第十話 卑弥弓呼
クナ国の客殿には重臣や王の家族たちが勢揃いしていた。ただ、外の賑わいとは対称的に彼らは割りと落ち着いた雰囲気の中にいる。国王イサオシの両脇でゆったりと座って微笑みを絶やさない二人の美しい王妃が優雅な雰囲気の源だろう。
向かって右の王妃は王に比べてだいぶ若い。まだ二十歳を回っていないようだ。蝶をかたどった金の髪飾りが頭に輝いている。しかし、彼女の美しさはそれに負けていない。鼻筋が通った顔立ちに艷やかな唇の美しさが映えている。そして胸にはまだ幼い子供を抱いている。その子もまた母親の美しさを受け継いだような愛らしさだ。
もう一人は三十代半ばの女性だ。彼女もまたきらびやかな髪飾りがその美しさを引き立てている。彼女の髪飾りは花の形をしており、その中央に大きな青玉が埋め込まれた豪華な作りが彼女の地位の高さを象徴している。
「陛下、今日の狩りの獲物はすべて民に分け与えてしまったそうですね。私達にもおすそ分けをいただきたかったですわ」
若い王妃は我が子の頭をなでながら王に媚びるように話しかけた。確かに彼らの前には今日の狩りの獲物は並べられていない。しかし、それでも贅を尽くしたごちそうが並んでおり、それらも決して庶民の手に入るようなものではない。
「今日の獲物は全部ヒミヒコが射たもの。そのヒミヒコが民に分け与えよというのだ。ヒミヒコの意をくんでやろうではないか」
「まぁ、そうですの? お優しいこと」
王と王妃はヒミヒコの方に目をやった。王にすれば、今回の狩りには寵姫に旨いものを食べさせて機嫌をとりたいという思惑もあったのかも知れない。王妃も王の威を借りてヒミヒコに少し皮肉を込めた言葉を投げかけたようだ。王もその気持ちを汲みとって代弁する。
「だが、ヒミヒコよ。せめて可愛い弟に食べさせてやっても良かったのではないか?」
「父上、ホマレにはまだ早いでしょう。ですが、アゲハヒメ殿。ホマレに食べさせたいというのならば部下に取りに行かせましょうか?」
「まぁ! ホマレに下々の者たちが手に取った食べ物を与えようと言うのですか!?」
妃は思わず子供を抱きしめると眉をひそめた。その口調に驚いたのか。幼いホマレが泣き声を上げ始めた。それを見て王が慌ててとりなす。
「ほれほれ。お前たちが大声を上げるからホマレが泣いてしまったではないか。よし、父が抱いてあげよう」
王はアゲハヒメの胸からホマレを預かるとあやし始めた。しかし、一度鳴き始めた幼い子供はそう簡単には泣きやまない。
「すまなかったな。驚かせてしまったか」
ヒミヒコはゆっくりと歩み寄ると王から弟を受け取った。そして泣き続けるホマレの顔を覗き込むと穏やかな笑みを浮かべた。
「よしよし。ホマレ、良い子だ。兄におまえの顔をよく見せておくれ」
すると、ホマレはピタリと泣き止んだ。それを見たもう一人の王妃、サユリヒメが微笑んだ。
「おや、ホマレはヒミヒコ兄様が好きなようね」
「母上、ホマレはずいぶんと大きくなったようですよ。ホマレ、この前よりだいぶ重くなったな」
サユリヒメはヒミヒコの産みの親だ。ヒミヒコを産み落として十七年になる。歳を重ねて気品が増した彼女からは正妃にふさわしい優美さが感じさせられる。
「それはそうでしょう。そのくらいの子は日に日に大きく成長しますよ」
「そうですか」
ヒミヒコは改めてホマレの顔を見つめた。
「ホマレ、どんどん大きくなれ。兄と共にワ国を平定しよう」
まさか兄の言葉を理解したわけではないだろうが、ホマレはキャッキャと弾けるように笑い声を上げた。
「ハハハ。アゲハヒメ殿、ホマレは賢い子ですね。私の言葉がわかるらしい」
「当然ですわ。陛下のお子ですから」
言葉とはうらはらにアゲハヒメは複雑な笑みを浮かべた。「いずれは王位に」とは口が裂けても言えないが、ヒミヒコに抱かれて笑う息子を見て素直に喜べない彼女の表情には密かな思いが見え隠れしている。
外から大きな歓声が上がった。ヒミヒコはホマレを抱いたまま窓に歩み寄った。熊の肉の調理が済んで、人々の前に運ばれてきたようだ。いくつもの大きな器の周りに人だかりができている。
「見ろ。これが我らの民だ。我らが守らなければならない笑顔だ」
ホマレの機嫌は相変わらずいい。ヒミヒコにあやされて言葉にならない笑い声をあげた。
「ハハハハ、やはり賢い。我が弟は良い片腕になりそうだ」
アゲハヒメの眉が『片腕』という言葉にやや曇った。しかし、それに誰も気づかないうちにその表情は彼女の意志で隠された。そして、そっとヒミヒコの後ろに近づいて声をかけた。
「殿下、ホマレをあやしていただきありがとうございます。そろそろ重く感じられた頃ではございませんか?」
「いや、これくらいどうということはない。だが……」
ヒミヒコは振り返ると、アゲハヒメの顔を見つめた。彼女の笑顔に先程まで見えた影はない。互いに笑顔で顔を見合わせると、ヒミヒコは自分の胸に抱いたホマレの顔に視線を移した。
「ホマレ。やはり、母の胸のほうが居心地が良いか?」
相変わらずホマレは無邪気な笑顔を見せている。ヒミヒコはアゲハヒメにホマレを預けようと差し出した。その時、
「遅くなりました」
全員の視線が声の主に集まった。王はすぐに声をかけた。
「おお、カエデ! 何をしておった。みな食べ始めたところだぞ」
「狩りの報告をミツハから聞いておりました」
「そうかそうか。今日の狩りはおまえの占いどおりだった。やはり今日は良い日だったな」
アゲハヒメは露骨に眉を寄せて嫌悪の表情を見せた。その顔を見て、またホマレが泣き始めた。仕方なくヒミヒコはもう一度ホマレを胸に抱いてあやし始めた。
「ハハハハ、ホマレはカエデが嫌いか?」
「化粧の香りを嫌ったのでございましょう。カエデは化粧が濃すぎる」
カエデはアゲハヒメの皮肉に顔色ひとつ変えない。確かに濃い化粧ではあるが、それによって肌の白さと口紅の赤の対比がより強調されて妖艶な雰囲気を醸しだしている。服装も先程ミツハから話を聞いていた時よりも更に胸元が開いているように見える。彼女が部屋に入ってきてから王の目は明らかにそこに釘付けになっている。
「奥方様、お子様に乳を与えるためにお化粧を控えねばなりませぬとは、なんともつまらない毎日でございましょう。お察しいたします」
「なんですって!」
様子が少し険悪になってきたのを見て、正妃サユリヒメがため息をついた。そして、あくまで笑顔を絶やさずに二人を制した。
「カエデ、お控えなさい。陛下の御前ですよ」
「申し訳ありません」
「サユリヒメ、さあ食べましょう。酒は飲めぬでも、ホマレのためにも良い物を食べて良い乳を出してもらわなければ」
「はい」
さすがにサユリヒメの態度には正妃としての威厳がただよっている。口論に発展しそうだった二人も大人しく引き下がった。
ヒミヒコはホマレをアゲハヒメに返すとカエデに話しかけた。
「ミツハは何と?」
カエデは微かに眉を動かした。しかし、すぐに笑顔に替えてそれを打ち消す。
「殿下から弓を褒美に賜ったとうかがいました。ミツハに代わりお礼を申し上げます」
「よい。もっと良い物をやりたかったのだが、手元にあるのがあれしかなかった」
「弓の名手の殿下からご自身の弓をいただくなど、見に余る光栄。ミツハも大変喜んでおります」
「カエデ、ミツハは肝がすわっているようだ。見どころがある。大切に育てよ」
「はい」
二人の会話を聞いて、王も満足気にうなずいた。
「それよ。ヒミヒコの弓は見事なものだった。まさに弓の名手。ここからあの広場、いや、もっとあるか。とにかく遥か遠くに見えた熊を一矢で仕留めおった。ワシなどは熊の影しか見えなかったぞ」
王は弓を引くまねをすると、その場にいる一同の前でヒミヒコの弓の腕前をたたえた。
「ハハハハ。父上、よしてください。そんなに遠くはありませんでした。それよりも、カエデ。おまえも飲め。今日は狩りの祝だ」
「はい。遠慮なくいただきます」
カエデは軽く会釈して与えられた席についた。これでクナ国を支える主だった王族、重臣が一同に揃ったことになる。国王イサオシは揃った面々を見回してから声を発した。
「皆よく聞け。ワシは決めた。ヒミヒコの弓の腕はそなた達も知っておろう。今日を期にヒミヒコは名をヒミクコに改めよ。秀でた弓の御子、ヒミクコじゃ」
ヒミヒコは苦笑した。
「父上、お戯れが過ぎますぞ。今さら名前など……」
しかし、重臣たちは一斉に立ち上がると賛同し始めた。
「それはよろしゅうございます」
「今日からヒミクコ様ですね」
「おめでとうございます、ヒミクコ様」
ヒミヒコも断るわけにもいかなくなってきた。最後の頼みの綱とばかりにカエデに話しかけた。
「で、どうなのだ? カエデ、『ヒミクコ』という名は良い名か?」
「秀でた弓の御子……悪い名なわけがございません」
これにはヒミヒコも引き下がるしかない。
「父上のお考えではあるし、お前たちもそう言うからには受け入れよう。今日から私の名前はヒミクコだ」
こうして後のクナ国の王、ヒミクコが世に現れた。彼こそが後の世に女王となったヒミコの生涯の宿敵となる男である。中国の歴史書『魏書 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条(いわゆる『魏志倭人伝』)』には『卑弥弓呼』と記されている。
卑弥弓呼……困ります
主人公であり、ヒロインでもある卑弥呼とライバルの名前があまりにも紛らわしい
でも、魏志倭人伝にはそう書いてある。
『ヒミココ』と考える専門家の方が多いようです。ますます困ります。
かと言って、『ヒミキュコ』では語呂が悪い。
仕方なく『ヒミクコ』にしたんですが、良い読み方があったら変えるかもしれません。