第二話 宴
その頃、国王イザナギの家族が住む部屋では王妃イナツメと王女ヒミコがくつろいでいた。イナツメはヒミコの髪を自ら櫛を入れて整えている。さらさらとした黒髪は櫛でとかすまでもなく背中まで流れるような曲線を描いている。母としては成人を迎えた娘が自分のもとを離れていくようで寂しい。せめてこのつかの間の時くらいは娘に触れていたいというところか。
ヒミコは若く美しく、さながら国の宝といった美貌だ。きめ細やかな肌には化粧が施されて、唇には鮮やかな紅が引かれている。服装も儀式の時のような白一色の簡素な身なりではなく、紫色に染められた上着で着飾っている。ただ、化粧が施されていないうなじの辺りの地肌を見ると、血色が悪く青白い。やはり先ほどの儀式で疲れている色は隠せない。
「母上、わらわは化粧は好みませぬ」
「いけません。お客様をお迎えするのですよ」
ヒミコは祭壇を前にした儀式で気を失い、ここに運ばれた。その後、すぐに意識を取り戻したが、できれば体を休ませたいところではあった。しかし、王女という立場がそれを許さない。この後来客をもてなす宴が開かれる。それにはヒミコも出席しなければならない。しかも、侍女の知らせによれば、国王イザナギは客が連れて来た王子をヒミコの護衛に任じたというからなおさらだ。
「あなたに護衛がつくそうです。良かったではありませんか」
「どんな方なのでしょうか」
二人の様子を横に立って眺めていた若い侍女が笑顔で答えた。
「それはそれは凛々しいお方でした。歳は十五歳とうかがいました」
「凛々しい? 熊のような大きな方なのか?」
ヒミコは侍女の方に向き直った。
「これ! 髪をとかしているというのに」
母の声に慌てて、顔の向きを元に戻したヒミコに侍女は答えた。
「熊のようではないですね。そんなに大きくはありませんし。ただ、表情が引き締まっていて、頼りがいのある顔立ちでした」
「ふむ。スズメならば、そのお方を護衛に迎えるか?」
「それはもう。王子様ですし、いい仲になったら……あらやだ、私の方がだいぶ年上でしたね。ふふふふ」
部屋の中に三人の笑い声が広がった。
ヒミコは成人を迎えて鬼神と契約する儀式も行い、誇らしい気持ちを抱くと同時に少し寂しい思いも感じていた。これまで甘えてきた母親と離れ離れになるようなそんな気持ち。そんな中、こうして母親に髪を調えてもらっている時間はかけがえのないものに思えた。
そこに会談への立会を終えたヒバリが現れた。
「どうじゃ、ヒミコ。体の方は大丈夫かえ?」
「はい、ババ様。だいぶ疲れは取れました」
「そうか、それは良かった」
「ババ様もソナ国の王子様をご覧になられましたか?」
「ああ、見たとも。なかなかの強者じゃった。イザナギ様に食って掛かったりしてな」
「まぁ!」
ヒバリはヒミコの驚いた顔を見て、笑顔を見せた。
「なぁに、反抗的というよりは、血気盛んというやつじゃ。あれはなかなかの武人になるぞ」
ヒバリとスズメの話を聞いて、なんとなくヒミコの脳裏にソナ国の王子の印象が出来上がりつつあった。
「ところで、ヒミコよ。ひとつ話しておかねばならんことがある」
「なんでしょう?」
「イナツメ様、ヒミコと二人きりで話したいと思います。席を外していただけませぬか?」
「わかりました。スズメ、いきましょう」
イナツメは侍女を伴って部屋を後にした。残ったヒバリとヒミコは宴が始まるまでのしばらくの間、なにやら真剣な表情で話をしていた。
◇ ◇ ◇
客室として与えられた部屋でイワタツとヤヒコの親子は控えていた。宴が終わればヤヒコは人質として残され、二人は離れ離れとなる。
「父上、俺はここで恐ろしい物を見ました」
「イザナギ様に拝謁する前か。どこへ行っていたのだ?」
「我が国よりも大きな穀物庫があったので見に行ったのですが、驚いたのはその先にあった祭壇がある建物です」
「何があった?」
「バケモノです」
「バケモノ?」
祭壇といえば巫術師が儀式を行う場所だ。イワタツも戦場で巫術師が召喚した鬼神を目にしたことがある。しかし、巫術師の育成は難しく、小国であるソナ国では巫術師を保有していない。ヤヒコがそれを目にしたのならばバケモノと目に映るのも無理はない。
「炎が大きな鳥の形になって、言葉をしゃべりました」
「それは鬼神だ」
「きしん……ですか。父上はご存知なのですか?」
「ああ。戦場ではまれに目にする。剣の力であれを打ち破るのは困難だ」
しかし、そんな重要な場所をなぜ簡単に見せたのだろう。ヤヒコがまだ子供だと侮ったから? いや、あえてそれを見せて国力を見せつけたか。イワタツは国同士の駆け引きがこんなところでも始まっていると感じた。
「そこにヒバリ様もいらっしゃいました」
「ヒバリ様は巫術師だったのか」
「それと若い女の人も」
「二人も巫術師を養っているのか」
このヤマト国と敵対するクナ国でも巫術師を保有している。イワタツが戦場で目にしたのはそれだ。巫術師は大国の力を誇示する手段でもあるのだ。
「失礼いたします。お待たせいたしました。宴席の準備が整いました。ご案内いたします」
戸の外で侍女の声が聞こえ、会話が中断された。
「わかりました。ヤヒコ、行こう」
イワタツはヤヒコを伴って部屋を出た。
◇ ◇ ◇
宴席の場には八人の人物が揃って着席していた。
部屋の正面にヤマト国王イザナギ。その右隣には王妃イナツメ。向かって左の列に奥から順番に第一王子ミズヒ、第二王子カグツチ、王女ヒミコ。向かって右の列は三人の重臣たちの席。一番手前には長老ヒバリの姿も見える。入り口から入ってすぐの席は空いている。客であるイワタツ親子の席である。だが、まだ二人の客は席に着いていない。
多忙な王にとって家族が全員揃う機会はそうはない。この瞬間は貴重な時間と言える。国王のイザナギはヒバリに目を向けると尋ねた。
「ヒバリ、ヒミコの鬼神召喚の儀はどうであった?」
「驚きました。いきなり火の神を呼び出しました」
「ほう。巫術師として使えそうか?」
「私が四十になってやっと呼び出せた神です。十三にしてそこまでやるとは。見事というか、末恐ろしいというか……」
「自分の立場が危うくなりそうか」
「それは考えておりませんでしたな。これ以上教えるのはやめておきましょうか」
王子や重臣たちの笑い声が響いた。しかし、話題となっている当のヒミコの表情は冴えない。
「父上、わらわもいずれは戦場に出ることになるのでしょうか?」
ヒミコの思いつめたような表情に座の空気が変わった。
「出てもらわねばな。ヒバリと共に二人で巫術を使えば敵を圧倒できよう」
「わらわは人を殺したくはありません」
イザナギの表情にトゲが立った。代わりにヒバリが口を開く。
「ヒミコよ。味方の命を守るために敵を殺すのだぞ。それも一部だけじゃ。敵が怯んで逃げてくれればそれでいいのじゃ」
「はい……」
しかし、なおもヒミコの表情は固いままだ。そこに侍女のスズメが現れた。
「ソナ国王イワタツ様、ご子息ヤヒコ様が参られました」
「おぉ、入られよ。お待たせして申し訳なかった。食事の準備が手間取ったようじゃ」
「いいえ。このような宴にお招きいただきありがとうございます」
ヒバリが二人の客を招き入れた。こんな時はヒバリが応対をするのが常である。重ねた年季と女であるがゆえの人当たりの柔らかさが客の緊張をほぐす。先ほどの面会の折は威厳のある態度だったが、むしろこちらが本来のヒバリと言えよう。
侍女たちが各席の面々に酒を注いでいく。炊いた米を発酵させた、いわゆる『どぶろく』だ。
ヒバリは座をなごませようと客と話を続ける。
「ほうぼう回って食材を揃えましたが、お口に合いますかどうか」
「恐縮です。我ら田舎者にとっては見たこともない料理ばかりです」
実際、イワタツは驚いていた。料理を見ると山の幸や海の幸がふんだんに使われている。国の影響力が広範囲に及んでいる証だ。
一方、ヤヒコはというと、自分の左斜め前に座るヒミコの方を気にしてチラチラと視線を送っていた。ヒミコは食が進んでいないようだ。酒には全く手を付けていない。しかし、成人の儀を済ませたばかりの彼女の年齢を考えるとこれは仕方がない面はあるのだが。
ようやくヒミコが匙をとって、米を炊いた粥を口に運んだ。赤く艷やかな唇が開くと宝石のような白い歯がわずかに顔をのぞかせた。ヤヒコは思わず息を飲んだ。