでも柳ケ瀬家の人間であった以上は最低限の体裁を整える必要があり、上級民として受けるべき教育課程は全て教わる必要があった。フランス語にドイツ語に中国語。護身術やお客様との会食のマナーから数学や物理などの下級民では高等学校で習うものまで様々であった。

 そのほとんどは上級民のうちでは人並みにこなせる程度に予習や復習を努力してきたし、学ぶことを楽しいとも感じていた。だが、そんな教育は僕の心を温めることは無かった。数式とマナーというマニュアルが生み出す決まり切ったルーティンの波に飲まれていただけだった。しかし、そんな中で僕の心を変えた授業が一つだけあった。

 デスバトルマッチのプレイヤーの養成とその扱いに関する授業だ。

 初めてその子を見たときは冗談かと思った。講師のマクレファン先生が連れてきた白髪の髪と紅い瞳をした少女は静かな瞳で僕を見つめていた。その子の服装は上級民に対して引けを取らない程清楚で、かつ彼女の白い肌の色と細く、手折れば折れてしまいそうな体を極限まで魅力的に彩っている。しかし、髪はショートで、特に目立った装飾品も身に着けてはいなかったため、着ている服が服ならば美男子のように見えなくもなかった。少女に軽く微笑みかけるが、彼女は深々と礼をするだけで、微笑み返されることは無かった。


 「彼女、というのも憚られる悪質な代物だが……彼女には初等的な実践訓練は積ませているが、まだ実戦に出せるレベルではない。なにせ、マーケットの安物だ。つい先日出回ってきたものをその場で買い取っただけだからな。彼女はメンタル面も弱く、自身が殺されそうになると恐怖する悪癖がある。だが、ゲームにおいては見た目による印象操作も重要だ。そのため本来の身分に似つかわしくない恰好をさせることもゲームでは珍しくない。特に彼女はアルビノという珍しいタイプだ。アピールのインパクトにはもってこいだろう。プレイヤーが目立たせ、ゲームのカメラを利用し家の名前を広げる格好のアピールチャンスなのだ」


 マクレファン先生の言葉に対して、当時は特に何も感じなかった。人には優劣があり、我々は選ばれた側で、そうでないものは搾取の対象に過ぎないと教え込まれていたからだ。だから、経済の授業では没落した上級民から金を巻き上げて破産させ、下級民へと叩き落としたこともあった。交渉術では、相手を「言葉のあや」で騙し、服ですらも売り払う必要になるまで追い込んだこともあった。当時は心の痛みなんて知らなかった。常に感情を殺して生きてきたから。自分が相手ならと感じたこともなかった。だから当時はそんな残酷なことも平気でできた。

 だが、体への直接的な痛みには敏感であった。兄様から殴られる痛さを教えてもらったから。だから、僕は交渉術で相手に暴力を加えたことは一度もなかった。先生の指導で何度教え込まれても、実践することは無かった。

 それに僕は読書が好きだった。兄様は僕が図書室にいるのを嫌っていたものだから、奥の蔵書室の片隅にある薄汚れた数世紀も前の本を読むしかなかった。そこには人間の平等性や、愛、誠のこころ、道徳的な決まり文句など、チープで空想的な世界が描かれていた。僕はそれを異端なものへの単純な興味でしか見なかったが、ここにきて突然その本の内容が脳裏にチラついた。「殺されるのが怖くないい人間などどこにいる!」と言ったのはどの本の主人公だったか。憶えてはいないが、彼の言葉は確実に僕の心に染みついていた。

 そしてマクレファン先生の言葉と重なり、ふつふつと何かが沸き始めた。疑問、いや、違う。これはなんだ。


 「上級民に必要なのは、この役立たずの代物を恐怖で支配し、服従させ、ゲームで勝利させることである。それが他の家に対しての牽制として大きく働き、ビジネスでも発言力を増す効果があるのは知っての通りだ。そのため日々、我々はプレイヤーを技術面でサポートする必要があるのだが、今回はそれを省く。彼女には既に鈍痛化神経移植手術と強化型人工筋肉の埋め込み手術を施している。体内、膵臓付近には位置情報管理システムとバイタルサイン管理システム複合型の総合インプラントも埋めてある。一応プレイヤーとしての最低限の機能を追加している」


 マクレファン先生は淡々と授業を進めた。だが、僕はいつものように集中することなどできなかった。「誰が好き好んで親から貰った大事な体に手を加えるかよ……」「人間捨ててまで生きようとは思わないね」「どうして……どうして自分の体を、大切にできない人が、こんなにもたくさんいるんですか!」本の内容が頭から離れない。色々なジャンルの本が混ざりあい、混濁の渦の中で反響する。

 そして、それらの言葉がやがて一つの言葉にまとまる。「かわいそうだ」と。

 今まで感じたこともない感情が心を支配する。もちろん辞書的には「かわいそう」の意味は知っていた。だが、柳ケ瀬家の教育は僕にそれを思うことを許しはしなかった。指導者たるもの常に堂々と、冷徹に、同情を捨てて論理的に利益を生むことだけを考えろと言われ続けてきたからだ。


 「そして、彼女は他のプレイヤーにはないシステムを搭載している。首の後ろに金属のプレートが埋めてあるだろう」


 マクレファン先生はその少女を強引に回し、僕に首の後ろを見せつけた。

 そこには正六角形をすこし崩したような不思議なデバイスが張り付いていた。柳ケ瀬の技術力のおかげか、少女の体に埋め込まれた者とは思えない程丁寧に取り付けられていて、そう、表面に張り付いているだけのように見えた。手でぬぐえばポロっと取れてしまうような。

 少女はマクレファン先生に姿勢を戻すように伝えられ、振り返った。その表情に色は無く、ただどこまでも真っ白であった。


 「これは柳ケ瀬エレクトロニクスの技術力の結晶だ。近年、ゲームでの下級民の需要は高まりつつあるが、ゲーム終了時まで生き残る人間は少なく、下級民の人口は減る一方だ。そろそろ「再生」を視野に入れた制度化を進める必要がある。それは世界中で需要があるため利益を得るためのジャックスポットとなっている。そこで柳ケ瀬エレクトロニクスが試験的に開発したのがこれだ。NAB、ネットワークアタッチドブレイン。脳内の記憶情報をデジタル化して送信する機械だ。これから発せられる電波を受信し、我らが柳ケ瀬のデータセンターに保管する。そして彼女が死んだ際は、そのデータを引き出し、予め作ったクローンの体に入れる。そうすれば、彼女は死ぬことがなくなる。このようにプレイヤーを再利用することでそのジャックポットに玉をいれるのだ。特に、データセンターの利用料を取るように制度化すれば、我々柳ケ瀬家はさらに莫大な富を得られることだろう」


 言葉にはならない。僕はその感情を言葉にする方法は知らない。だが、僕の中の彼女への同情は同時に僕の心を駆り立てた。どうしようもない感情のやり場に困りながらも、僕は顔をマクレファン先生に向け、少し下から見上げることしかできなかった。


 「おっと、確かにこの技術は不死身になるための方法に見えるだろうから、むしろ上級国民向けにサービスを展開したほうが利益を生むように見えてしまったかな。陽人は確か現代社会の成績は悪くない、その思考にたどり着くのも不思議ではない。だが、よく考えて欲しい。自分の記憶を移しただけのクローンは本当に自分自身なのか。もしかしたら記憶が同じであるだけで全くの別人ではないか」


 違う、そうじゃない。僕が思っていたのはそんなことじゃない。利益に今は興味なんかない。

 もっと、こう、単純なものなんだ。21世紀の人たちが当たり前に言えたあの言葉。


 「そのような倫理的な問題で上級民にこのサービスを展開するには他の家からの視線的に難しいのだ。だが、下級民のプレイヤーは見た目と行動が変わらなければ何の問題もない。だから柳ケ瀬エレクトロニクスはゲームのプレイヤー向けにこのサービスを展開する予定なのだ」


 気づいたときには口が勝手に開いていた。


 「マクレファン先生。金と人の命、どちらが大切かなんて決まり切っているでしょう?」 

 「ああ、そうだ。君が正しい」本の誰かがそう呟いた。だが、今は21世紀ではない。そんな考えは書庫の奥で腐りきってしまっていた。先ほどまで何も言葉にしなかった僕が言葉を発したことで、少し驚きを見せつつも、「答えなんて決まり切っている」とばかりにマクレファン先生は言った。


 「命といっても、人によって価値が異なるものを金と比べることなんてできるわけがない。我々上級民の命は金よりも大切だ。なにせその上級民の命が金を生むからな。だが、下級民は同だ。我々の金をただ浪費するだけの金食い虫だ。そんな連中の命が金よりも重いわけがないだろう」


 もはや住む世界がどこかずれていた。僕は兄様の影響で家の外に読書をしている時間が多かったから21世紀の思想が少なからず心に訴えかけてきた。だが、マクレファン先生は、本当に、「命が平等に尊い」という考えが分からないのだ。

 そのもどかしさに僕は若干の怒りを覚えた。

 ……怒り、そうだ。僕は彼女の扱いに怒りを覚えているんだ。


 「どうして、命に差があると考えるのですか。見てください。彼女も、我々と同じ人間じゃないですか。どうしてそこに、わざわざ差別を加えるのでしょうか。ただ僕らも、彼女も生きているだけではないですか!そこに価値の違いがあるとは僕は考えません」


 「……二度と同じ言葉を口にするな。こいつと俺が同等なんて、吐き気がする」


 マクレファン先生は心底気分が悪くなったらしく、今日の授業はそこで打ち切られることとなった。後にその話を聞いた兄様は僕をゴルフクラブで殴りつけていたような気がする。その何百万もするシルク製のスーツにしわができるのも気にせず、ひたすらに僕を恨めしい目で見つめていたのを覚えている。だが、一番記憶で頭に残っているのは、あの授業後に僕に見せた少女の驚いた表情であった。授業中一度も感情を見せなかった彼女が初めて見せた感情らしい感情であった。


 それから何ヵ月かはゲームの授業が続いた。マクレファン先生はあの日以来僕を奇妙なものでも見るかのように「観察」していたように見える。少女もあの日のような表情をすることはその間一度もなかった。

 授業内容は簡潔で、ゲームのフィールドを模した小さな体育館のような場所で、彼女がプラスチック製のダミー人形を打ち抜くさまを見て、戦略的にどう動いたら良いかを考えるだけであった。そしてそれを先生に伝え、僕に指導を加えてより良い解法を教え込まれた。僕自身も射撃や、戦術の指導は他の授業で習っていたため特に大きな間違いをすることがなく授業は進められた。

 だが、彼女がマクレファン先生の指示通りに動かないことがあると、先生は彼女の頭をひっつかみ大声で怒鳴り散らした後、床に投げ捨て腹を踏みつけるのだ。それがあまりにも過激で指導の域を超越しすぎていたので先生に抗議したこともあったが、兄様から「今度マクレファンの授業で反抗する姿勢を見せたのなら、あの白いドブネズミがどうなるか楽しみだな」と言われてしまったため僕にはどうすることもできなかった。

 僕にできたのはできるだけ正解の戦術を考えて、早めに授業を終了させるよう努めることだけであった。あの日から僕は授業中に彼女に感情移入しないようにと接触を禁止されていたためお互いに意志の疎通はできなかったが、時々目が合うと僕は微笑みかけるようにしていた。それがなんの慰めにもならないことはわかってはいたが、彼女と目が合う回数が日に日に増えていった(ように感じただけかもしれないが)のは僕の自己満足を満たすのには充分であった。


 そして、授業が始まってからちょうど半年が過ぎようとしたころである。


 「陽人。そろそろお前も彼女に指導する頃合いだ。私が判断するに、お前は既にゲームでの立ち回り方の戦術はそこらのなりそこないの上級民より上出来に思える。だが、その戦術は幾ら頭で考えてもゲームでは何の役にもならない。プレイヤーに直接叩き込む必要がある。いまから俺がやるように同じことをしてみろ。躾に一番効くのは痛みだ。頭はすぐにものを忘れるが、体で覚えたことはなかなか忘れることは無い」


 いつもの通り僕は予習を済ませていた。最近では兄様の目を盗んで図書館からゲームに関する資料を拝借し、正解の戦術を頭に入れるようにしていたからだ。

 それが彼女のためにもなるしきっと何か希望が見えると信じていたが、僕が授業を早く進めるほど、実戦的な指導方法についての授業が始まるのが早くなることを考えられてはいなかった。


 「よし、それじゃあはじめるぞ。今回はプレイヤーが打ち込まれた銃弾への応急処置を2秒遅く行ったことへの罰として指導を行う、という設定だ」


 まるでなんてことないことをする準備のように、先生は皮でできたベルトを手に持つと、


 「おい、ドブネズミ。お前が何をしたのかわかってるのか?あ?」


 と少女に思い切り振り上げたそれを叩きつけた。


 「っ……。申し訳、ございません」


 少女は苦痛を漏らすわけでもなく、ただ耐えていた。した憶えのない罪で理不尽な暴力を加えられたとしても、それを抗議するのは意味のないことであり、痛みに叫ぶことは体力の無駄であると判断しているのだ。

 

 「柳ケ瀬家の利益となれることを光栄とも思えないその残念な腐った脳みそで何を考えられる!ただ俺のいうことだけを聞いていればいいんだ!お前はただの駒だ!使われることだけを考えろ!言うことを聞かない駒なんぞただのゴミだ!いや、むしろただのゴミを駒として使ってやると言ってるんだ!そのような寛大な心を持った俺に歯向かうとどうなるか、教えてやる!回復に2秒も無駄に使っていたのでは他のプレイヤーに隙を見せているようなものだ!お前が死ぬのはどうだって構わないが、柳ケ瀬家の名に泥を塗るのだけは許さない!くたばるにしてもせめてカメラに写らないところで野垂れ死ね!ゴミにふさわしい最後だと、そう、思わないか!」


 先生は再びベルトを振り上げると今度は少女の背中に叩きつけ、背中をけ飛ばした、彼女は身長も小さい上、体格も女性らしい。それにマクレファン先生の巨躯がぶつかればどうなるかは一目でわかった。彼女は床に手をつき、土下座のような姿勢で謝り続けていた。その垂れた彼女の頭に足を踏みおろし、地面にこすりつける。

 彼女は「改造」されているとはいってもただの女の子だ。どれだけ取り繕おうともそれは変わらない。そして、いくら痛みに鈍くなっているといっても、痛いものは、痛いはずなのだ。


 「手順を言ってみろ!お前の惨めな姿をギャラリーに見せる気か!お前の汚らしい傷口を塞ぐ方法はなんだ!言ってみろ!」


 「っ……ふ、ファーストエイドキットを開いて、まずはゴムバンドで傷口の周囲を縛り付け、ます。そ、して……」


 「言うのが遅い!!」


 マクレファン先生は踏みつけた足を一度持ち上げると再び叩き下ろした。この体育館の床は都市フィールドの環境を再現しているためコンクリートや砂利などの硬い材質が多い。

 もはや目をそむけたくなるが、ここで目をそらしては彼女に申し訳が立たなくなる。一人だけ逃げてはダメだ。この現実を今はしっかりと見ておく必要がある。


 「ふぁ、ファーストエイドキットを開いて、ゴムバンドで止血します、それから、弾丸を傷口から、取り出して、っ……消毒後に、止血剤を、振りかけます。それから……」


 彼女は淡々と、それでいて必死に痛みを取り繕いながら、その続きを話す。


 「ふん、ゴミからネズミになった程度だが、内容は合っている。では、それを忘れないようにあと十回大きな声で話せ!お前は声が小さくて蚊の鳴く音に聞こえる。煩わしいその汚い声をせめて人様の言葉にしろ!」


 その拷問は1時間近く続いた。

 いつもの指導では僕がある程度カバーできる点があったため、反抗と捉えられない程度にマクレファン先生をごまかすことはできた。だが、今回はそもそも存在しない罪で彼女は責められている。兄様の言葉も相まって何もすることもできなかった。だが、僕の頬を流れる涙の熱だけは、どうしようもなく、隠すことができなかった。

 マクレファン先生に気づかれない程度に涙をふき取る作業も、鼻を小さくすすることも辛くなってきたころ、ようやくそれは終わった。そして、


 「こんなものでいいだろう。むしろ短いくらいだが、このまま続けていては陽人がやる時間が失われる。さて、既に大分弱ってきているから初心者のお前にも簡単にできるはずだ」


 マクレファン先生は僕にベルトを手渡すと、少女を再び立たせた。


 「さぁ、はじめてみるがいい。私が審査しよう。シチュエーションは先ほどと同様だ」


 少女は見るからにボロボロであった。服は裂け、そこから見える地肌は赤く染まっている。ところどころ出血もしているみたいであった。

 表情に色は無く、ただ、下を向いているばかりであった。自己を否定されつくして、自身がどこにいるのかもわからずに、生きる希望さえもとっくの昔に奪われて、それでも死ぬことは許されず、地獄の中をただ歩く痛さに耐える毎日。

 半年前より前の僕なら、どう思っただろう。もう、分からない。

 ただ、今の僕に、できることは……


 「え……」


 「君は十分に頑張っている。この家にいる誰よりも……。君は価値のない人間なんかじゃない。立派に前を向いて、歩いていいんだ。だから、もういいんだ。君が痛めつけられていい道理なんかない。僕だって今何を言えばいいかなんて分かんないけど、僕は、僕だけでも、君に優しくしてあげたいと思うんだ」


 僕は手に持ったベルトをその場に投げ捨てると、彼女のもとへ駆け寄り、その小さすぎる体を抱きしめた。触ってみて、改めてわかる。決して強くはないその体で、いったいどれほどのものを背負わされてきたのだろう。どうして、ただ金を持っていないという理由だけで、人はあれほどまでに残酷になれるのだろう。

 少女はただ僕の腕の中でおとなしくしていた。抵抗するわけでもなければ、何かを話すわけでもなかった。

 僕が半年間で学んだ人の心のぬくもりを、彼女に少しでも分けてあげたかった。僕だって決してそんな心が澄んだ人間ではないが、少なくとも理不尽な暴力が生む痛さは理解できる。だから、そんなとき僕が誰かにして欲しかったことをしてあげたかった。



 マクレファン先生は心底呆れ、軽蔑し、もはや「観察」する価値すらないと思ったのか、冷えた目で僕を見た。  

 そして僕を少女から強引に引きはがすと、


 「私が教える価値もないほどに、残念な頭だな。私はもう少しお前は賢いと思っていたよ」


 マクレファン先生は少女の腕を引っ張りその場から僕を置いて離れた。

 少女は半分引きずられるようにして運ばれていったが、その間、僕から視線を外すことは無かった。だから、いつものように僕は微笑み返したんだ。

 

 兄様にこのことが伝わったのはその日の夕方のことだった。

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