人間しか食べられません。何でもしますからご飯をください。
ある晴れた午後の昼下がり。
ミゼットはいつものようにお弁当を持って、お母様から言いつけられた洗濯物を川で洗っていた。
鼻歌を歌いながら空を舞うカワセミを見上げて今日という日を楽しんでいる。
彼女は母親の言いつけも本当に素直に聞く良い子で、この森に現れる白い人食い鬼の話も十分承知していた。
「……、よし、ちょっと休憩しようかな」
おひさまも空のてっぺんまで上がってるし、お弁当でも食べてしまおう。木陰に置いたバスケットからお弁当を取り出して、近くのお花畑に移動する。
ここはとても涼しい。一際大きな風が吹いて森がざわめく。
シンと。一切の気配が消えた。
人の声も、鳥の声も、風の声も、森の声も。
何もしない。何も聞こえない。
「……すごく静か」
ガサガサッ。
「だれッ?」
森の木々を分け入って茂みの奥から現れたのは。
白い肌に黒い瞳。鏡のように周りの光を白く弾く長い髪。
顔は卵型の輪郭で、 筋肉質な体には一切の脂肪が無い。
着ている服の全身のパーツが別々になっており、鎖骨下で結ばれた一本の紐でつながっている。 二の腕の覆いと袖、ショートズボンと裾は、上着に吊り下がってるような格好だ。
歳は十九ほどか。華奢な体型や長い髪、ささやかな胸の膨らみから少女と見える。
穏やかな顔つきで、手で眉に庇を作りながら眩しそうに空を見上げている。
その姿は、ミゼットにとって、堪え難いほどに美しかった。
でも彼女は口をつぐんだ。森の中で白い人を見かけたら、話しかけてはいけない。姿を見られてもいけない、と母にきつく戒められていたからだ。
だが、良いのではないか。 たかが容姿が違うからといって、そこまで警戒する必要はないではないか。ミゼットはそう考えた。
「こんにちはっ」
挨拶が口をついて出た。
言いつけを破ってしまった……。これで本当にいいのだろうか。そう思う間もなく、 白い少女はこちらを向いて、屈託なく微笑みかけてくれた。
「こんにちは。今日はとてもいい天気だね」
それもとびっきりの笑顔。後悔なんて吹き飛んでしまった。
「ハイっ!本日はお日柄もよく、ええっと、えっと……」
ミゼットが緊張しすぎて、堅苦しいゴアイサツをしていると、 思わず、白い少女は吹き出してしまった。
「ふっ、ふふっ、あははっ、アハハハハっ」
「え、っと」
よほどツボにはまったのか、腹を抱えて転げまわる彼女の大笑いは止まらない。ミゼットはいよいよ困り果ててしまった。
わらって、笑って、咲って。ようやく満足したらしく、口を腕で押さえてあぐらをかき、くつくつと静かに笑っている。
じいっと、互いの顔を見つめあう。ミゼットにとっては珍しい髪の色をした彼女が不思議だった。でも白い少女はそうではないようだ。
「よし、顔を覚えたよ」
「……? そんなことをいちいち口に出すなんておかしな人ですね」
「よく言われるけど、十歳くらいかな? それくらいなのに、はっきり意見の言える君の名前が知りたい」
ニヤニヤと笑いながら、白い少女はからかうように名前を尋ねてくる。
「もうっ、十三才ですよ! 子供扱いしないでください」
「ごめん、ごめん。謝るから名前、教えてよ」
ミゼットは、プイっと横を向いてふてくされる。
「ミゼットです」
「いい名前だね」
「ありふれた名前ですよ」
「そんなことない。いい名前だ」
「いいえっ!ありふれてますっ」
「だから、そうじゃないってのに!」
仲がいいのか悪いのか、じろじろ睨み合う。お互いに苦しい。
「どうしたら睨むのをやめてくれるか」
「人の名前をしつこく褒めそやせるなら、自分の名前に劣等感があるはずです」
「だからなんだ」
「あなたの名前を聞いて、面白かったらやめます」
「アイル・イン」
「奇妙な名前ですね。却下です」
「ひどいなあ」
やがて、にらめっこに耐えきれなくなって、白い少女はミゼットのバスケットに視線を落とす。
「そろそろ、お昼ご飯なのかい」
「そうですけど」
アイルは、少し長いまつげを、ゆっくりと開いて、濡れた瞳でミゼットのとぼけた顔を、悲しそうに見つめる。
「食事は、とっても楽しいって、本当?」
冷たい風が吹きすさぶ谷を見下ろしたら、きっと、こんな声がするのだろう。寂しげで、とても荒れた声音だった。
「えっ……。は、ははっ。楽、しい、ですよ?」
「…………どうして?」
「……だって、気分転換になりますよ? それに、みんなと食べたらもっと美味しいですから」
何か不穏なものを感じながらも、おかしなことを聞くなぁ、と思いながら、当たり前のことを当たり前のように答える。
アイルは目を伏せて、そうか、と一言こぼした。
「なんで、そんなこと聞くんですか」
白い少女は、俯いて何も話さない。
白い少女はうずくまり、しばらく経った後にゆっくりと口を開いた。
「食事は、お別れの時間だから、とても辛いんだ」
「それは、何か、心のご病気とか……。その、負われているんですか」
「気を遣ってくれているんだね」
「それは、もちろん」
「ありがとう。ささやかなお礼だけど、少し打ち明け話をするね」
これから重大な話がされるのだ、という予感がした。だからミゼットの姿勢は、自然と正しくなっていった。
「ボクの家族は、全員、人間しか食べれない病気なんだ。それも、同じ病気の人は食べることができない」
ミゼットは鋭く息を飲んだ。 二の句が継げず、鼓動が昂ぶってしまう。
それは、なんて、悲しいことなのだろう。
「人間を食べる事は、悪い事なんだってね」
「いえ……、それは」
だって、アイルさんにとっては必要なことなんだから……。
「事実だろう」
「……ええ、おっしゃる通りです」
「素直に認めてくれて嬉しいよ」
腹が鳴る音が響く。二人は、お互いのことを思ってこの上なく苦しむ。
「ボク、お腹すいた」
「…………」
ミゼットは、この白いお姉ちゃんがとてもかわいそうに思えた。そして、おもむろに意思を固め、バスケットの底から薮払い用の短刀を取り出す。
「えっ、な、なにを」
彼女は黙って、そのまま。
肩までかかる長い髪をバッサリと切り落とした。
「はい」
白昼夢でも見てるかのような顔つきで、空気を含んだ栗毛を賜る。
「おやつだよ」
ただでさえ濡れていた瞳がさらに潤んで、後から後から涙がこぼれだす。
「う、ああぁっ、わあぁっ……。ああっ」
「……アイルさん」
髪の毛を、愛おしそうに抱きしめる。ひだまりの匂いが、髪の毛があんまりにも優しいから。
「アイルさん、食べましょう。食べていいんです。美味しいと思っていいんです。あなたは何も間違っていない」
「ごめん……っ、なさいっ。生きていて、ごめんなさいぃッ……!! わああああっ」
ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も何度も謝りながら、髪の毛を口に運ぶ。
アイルは背徳感と恍惚と、感動と美味しさで 自分がわからなくなるほど多幸感に満たされていった。
一時的ではあった。だが自分の存在が、少しの間でも間違ってないと認められた気がして、それがただ、嬉しかった。
ミゼットは、アイルのそばに寄り添って、食べ物が喉につかえないように背中をさすってやった。それは彼女を慰めるためでもあった。
そのおかげで胸に詰まっていた思いが取れて、ようやく味をしっかりと楽しめるようになっていった。少しずつ、少しずつ、なくならないように、噛みしめるように髪の毛を食べていく。
「最後の、一本」
はむっ、と その一本を噛み締めた途端、塩味と豊かな食感がアイルの口腔に広がった。
「んっ、旨っ……!」
「多分その髪の毛、一番汗が染み込んでいます」
「……うん。最後の一本が、当たりでよかったぁ」
はふぅ、とアイルは満足気に吐息を漏らした。目を閉じて、しっかりと余韻を楽しむ。
「美味しかったですか」
「ああ、とても。本当にありがとう。 これでしばらくの間人を殺さずに済む」
それを聞いて、ミゼットは敢えて大きく笑い飛ばした。
何がおかしいって、愉快だったからだ。
やっと人の役に立てると思って、心底愉快だったのだ。
もうこれで寂しい思いをせずにすむ。
「大丈夫ですよ」
アイルが、どうにも怪訝な顔をする。それから、思い当たる。
「私を、少しずつ食べてください。髪の毛だけで足りなかったら、爪を食べて、むいた皮を食べて。私が怪我をしたら、血を飲めばいいんです」
明日のご飯の話をするみたいに、平凡な笑顔で血肉の話をする。ミゼットは、それで人の役に立てるなら、間違ってるとは思わない。
「でもッ、それじゃあ君は、いつか……」
「わたしね、ご飯を食べるのが大好きなんです」
「…………」
「だからアイルさんの辛い気持ちが、よくわかります」
「うちは貧乏で、最初は私の上に5人兄弟がいたんですけど、 わたしを除いた一番下の妹と、 3番目のお兄ちゃんは、売られちゃいました」
「……。平然と、そんなことを言うんだね」
アイルが沈んだ声色で厳粛に尋ねる。
ミゼットは、よくある話ですから、と寂しそうに笑い返す。
「大人の話し合い、ちょっとだけ小耳に挟んじゃったんですよね」
傾き始めた日差しをくぐり抜けて、大きな鳥の群れが高い青空を悠然と渡っていく。それをミゼットは、眩しそうに見つめていた。
「次はわたしを売ろうって、決まっちゃったみたいです」
「ならっ、ボクの家に」
立ち上がり、言いかけてアイルは唇に人差し指を立てられた。
「私を保存食として、備蓄してくれませんか?」
肩の力がへなへなと抜けて、アイルは悄然と頷いた。
「……喜んで」
この娘には一生敵いそうにないなぁ、と アイルは思った。
わかりやすい悪が、必ずしも悪とは限りません。
好き好んで不幸になったわけではなく、その不幸を背負いながら、必要に迫られて罪を犯してしまう人のことを誰が責められると言うのでしょう。
もしかしたら被害者よりも、本人の方がよほど苦しんでいるかもしれないのに……。
あなたは、そんな業を背負った人に、優しく接することができますか?






