第三話, 「欲情できるようになったら付き合ってよ 」
「あー、この後テストかぁ」
新一年生も交えた始業式もつつがなく終わり、ゾロゾロと生徒たちが体育館から教室に戻る最中、おれと蓮也も例外なくその波に乗っていた。
「範囲は前回のテストと変わらないからそこまで問題ないだろ」
「前回と一緒って一年の全範囲だからな。問題ないとか言えるトップ2の感覚が怖いわ」
「そういうお前こそ毎回しれっと50位以内には入ってるだろ」
「ぴったり50位な!そこんとこよろしく!」
「別に50位なら十分だろ」
「わ〜、お前ほどの学力がなけりゃ完全に嫌味だわ〜。ほんっと、お前と立花さんは別次元だよな。もう学年で共通認識にまでなってるし」
蓮也の話を聞いてそんなものなのかと思う。昔は勉強は得意どころか苦手な分野だったんだけどな。
「でどうだ?今回は立花さんに勝てそうか?」
「さあーどうだろ」
「三勝四敗。ここで負け越したら覆すのはしんどそうだぞ」
「別に争ってるわけでもないんだが」
「とか口では言ってるけど負ける気なんか更々ないくせに」
「当然」
負けず嫌いだなあと横で蓮也が苦笑しているところ、突如としておれは後ろから手首を掴まれてそのまま勢いよく引っ張られていた。
「えっ…ちょっ…」
「あれ、奏人?」
蓮也はおれに気づくことなく、おれの手首を掴んだ主に連れられて生徒の流れを掻き分け、人目のない踊り場へと連れてこられた。
その相手はとてもよく見知った顔、というかこんな強引におれを引っ張るやつをおれは一人しか知らない。
「急にどうしたんだ、菜々?」
掴んでいた手を離し、むすっとした表情で腕を組み直した彼女はこちらを睨んでいる。
「別に。今朝のことで話があっただけよ」
「ああ、そのことか。おれも少し話したいと思ってたからちょうどよかった」
「奏人も?」
「いやまあ。今朝はその…何というか、色々と悪かった。流石にあの断り方はなかったと自分でも思う」
「っ…別に謝んなくていいわよ。あれがあんたの本心なんだろうし、あたしもあんたを叩いたこと謝りたくないもの」
菜々なりのプライドというやつか。彼女にも譲れない部分があって、そういうところをはっきりさせているのは格好いいと思う。
本人には言えないけど…
「なら菜々の話ってのは?」
「それはその…もう一度確認なんだけど、あたしと付き合うのはやっぱり無し?」
腕は組んだまま、けれど少しこちらの様子を窺うように菜々は問いかけてきた。
まさかそれをもう一度、しかもこんなすぐに聞かされるとは思いもしなかったので素直に驚く。
それでもまあ、やはりおれの気持ちは変わらないわけで。
「悪いけど…無し、だな」
「理由は、そういうことよね?」
そういうこと、とはおれが今朝告げた理由、『欲情できない』を指しているのだろう。とどのつまりおれは菜々を異性として見ることができていないということだ。
間違いではないので軽く頷きをもって返す。
「ならさ、あんたがあたしに欲情できるようになったら付き合ってよ」
欲情できるようになったら付き合ってよ
欲情できるようになったら付き合ってよ
欲情できるようになったら付き合ってよ
脳内で何度もリフレインするその言葉に、今度は自分の耳を疑ったので
「へ?」
などと気の抜けた返事しかすることができなかった。
「いや、『へ?』じゃなくてもっと他になんかないの?」
「いやだって、お前こそ何言ってんの?」
「だーかーらー、あたしで欲情できるようになったら付き合ってって言ってんの」
「いや、それの意味が分かんないだって…」
だめだ。菜々は自分の言うべきことは言い切ったとばかりの様子だ。こうなっては平行線、というより内容を掘り進めないと話が進まない。
一体どういう思考回路でそうなったのだ。
「えっと、どうしてそういう結論になった?」
「だって奏人があたしと付き合えないのは欲情できないからなんでしょ?」
「そう言ったな」
「ならさ、欲情できたなら付き合えるってことだよね?奏人はあたしのこと大切で幸せになって欲しいみたいだし」
「なるほど。そう言うことか」
実にシンプルな思考回路だ。
確かに一番の問題は『欲情できないこと』であると菜々に伝えた。
菜々としてはそこさえ解消できればおれが付き合ってくれると思っている。
けれどおれからしてみれば問題はそれだけではない。今の関係を壊したくないだとか、昔の蟠りをまだ解決できていないだとか、色々とあるわけで…
だがそれを余すことなく伝える事は憚られて…
だから、
「分かった。おれが菜々に欲情できるようになったら付き合うことにしよう」
そう答えるしか選択肢は残されていなかった。
「男に二言は?」
「無い」
「うんうん。これで契約成立」
「契約って……質問なんだが、その欲情ってのは自己申告でいいのか?」
「何……あたしに確認させようっての?」
「そういう意味で言ってないから」
「あやし〜」
こういう返しを自然にできてしまう時点でもう色々と減点だよな…
「ま、要はあたしが女としてあんたをドキドキさせたらいいだけでしょ?難しく考えなくてもいいんじゃない」
「……その辺はおいおい考えていくことにするか」
軽くため息をついてこれからのことを思案する。
選択肢を一つに絞り込ませ、おれが断れない状況を作り出したのが全て計算であったのならこの女、恐ろしすぎる……なんて心の中で軽く悪態を吐くぐらいは許してほしい。
純天然のコイツのことだ。いつもの思いつきで提案してきたのだろう。
はてさて、この先菜々は一体どんな面倒くさいことをやらかしてくれるのか、少し想像しただけで憂鬱である。
「何やってんのー?早くしないとテストに遅れるよ」
おれが自分の近い未来を嘆いていると、マイペースな菜々は既に目の前におらず教室の方へと向かっていた。
「あ、そうだ。奏人、家の鍵あたしに渡しといてよ」
「何で?」
「『欲情させる宣言』記念に奏人の家に遊びに行こうかと思って。どうせ今日奏人は同好会、だっけ?帰ってくるの遅いでしょ?だったら鍵があったら先に上がってられるし」
「そのネーミングセンスはともかく、まあそういうことなら別にいいけど」
ポケットから家の鍵を取り出して菜々へと投げ渡す。
「晩ご飯はどうする?」
「あたしが作るわよ」
「え…」
「『え…』って何よ?『え…』って」
「えっと、お前って料理できたっけ?」
「ふふん、幼馴染みの手料理なんて贅沢。自分の幸運に感謝しなさい。あたしが女子だってところ見せてあげるんだから」
「いや、おれは料理できるかどうかを聞いてるんだが…」
「細かいことは気にしなぁーい!覚悟しといてよね」
もう満足したとばかりに菜々は意気揚々とした足取りで教室へと戻っていった。
根拠のない謎の自信。
そこはかとなく不安だ…
ーー正午
「あぁ、疲れた……」
「おいこら蓮也、机を全力で前に押し出すな。椅子が固定されて立てないだろうが」
「まだあと三教科も残ってるのかよ……」
「あとたった三教科だ。それより机の位置を戻せって」
「………だるい」
「今のお前の方がよっぽどだるいわ」
蓮也はぐでーっとしたまま行動を起こしそうにないので、仕方なく自分の机を前に押し出して席を立つ。
「ほら、席が混む前にさっさと食堂に行こうぜ」
「お?奏人、今日食堂は休みだぞ?」
「……………マジで?」
「マジマジ」
「嘘だあ」
「いや始業式の日は食堂やってないから気をつけろって花爺さんも言ってたぞ」
「そうだったっけ…」
春休み前のことなどもはや記憶にない。
事前に覚えていればコンビニで弁当の一つでも買っていたのだが。食堂に行くつもりだったのでもちろん弁当など持ってきているはずもなく、さらには食堂が空いていないのであれば購買もやっていない。
つまり導かれる結論は、昼飯抜き。
「あ〜〜〜、やっちまった………」
「乙〜〜〜」
これは辛い。
ひもじい思いに耐えてのテストなんて拷問以外の何者でもない。
「ったく、仕方がないな〜奏人は。そんなお前には特別に、この焼きそばパンを進呈しt………」
「お兄ちゃん!」
蓮也の声を掻き消すかのように、教室中に響いた可愛い呼びかけ。そんな突然の来訪者にクラスがざわつく。
「誰の妹だろう?」
「赤いリボンってことは一年生か」
「……めっちゃ可愛くね?」
「お兄ちゃん!」
再度クラスに響き渡る呼びかけ。
だが悲しいかな。『お兄ちゃん』とそう呼ばれることができるのは一部の特権階級のみであり、残念ながらおれは一人っ子。特権階級を持ち合わせていない。
さあどこのどいつだ?そんな特権階級に甘えている愚者は?
「奏人お兄ちゃんってば!」
「奏人、めちゃくちゃ可愛い女の子に呼ばれてるぞーーー」
蓮也の突き刺すような白い目が痛い。誰が呼んでいるのか蓮也も知っているくせに。
「……………おれか」
クラス中の視線を受けながらスッと教室のドアの前まで足を運び、おれを呼んだ相手の元へと歩み寄る。
「外でその呼び方はやめろって言っただろ楓」
那須野 楓。
一つ年下で家がお隣の那須野家一人娘。くりっとした瞳に女子の中では少しだけ低めの身長。にも関わらず誰かさんと違って発育はしっかりとしており、いつも二つに分けたおさげをリボンでキュッと結んでいるのがこれまた可愛い。
そしてこの春からうちの高校に進学してきた後輩だ。
「別に呼び方くらい楓の好きにしてもいいじゃないですか。もう半分奏人お兄ちゃんの妹みたいなものですし」
確かに普段は互いに兄妹のように過ごしているのだが…
「クラスメイトの視線が痛いんだよ」
「あれ?奏人お兄ちゃんってそういうの気にしましたっけ?」
「気にはしないけど煩わしくはある。楓は可愛くて目立つから余計に面倒なことも多い」
中学の頃だって何度同じようなやっかみを経験したことか。本当の兄弟でないという事実が広まっていくにつれてどれだけ激化したことか…
「お、お兄ちゃん!今のところも、もう一回!」
「え、気にしないけど煩わしい」
「その後!」
「楓が可愛くて目立つ」
「〜〜〜っ!!!もう一回!」
「ケータイの録音機能セットすんな」
「あう…」
……それでもやっぱり可愛いものは可愛いな。
心が和む、浄化される、癒されるの三点セットだ。
「ん?そういや楓は教室に何しにきたんだ?」
「あっ、忘れるところでした。これうちの母親からです」
そう言って差し出されたのは水色の風呂敷に包まれた小箱の何か。
「これって…」
「お弁当です。奏人お兄ちゃんが学食でしか食べていない、って話をお母さんにしたらお兄ちゃんの分も用意してくれました」
「うわあ、すげえ助かる。仁美さんにお礼言わなきゃ」
「わたしもお手伝いしたんですからね?卵焼きにほうれん草とベーコンの炒め物はわたし作です!」
「楓もありがとな」
「……いつものあれ、してくれないんですか?」
「えっ、いや…人前だし」
ウルウルとした瞳で見上げてくる楓が何を要求しているかはおれにとっては手に取るように分かり、分かるからこそ躊躇うわけで…
「………ダメ?」
「……………………………………………いいよ」
そうしておれは楓の頭を軽く撫でる。
「えへへ…」
「シスコンだ」
「シスコンね」
「シスコンか」
「シスコン…」
「爆ぜろっ…」 「えっ?」
何やら嫉妬に満ちた怨嗟の声も混じっていたが、 クラスメイトが見ている中で頭を撫でると言う行為の引き換えに不名誉なレッテルを貼られてしまったのは致し方無い。甘んじて受け入れよう。
「じゃあ午後のテストも頑張ってね。あ、弁当箱はまた夜に返してくれたらいいって」
そう告げると楓は階段を昇って颯爽と自分の教室へと帰っていった。
おれはといえば受け取った弁当箱を手に自分の席へと戻る。
「あ、蓮也さっき焼きそばパンくれるって」
「その腕へし折ってやろうか、ぁあん?」
「だよな」
蓮也の塩対応はさておき、おかげで空腹に悩まされることもなく、昼休みから午後のテストにかけて穏やかに過ごすことができた。