第三章9
エメリーヌのところへ向かったフランを待って幾許かの時間が経った頃、中庭に一つの人影が音もなく入ってくる。明かりを灯すことなく闇に慣らしていたおかげで、月明かりだけでもそれが誰かはっきりと判別できた。
三人全員で帰ってきた仲間を迎えるために立ち上がり、中庭へと向かう。丁度俺たちが中庭へ出る扉の前にきたあたりでそれが開き、フランが中へと入ってきた。
「おかえり、フラン」
「た、ただいま戻りました、旦那様……」
近づくとわかったが、フランの顔が何故か赤かった。この家からエメリーヌの屋敷まで結構な距離があることは知っているが、今のフランの身体能力でそれほど疲労するほどだろうか。
それに、何故かちらちらと盗み見るように俺を見ている。
「どうしたフラン、何かあったか?」
「いえ、何も……はぁ、隠しても仕方ないですね。その、なんと言いますか……」
もじもじとするフランに、俺たち三人は顔を見合わせて首を傾げた。
意を決したように顔をあげたフランは、自分の手を抱きしめるように握りながらぎゅっと目を瞑り、吐き出すように己の思いを言葉にする。
「え、エメリーヌ様に、旦那様の腕の中にいるときだけは、私のこの身も心も旦那様のものであるという旨のことを、勢いで言ってしまいまして……!」
言いながら、瞑っていた目を開き、ちらりと俺を見ると益々赤くなる顔を背けた。
横目でこちらを見ながら、次いで恥ずかしげにぽつぽつと言葉を零す。
「そ、それで、旦那様を前にしたら今更恥ずかしくなって、しまいまして……」
徐々に言葉が小さくなっていき、最後には項垂れてぎゅっとスカートを掴んでしまった。品の良い黒と白のロングスカートに僅かに皺が寄る。
仕事着に自ら皺を作る。普段なら決してしないことだ。つまり彼はそれだけ本気で、一時とはいえ自身の全ては仕えている主のものではなく俺のものになるとその主本人に宣言してみせて、それを恥ずかしがっているということになる。
「フラン、おいで」
「だ、旦那様……? あの、え、なにを……」
優しい声音になるように意識して、彼を呼ぶ。戸惑っている彼の手をとり引き寄せ、腕の中にそっとおさめた。そのまま後頭部を手を添えるようにして撫でる。
すると、狼狽して僅かに体を暴れさせていたのが嘘のようにフランは大人しくなった。俺の胸元に頭を預けて、そっと背中に手をまわしてくる。
「そんなになるほど本気で、従者だというのに主に向かってそう宣言してくれたんだろう。嬉しく思わないわけがない。エメリーヌには、少しだけ悪い気もするけどな」
「……大丈夫です。エメリーヌ様も許してくださいますよ」
「へぇ、自信満々だな。どうしてか聞いてもいいのか?」
「えぇ……だって、エメリーヌ様も旦那様に抱き締められれば、そのときは私の主ではなく旦那様の女になっているでしょうから。それならば、お相子です」
そう言ってフランはくすりと笑う。なるほど、どうやら俺の立場は責任重大らしい。固い絆で結ばれていた主従を、そのどちらからも奪ってしまった。そしてそれを良しとするには、どちらをこの腕に抱くときも幸せにしなければならない。
今更の話だった。自身を神と嘯き信徒を得ることを決めたときから、その信徒たちを不幸にするつもりなどさらさらない。
偶然にも奇跡の力を得たからと神を名乗ったただの男についてきてくれることを決めた人たちを幸せにする。せめてそれくらいはしなければならないことは、最初から理解していた。
だからこそ、今はフランのことを強く抱き締める。この腕の中にいる間、幸福だと思ってもらえるように、その首筋や頬を柔らかな手つきで撫でながら。
「なら、ちゃんとお相子になるように、今はお前を俺だけのものにしないとな」
「ん、はい……今だけは、私はあなただけのものです、旦那様」
幸せそうにすりすりと頬を俺の胸板に擦りつけるフランを見て安堵する。俺はちゃんと彼らに報いることができていることを実感した。
ふと背後に視線を感じて、ちらりと視線を向ける。クロエは羨ましげに指を咥えてこちらを見つめている。そういう仕草をするから、背丈と相まって大人であることをつい忘れるのだ。
そしてその横。にこやかな表情でこちらを観察しているアリス。そこに怒りの感情など欠片もないことは知っている。しかしだからこそ、背筋が震えた。
今アリスは如何にしてフランが俺の琴線に触れたのか分析しているのだ。日々の鍛錬で彼女がどれだけ細やかな試行錯誤を繰り返しているのかを思い出すと、現在行なっていることも似たようなものなのだろうと予測できた。
「す、すみません……お二人の前なのに……」
「いや、あんなことを言われたら、応えないわけにもいかないからな。俺の性分のせいだ。フランは悪くないぞ。二人とも悪かった、放置してしまって」
俺の言葉にアリスはいえいえと首を横に振る。クロエはと言えばててーっと走ってきて俺の手をとり、自分の頬にそれを押し当てた。すりすりとそのまま数度頬ずり。
ぺったりと頬と手のひらをくっつけたまま瞳を閉じて数秒。むふーっと満足気に息を吐き出すと漸く手から頬が離れた。未だ掴まれたままではあるが。
「ん、これでボクは大丈夫です」
「俺が言ったら駄目だろうが、悪い、言わせてくれ。安くないか?」
「とんでもない、リクさんはご自身の手の価値をもっとよく理解したほうがいいですよ。ドワーフからすれば魔法の手です。そしてボクにとっては世界で一番愛しい人の手ですから」
最早何も言えない。俺が黙ってしまうとクロエは小さく笑って、最後に俺の手にキスを落とした。その仕草に思わず心臓が跳ねる。やだ、手を離す動きまで軽やかでイケメン。
ここまで言われて何か言い返すことができたらそれは勇者だ。そんなことないだろうと否定できる奴がいるのならしてみてくれ。もしいたら彼女曰く魔法の手で俺がぶん殴るが。
クロエの意外な一面に混乱していると、視界の端でアリスが俺たちの様子を見ながら頷いているのが見えた。もしかしてアリスの入れ知恵だったのだろうか。
アリスのもとへ歩いていったクロエがなにやらハイタッチをしている。どうやら本当にそうだったらしい。彼女たちは日々進化しているな、色々な意味で。
そのアリスはといえば、クロエとハイタッチを交わしたあと、こんなことを言う。
「因みに私は、既に色々と貰ったので、大丈夫ですよ。リク様を喜ばせる手法を学んで今後に活かし、新しいものも思いつけそうですし……ふふ、楽しみにしていてください?」
唇に指を当ててゆっくりと近づき、挑発するようにこちらを見上げてくる。三日月を思わせる笑みと、細められた瞳。幼い容貌に浮かぶ妖しい艶っぽさ。見上げるときに僅かに首が傾げられて、さらりと流れた金髪が俺を誘っているようにすら感じてしまう。
その仕草と表情に、先ほどとは違う意味で背中がゾクゾクと震えた。頭に血があがってきたように僅かに体が熱を持つ。いつも思うが魅惑の魔法でも使われているのだろうか。
しかし、頭を軽く振るってその感覚を振り払う。このままアリスの言葉に……そう、甘えてしまうのは駄目だと思ったからだ。
というよりも、このままだと彼女だけ除け者にするようで俺が嫌だった。挑発するような笑みを浮かべているアリスに近づき、その肩に手を添える。
「リク様……? あ、あの、この挑発は今後のためのものであって、今何かをしていただく必要はなくてですね……いえ、してほしくないというわけではないのですが、んむっ⁉」
急に表情を崩してしどろもどろになってしまったアリスの顎に手を添える。そのまま上を向かせてその口を塞いだ。一瞬目を見開き、すぐに呆けたようにとろりと蕩ける。
暴れていた腕もくたりと脱力してしまっていた。喉がこくり、こくりとゆっくりと動いている。しばらくそのまま唇を重ね、離した頃にはアリスはふらふらとしていた。




