個人タクシーに乗った客
タクシー運転手という稼業をしていれば、心霊現象の1つや2つ、誰だって体験していますよ。
私みたいにドライバー歴が長ければ、恐ろしい思いを一度もした事がない運転手なんか、多分1人もいないんじゃないですかね。
この交館通博、憚りながら堺神タクシーに入社して勤続20年。
個人タクシーとして独立してからは、もう何年目か分からない程の長い年月、こうしてハンドルを握り続けているんですから。
色んなお客さんを乗せていますし、変わった出来事にも何度となく出くわしているんですよ。
新米だった頃、県立病院で乗せたお婆さんを自宅まで送り届けたら、お婆さんが座っているはずの後部座席が、蛻の殻になっていた事がありましてね。
御家族に問い合わせてみたら、そのお婆さんは私が乗せた日の前日に、県立病院で亡くなられていたんですよ。
あの時は私も、初心でしたからね。
その後しばらくは、夜に1人で乗車されるお客さんを見ると、思わず身構えたものでしたよ。
もっとも、そうした経験を重ねた今じゃ、そういう人間以外のお客さんは、乗せる前に見分けられるようになりましたけどね。
ある日の深夜、堺音楽大学の正門前で乗せたお客さんも、常人とは異なる雰囲気をお持ちの方でした。
「堺区明神町北1丁目へ向かって下さい。そこに姉が住んでいますから。」
そう仰って後部座席へ乗り込まれたお客さんは、年の頃なら20代前半。
芸術家気質の繊細な感受性を匂わせる、儚げな美貌の娘さんでしたね。
「お客さん、こちらの音大の学生さんですか?」
「卒業生です。母校が懐かしくなりまして…」
私の何気ない世間話に、後部座席の娘さんは俯き加減のまま、か細い声で応じるのでした。
まるで、バックミラーに顔全体が写るのを、極力避けているようでしたね。
「ひいっ!」
すると今度は娘さん、反対車線ですれ違ったトラックをかわすように、車内で身を翻すじゃないですか。
「ああ、トラックが…」
挙げ句の果てには、トラックとすれ違って随分経つのに、自分の肩を抱いてガタガタと震えるんですよ。
どう考えても、この方は普通のお客さんじゃない。
そう確信した私は、適当な路肩に車を寄せ、こう問いかけたんです。
「不躾な質問で気を悪くしないで下さいね。お客さん、この世の人じゃないでしょう?」
「どうして、それを?」
驚いたのはむしろ、娘さんの方でしたよ。
「こういう商売を長い事続けていると、何となく分かるんですよ。良かったら、話して頂けませんか?貴女も未練が残っているから、この世を彷徨われているんでしょう?」
「はい、実は…」
後部座席の娘さんは、顔を少し俯かせたままの姿勢で、ポツリポツリと切り出してくれましたよ。
私が乗せたお客さんは、堺音楽大学でピアノを専攻されていて、プロのピアニストとして将来を嘱望される程の素晴らしい腕前だったそうです。
ところが可哀想な事に、プロデビュー直前で暴走トラックに轢かれて、そのまま帰らぬ人になってしまった…
ピアニストとしての夢半ばで命を散らされた無念の想いが、余程強かったのでしょう。
事故から10年余りが経過したにも関わらず、彼女は未だに成仏が出来ずに、音大や実家の周辺といった、生前に縁のあった場所を彷徨っているそうです。
「私の知っている人達は、どんどん変わっていくんです。大学の先生の中には退官される方もいらっしゃいますし、姉さんは結婚して娘まで産まれて…」
-このまま現世に留まっていても、「周囲の人から切り離された」という事実を突き付けられるだけで、かえって辛くなる。
そんな説得の文句が、私の喉元まで出かけていましたよ。
しかし…
「私にとっては姪に当たる子なんですけど…その子、私に憧れてピアノを習っているんです。でも、スランプに陥っていて…もうコンテストまで、時間が無いのに…!」
それで姪っ子さんに手助けをしてあげたくて、お姉さんの家に行きたかった。
そういう事でしたか。
「何はともあれ、まずは顔を拭いて下さい。事故の時の血が顔から垂れていては、幾ら貴女の姪っ子さんでも驚いてしまいます。」
「あっ…!ありがとうございます!」
私がハンカチを差し出すや、件の娘さんは飛びつくように受け取ったのです。
バックミラーを覗き込みながら入念に血を拭い取り、化粧と前髪を整える辺りは、幽霊と言えども年頃の娘さんなのですね。
そうして身なりを整えれば、その美しさは輝かしいものでしたよ。
生者でないのが、悔やまれる程にね。
「それでは行きましょうか。姪っ子さんの手助けに。」
「お願いします、運転手さん。」
バックミラーの中で微笑む娘さんに笑い返しながら、私は愛車のアクセルに力を加えたのでした。
そうしてハンドルを握る事、おおよそ10数分。
目的地である堺市堺区明神町北1丁目の住宅地に、私達のタクシーは到着致しました。
「あちらの笛荷さんという御宅が、貴女のお姉さんの御自宅ですね。」
「その通りです、運転手さん…姉夫婦と、姪の千恵子が住んでいる家です。」
表札を読み上げる私に、後部座席の娘さんは小さく頷かれました。
「お代はご心配なく。幽霊のお客さんからは、お代は頂かない事にしているのですよ。」
私のタクシーは、三途の川の渡し舟じゃありませんからね。
なけなしの六文銭まで取り立てちゃ、私の方が祟られちゃいますよ。
「ただし、これだけは約束して下さいよ。姪っ子さんを裏切る事だけは、決してしないで下さい。」
「はっ…!?」
思いの外に、厳しい口調になってしまったようですね。
後部座席の娘さん、思わず息を飲んでしまっていますよ。
この分だと私の顔も、随分険しい面構えになっていたんでしょうね…
「話を聞く限り、姪っ子さんは貴女の事を敬愛し、慕っています。ピアニストとしても、そして親戚としてもね。そんな姪っ子さんを冥府への道連れにしたり、力強くで身体を乗っ取るような真似は、決してしないで下さい。」
しかし、これだけは確認しなくてはいけません。
私のタクシーに乗車頂いたお客さんが生きている人々に迷惑をかけるなど、あってはならないのですから。
「貴女が姪っ子さんに不義理を働かない限り、決して悪いようにならないはずです。約束出来ますね。」
「勿論です。御約束致します、運転手さん。」
後部座席からの、毅然とした返答。
それを聞いて初めて私は、左側後方のドアを開けたのです。
ここで駄々をこねるようなお客さんなら、無理にでも成仏して頂く所なのですが、あの娘さんなら大丈夫でしょう。
「色々とありがとうございました、運転手さん。でも、よく幽霊の私を乗せて下さいましたね。」
「降りて頂けたら、自ずと分かりますよ。」
私の返事に華奢な小首を軽く傾げながら、ピアニストの娘さんはタクシーを降りられたのです。
「乗った時は気付かなかったのですが…なかなかクラシカルなお車ですね。」
この娘さん、どうやら随分と育ちがよろしいみたいですね。
こんな数10年も昔に廃版になった車を、「クラシカル」だなんて。
「私のタクシー、かなりの年代物でしょう?こんな古い車種だと整備は大変だし、車検代だって馬鹿にならない。真っ当に生きている運転手なら、とっくに買い換えてますよ。でも私の場合、コイツにしか乗れなくてね…」
気付けば私は、愛車のハンドルを撫でてたんです。
回送中にトレーラーの横転事故に巻き込まれ、高架に突っ込んで爆発炎上してから、このタクシーと私は切っても切り離せない仲になったんですからね。
「えっ…?それでは、貴方も…」
「貴女も同じ幽霊じゃないですか、お互い様でしょ?」
玄関先で私の話を聞く娘さんの顔が、見る見るうちに強張っていきますよ。
10年前後も浮遊霊として現世を彷徨っていたのに、私の正体に気付いた途端に驚くんですからね。
全く、可愛いもんです。
「お客さんみたいに彷徨っている幽霊の方を見かけると、私が率先してお運びさせて頂くんですよ。生きている運転手がみんな、幽霊の扱いに慣れているとは限らないでしょう?」
言うなれば幽霊ドライバーである私なりの、生者と亡者両方に向けた人助け。
私だって、後輩の運転手に怖い思いはして欲しくないし、成仏出来ない幽霊を見るのは忍びないですからね。
時には今の娘さんみたいに、お悩みの方の相談相手になってあげて、背中を押してあげる事だってありますよ。
「それじゃ、私は車を回送させますね。姪っ子さんのお気持ちを尊重してあげれば、きっと貴女にも良い事があるはずですよ。」
「は、はい…ありがとうございました…」
件の娘さんは呆気に取られた顔で、私のタクシーを見送っていましたよ。
この回送の仕方じゃ、無理もないですよね。
車体全体が蜃気楼みたいに消えていくんですから。
こうして回送した私とタクシーは、いつもの場所に戻っていたのです。
「相変わらず、ここに来ちゃうんだなぁ…私も未練タラタラって事か。」
休憩も兼ねて高架に背中を預けた私は、ポケットから取り出した煙草に火を付け、静かにふかし始めました。
その足元には、私の曾孫に当たる女性の手向けた花束が活けてありましたよ。